深い眠りの底に聞こえて来たのは、幼子の泣き声だった。
「薔薇の泡沫」
気付くと、花畑に自分は立っていた。
見渡す限りそこにあるのは、珍しい一重咲きのミニチュア・ローズ…。
…たしか名は、フェアリー・ウィングと言ったか…。
蕾は淡いクリーム色をしているが、開花とともに純白色へと変化する可憐な薔薇。
花付きが良いのとそのほのかな香りで、彼が気に入っている薔薇の一つであった。
それを知って、つい本で調べてしまった自分がいた。
白薔薇で一重咲きの花言葉は、『純粋』。
その言葉は、彼そのものを表していた。
ふと、風が吹く。
その風は優しく、まるで薔薇達を撫でる様に吹いた。
そして、それに答える様に小さい花達はその身を揺らす。
穏やかで、暖かい風景。
…だが、ライエルは違和感を覚えた。
寂しさを感じるのは何故だろう…?
突然、胸を締付けられるほどの切なさが込み上げて来る。
…泣いている…。
捜し出さなくてはと、何故だか心が騒いだ。
それは、自分がしなくてはいけない事だと…。
この花畑の何処かにいるまだ見ぬ幼子の姿を求めて、ライエルは足を進める。
白薔薇の小さな花達を掻き分けて…。
小さな花弁は散り、その様はまるで羽根の様に舞った。
どれだけ歩いたのか…。
それが分かる物は、周りにはない。
ただ白い世界を歩く。
存在するのは、薔薇と自分だけの世界…。
永遠に続いていそうな錯覚に陥ってしまう。
だが、その瞳は異変を捕らえた。
「………」
いつの間にか、周囲の景色が変わっていたのだ。
足元に広がっていた白き小さな花達は姿を消し、鋭い棘を持った荊がライエルの足に絡みついている。
「…これは?」
鮮やかに咲き誇る真紅の薔薇。
それはまるで何かを守る様に蔦を絡め合い、行く手を塞いでいた。
見ると、いつ傷を負ったのか、着衣には己の血であろう赤い染みが出来ている。
だが、耳を澄ませば聞こえるその泣き声はやむ事はなく、…呼んでいた。
ライエルは、躊躇う事無く足を進めた。
たとえ己が傷付いてでも、そこに辿り着かなくてはならないと感じたからだ…。
…何のために?
だが、誰も答えるものはなく、その答えのためにも進まねばならなかった。
進む度に傷を負い、赤い薔薇が舞い散る。
強い香りと出血の為か感覚は麻痺して行き、その棘は毒を持っているのか、視界も翳んできた。
それでも…。
ライエルには、進むべき道は分かっていた。
その証拠に、声は確実に近くなっており、荊もその攻撃を強めていた。
とうにその荊は身長を超え、足だけでは飽き足らなかったのか彼の全身へとその蔦を絡めてくる。
その力は、まるで血を欲しがる死人の様に激しく傷を付けて行く。
だが、そんな事に構っていられるほど彼は寛大ではない。
いつもならその剣で道を開いていただろう。
しかし、今この手にはそれは握られていない。
ならば…。
この身を武器とすれば良い。
たとえ肉を?がれたとしても…。
彼への傷は、一層その深みを増していった。
「………」
緩んだ。
確かに一瞬だったが、塞ぐ荊が緩んだ。
「……っふ…、…ひっく…」
やっと、耳で捕らえた。
その声を…。
「……だ…だれ…?」
ライエルにとってその声は、姿を見ずとも分かった。
忘れるはずもなく、聞き間違えることもない。
たとえその声が、幼子のものであったとしても。
「カーマインッ!!」
彼の名を叫んだとたん、絡みついていた荊が震えた。
…震えたのだろう。そう、カーマインが。
それが分かり、ライエルは今すぐにでも駆け寄りたい衝動に駆られた。
「………だれ?」
締付けていた荊が力を緩めたため、駆け寄るまでは行かないものの、彼の元へと辿り着く事が出来た。
カーマインは、東屋のような場所のベンチに座っていた。…10歳ほどの少年の姿で…。
「…………だれ…?」
振り返った彼は、怯えた目で涙を流していた。
「…カーマイン…」
近付こうと、一歩足を進める。
だが荊は、なおもライエルの体を離す事はしなかった。
カーマインの心が、…そうしているのだろう。
この棘は、彼の心を守る為の柵だったのだ。
ならば、ライエルにはこれ以上傷つける事は出来ない…。
身動きが取れなくなった体を置いて、その腕を彼へと差し出す。
だが、届く事もなく、ましてや彼はその手を取る筈も無かった。
「…どうして泣いている…?」
震える肩を抱いてやりたくて…。
流れる涙を拭ってやりたくて…。
だがそれは叶わず、ライエルは唇をかみ締める。
いつもそうだ。
彼はいつも一人、身を震わせ涙を零している。
分かっていたのに…。
どうする事も出来ない。
何故なら、彼が望んでいないからだ。
受け入れられる事。
…許される事。
愛される事…。
守りたいのに、彼はそれすらも許してはくれない。
「カーマイン…」
「……いや……」
鮮血に染まった腕に怯え、目も合わす事も無い。
頭を抱え、小さく震える彼のその姿はか弱く、今にも折れてしまいそうな小さな花の様だ…。
彼の拒否。
己の想い。
交わる事のない相反する二人の感情…。
突然、怒りに似た感情がわき上がってきた事に、ライエルは気付いた。
その感情を止める事も出来ずに、身動きを封じる荊を力任せに引き千切る。
「あうっ!!」
同時に、彼は苦痛に顔を歪めた。
衝撃に体を庇う。
だが、その姿を見ても、ライエルには己の激しい感情を抑える事ができない…。
傷付いた荊は敵に恐怖したのか、その体を開放した。
己の激情に身を任せ、ライエルはその震える腕を引き寄せる。
「やぁっ!!…やだ…」
恐怖からか、嫌悪感からか、小さな少年は激しく暴れる。
だが、幼い体は難無く抱き抱えられ、抵抗は無意味と化す。
それなのに…、カーマインはその拒絶は止めようとはしなかった。
それが逆に腹立たしく、回した腕の力を強める。
「…カーマイン…。どうして、お前は…」
いっそこのままこの腕で、その華奢な肢体を壊してしまいたい…。そんな衝動に駆られた。
力を強めると、今にもその節々が悲鳴を上げようとするのが、肌で感じられた。
…その瞬間。
言い知れぬ感情が、芽生えた。
…このまま…。
まるで、それは薔薇の香りの様に甘く…。
「……いいよ……」
その声に、我に返る。
強められていた腕を緩め、その姿を見た。
「…お前になら、かまわない」
目の前で微笑むのは、愛しい顔…。
見つめるその瞳には涙はなく、慈愛を感じられるほど優しく自分の姿を写していた。
「さあ…」
柔らかな声。
なのに、体が震えるのは何故だろう。
「ライエル」
彼は、まるで聖母の様に微笑を浮かべ、震える手を取る。
自分は何に怯えているのか…?
すぐに答えは見つかった。
「…カーマイン…」
カーマインは、そのまま手を己の首へと当てる。
力を入れれば、この細い首はいとも簡単に折れるであろう。
突然、冷たいものがライエルの背筋に走った。
「いいんだ。…お前が」
その瞳は、あの日心を奪われたあの時の色を秘めていた。
カーマインはそのままゆっくりと目を閉じ、身を任せる。
彼の望み…。
知っていた。気付きたく…なくても…。
彼は、世界を救った「英雄」になった日、人を殺めた「罪人」にもなっていたのだ。
「罪人」は、それ相応の罰を受けなくてはならない…。
そう、親友を殺した償いに、ライエルを選んだのだ。
「処刑人」として…。
静かに目を閉じたその表情は、安らかで穢れない…。
美しすぎる面立ちは、まるで純白の薔薇…。
そう、彼はあの一重咲きの白薔薇なのだ。
優しく、そして弱い花。
だが、こちらが心をこめ丹精に手をかけてやると、それは美しく優しく微笑む…。
自分が見たいのは、涙に濡れる彼ではなく、穏やかに目を閉じる彼でもない。
…美しく可憐に咲く、微笑み…。
気付くと、ライエルは涙の後に口付けをしていた。
その事に彼は驚き、閉じていた目を見開いて己の上にかぶさる男の顔を見た。
それに微笑むと、もう一方にも口付けをしようと顔を近づける。
「ラ、ライエル!?」
カーマインは、…やっぱり、もがいた。
慌てる彼の姿に、思わず吹き出してしまう。
肩を震わし笑うライエルに対し、彼はその整った顔を真っ赤に染め、睨む。
「…ライエル…、…ふざけるな」
感情を、心を凍らせ、その手にかかる事を望んだのに、彼はいつも裏切る。
何も、分かっていない…。
そう思うと、無性に腹が立ってくる。
体を起こし、ライエルを睨むその目付きは、剣を握るその時の表情。
鋭く、人を魅了してやまない魔剣のように、…美しい…。
だが、ライエルにとってはその瞳も愛しいものと映っていた。
「ふざけてなど、いない」
彼が何を思って自分を睨んでいるのか分かりきっていたが、もうライエルは引くつもりはなかった。
それが分かったのか、カーマインはその強い声に体を震わした。
「私は、カーマイン…、お前を…」
「言うなっ!!」
分かっている。…その続きは…。
だが、カーマインは、続く言葉が聞きたくなくて、耳を塞いだ。
「だめだ…」
…許されるはずがない。
カーマイン自身も、許されようとは思っていないのだ。
だが…。
一瞬、本当の気持ちが姿を現した事に、カーマインは気付いた。
我に返った彼は、それを否定するように、小さな少年のように頭を振る。
全ての、拒否。
そんなカーマインの姿に、ライエルは一瞬戸惑う。
だが、もういつもの様には出来ない…。
そう、気持ちを殺す事など…。
そっと近付くと、ライエルは背後から彼の体を優しく抱きしめる。
「…もう、抑える事など出来ない…」
呟きは、果たして彼に届いたのか?
背中からでは、表情を確認する事は出来なかった。
だが、強張っていたカーマインの体が、少し和らいだのが感じられた。
優しく、耳を塞ぐその手を解く。
「カーマイン…」
暖かく抱きしめられ、耳元で囁かれてしまうと、何も考えられなくなってしまう。
その低音の甘い声は、とても心地よすぎて…。
もう過去など、どうでもよくなってしまう…。
「…カーマイン」
今、愛しい人が腕の中に居る事が信じられないのか、その存在を確かめるように何度も名を口にする。
その度、胸の奥が熱くなり、体が応える様に火照る。
だがそれは、ライエルだけではなかった。
カーマインも耳元で囁かれる度、嘗められたかのような感覚が体を走るのを覚えた…。
「…ラ…イエル…」
…これは夢なのだろう。
現実ではありえない、二人の距離…。
ならば…。
恐る恐る、カーマインは自由になった手をライエルへと回す。
それには一瞬驚いたが、ライエルも素直にその手に口付けた。
「…カーマイン…」
心地よい風が吹き、辺りは薔薇の香りに包まれる。
その甘い香りに酔いしれ、二人は口を重ねた…。
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綺月さんに許可をもらったので、ただいま続きを製作中です。
ちょっと、ギャク調になると思いますが、また甘い話です。
すみません、こんな物しか書けなくて…。
また、書き終わり次第報告しますので、よろしくお願いします。
毎度ですが、受け取ってくださいvv