皮膚に出来るシミのように、ぽつりと色の濃い部分。
鉄の灰色を黒へと押し上げる。
地面の土の色を、黒へと押し上げる。
けれど、この手に、この自らの手に落ちた時だけは、赤い色を和らげた。
雨が降る。
五指を開いて受け止める気にもなれない。
いつ降り出したのか分からない自分には空へ対する冒涜のような気がするから。
雨と混ざった返り血が、潤沢を悦んで皮膚の溝を伝っていく。
しかし前進を阻むように、また一滴。
紅い色が透明な液体に圧されていく。
完全に色が失われる前に剣を振った。
腕を振った振動のせいで、手も身体も、足も震えた。
天の高笑いが弾けて、うるさい。
真昼を被せてくるような白い光の後、轟音。
後ろを確かめたくなるような雷。
そういえば、これに当たって死ぬのが先か。
目の前の人達に殺されるのが先か。
そんなことも忘れていた自分自身は、死ぬ気がないのか。
先陣、失格。
相手は、ただ対峙しただけで、自分が死ぬ未来を予感させてくれる者達。
同じ直線に立っていることが信じられなくなるほどの。
誰かが泣く確率が上がる。
それは自分かもしれない。
もし仲間や妹や友人が彼らに殺されたら自分はこの雨よりも酷く泣くし、この雷よりも悲鳴を轟かせる自信がある。
身構えるつもりで立ち位置を変えた。
足が一歩下がったことに戦慄する。
無意識の身体は逃げたがる。
意志と心だけで立ち向かうのは、これが初めての経験。
造られた橋は自分を許さず固いまま。
いっそこの石の地面が真ん中から割れれば。
そして次に一瞬だけ行った瞬きの間に自分の考えを素早く否定する。
割れて橋が落ちてどうなる。
戦争は続く。
ローランディアに降伏するつもりはない。バーンシュタインも退かない。
あのインペリアル・ナイツ達は祖国に背かない。
今も、オスカー・リーヴスに弄ばれたばかりで、プレッシャーの只中にいた。
オスカー・リーヴスは「僕はここから動かない」と何のつもりか分からない信用も出来ない口約束をして見せた。
力の差が歴然な相手に対して特に意味もないハンデ。
別に制約の魔法を掛けたわけではない。
動こうと思えば動ける相手への攻撃は、疲れた。
だから、雨がいつ降ったのか分からなかった。
向かってくる自分だけを相手にして、他の者には手を出そうとしないオスカー・リーヴスという名の
インペリアル・ナイツは微笑みながらこちらの覚悟を遊んだ。
何よりその瞳は、自分の安心を読んでいた。
次第に口元からは笑みが消え、オスカーの両目は突き放す物に変わっていく。
馬鹿にされたくなければ変われ。と。
赤子から青年まで一気に成長しろと言われているかのような破綻を、押しつけられた気がした。
オスカーの武器を受け止め押し返した時でさえ、「やればできるじゃないか」という表情すら見せなかった敵。
この男は途方もなく理想が高いなと、溜息を吐きたくなった。
相対する者にさえ求めるか。強さを。
呆れるほどの強情さで、インペリアルナイトの膝はその場に崩れた。
………それからすぐに何かが起こることを自分は半ば予知していた。
顎を上げて空を見る。
目のすぐ下で雨粒が音を立てた。
その音と、同時に爆ぜた何かの魔法が、自分とオスカー・リーヴスの間を割った。
元より、手加減をしてくれた相手に追い撃ちをかけるつもりなど無い。
威嚇よりももっと儚い威力で、ただ降り立つだけの場所を確保するために、鉄橋の地面は薄く抉られた。
目の辺りを庇って上げた腕を降ろしたときには、もうそこにその人物はいた。
認識されるのを待っていたようだ。
視線が合うとすぐに微笑んで首をゆっくり斜めに倒す。
こちらの顔が強張るのと同じ速度で和らぐ双眸。
誘われる。
このまま腰を折られてどこかへ連れて行かれる。
そんな錯覚を催させる。
さながら雨絶えぬ世界の王。
軽く腕を組んでいるだけでこの場所全てを征服している。
距離は数十歩。オスカーよりも近い。
オスカーは真顔で、心の無い瞳をしている。
これ以上ない味方の増援なのに欠片も喜んでいない。
「気は済んだか」
視線を動かさずに現れた男が言う。
自分を見ているのに。問いかけは明らかにオスカーに向けて。
しかし紅い瞳がずっと覗き込んでくる。錯覚しそうだ。瞳を逸らせない。
冷厳だと言われているが。優しげにさえ見える。
それはこちらの願望であり、隙だ。
闘う相手に優しさを期待するのは、抱えている恐怖の証。
目を合わせるな、動揺を読まれるな。
それでも目は極上の勘違いをし続けて、戦慄する。
その瞳に情が見えるなど。一番狂ってはいけないところで狂いかけてる。
ゆっくりとオスカーが身を起こし始め、その緩やかでぎこちない速度を目のあたりにしてアーネスト・ライエルは
小さく声を立てて笑った。
オスカーはようやく苦笑いを見せる。
彼らが世界の中心。
空が光っても、彼ら二人の輝きの方がずっと強い。
あの身体にもためらいなく降る雨は命知らずだ。馬鹿な。
オスカーから目を外し、やはりこっちを見据えたアーネストは、何か言葉を考える顔でうつむきながら1度目を閉じ、
顎を上げてあっさり開く。
何か言いかけたとき、オスカーに話しかけられた。
「君。そういえば休暇中じゃないか。こんなところで何してるんだい」
アーネストは心外だと言わんばかりに眉を上げた。
「休暇を取っている」
「取って、いる」
呟き返し、付き合いきれないと片手を上げ、オスカーは背を向ける。
立ち去りかける足取りはしっかりしている。
恐らく闘おうと思えばまだ充分闘える。
アーネストに譲ったのか、それとも彼の中の「敗北」は常人と基準が違うのか。
「君の趣味は」
一音一音強い。
「高尚過ぎて、もう目障り」
背中で言われ、アーネストは肩をすくめた。
こちらに同意を求めるように唇を薄く開いて笑いかけてくる。
同じように笑みを返し機嫌を伺いたくなるのは、純然たる魅力のせいか、屈服するかもしれない己の精神に
原因があるのか。
瞳を閉じて輝きから逃げる。
瞳の脇、鼻の筋を雨水が伝う。
アーネスト・ライエルというインペリアル・ナイトと相見えるのはこれが最初だ。死んでしまえば最初で最後だ。
けれど絶対にそうならない自信がある。
視界が開けないうちに剣を構えて腰を落とす。
瞼の向こうが白く広く滲んだのは、また一瞬だけ空が瞬きをしたせいだ。
瞼を動かすだけで音も鳴り雷も走るのなら、空はその多大なる影響力のせいで迂闊に顔色を変えることも出来ない。
そして、自分の目の前にいる相手も、そういう男だ。
「ただの時間稼ぎだ。仲間が逃げるまでの」
後方から声がした。ウォレスの静かな口調はこれが危機だと踏んではいない。
「分かってる。俺が行く」
「凌げばいい」
閉ざされた視界でも、首を捻って振り返るオスカーの顔が見えるようだ。
頷くと頬や首筋に貼りついた髪の毛から雫が垂れた。
この天候は邪魔ではない。
最悪、橋の下に投げ込まれてもどうせもうこの身体は濡れているから好都合。
こんな状況で相手の手の内をほんの少しでも知ることが出来るというのなら、この時間は幸運すぎる。
目を開けてみると不思議なことにオスカーと目が合った。
アーネストの背後、そうあまり離れていないところで肩越しに振り返ったままこちらを見ている。
今、軽く顎を引いたように見えたのは気のせいか。
雨粒が煩わしいのか眩しそうに眼を細めて、振り切るように前を向いた。
少し身を屈めて歩き出す姿。
自分の視界から、それを遮ったのは紅い衣装のアーネスト。
彼は横に一歩足を踏み出し、両手を腰の後ろに下げた。
腕と足の両脇から、交差した二本の長剣の先が孤を描いて現れる。白く煌めく。
一太刀でも二太刀でも。
魅せてくれるか?
踏みきる足は分からなかった。間合いも問題にはならない。武器の尺から射程距離の広さは覚悟していた。
だから接近戦に持ち込むべきだと把握していた。それが向こうから一気に詰められるとは予想もしていなかった。
そしてあの長剣が接近戦でどのように動くかなどと全て予想を超えていた。何より相手の剣にはまだ柄が残っていた。
煌めいたと思われたのは刃ではなくこの憎い空の方。柄がついているのだから剣のどこでも持つことができる。
それならば間合いなどは関係ない。斬る、刺すでは無い。単純な打撲を狙われるのは、戦争だからこその計算外。
もともと時間稼ぎだと分かっていて、念を押されてもいたのだから卑怯だとは罵れない。そんな資格はない。
有利なのだ。こちらは抜き身。だが剣ではなく棒相手には目眩がする。
剣ではないと分からせるためか、一度受け止めさせてからアーネストは持ち方を変える。
瞬きを何度も繰り返しながら体勢を立て直すこっちの顔を見てか、浅く息を吐いて笑った。右に一撃。剣で弾く。
左に一撃。身体を傾けてかわす。上と左へ続けざまに来る。頭を庇い、くぐり抜けたところで剣を振って跳ね返す。
今度は下に。足下を狙われる。足を上げてかわしても良いのだが、読まれたように斜め左からもう片方が来る。
右だ。橋の縁に飛びつくように逃げる。背後から来る気配。誰かの高く短い悲鳴。勘で剣を振り掲げる。
腕が痺れるほどの重量が掛かり、思わず顔が歪む。遠慮なく次が来て転がるように橋の真ん中に逃げる。
今まで自分がすがりついていた石の柵が砕ける。当たらないと分かっているから加減しない力の末路。
新たな攻撃に迎えられ、頭上で剣を水平にして持ちこたえる。いつ逆手と上手で持ち替えているのかと疑いたくなるほ
どの素早さで二剣は舞い込む。すれすれで避けざるを得ないからところどころで擦れる音がする。
いつ判断を誤って絡み取られるか分からない。動けるだけ動かされて、それもこちらの行動の限界を見透かされている
かのように。
一度、わざとらしい脇からの振り下ろしが来てそちらを睨みながら素手で受け止めた。
受け止めさせたような、それでもギリギリの速度だったが。渾身の握力を右手に宿らせ、動きを封じた所につまらない
セオリー通りの左斜め上方からの一打。
軽く剣で受け止める。堪え、切れる、寸前の力。先ほど、石の橋を砕いて見せたあの力を抑えながら。
肩とは言わず全身で息をしながらも歯を食いしばり顎を上げてアーネストに視線を飛ばす。もしもこれでまだ
アーネス ト・ライエルが笑っているのなら、自分はもう雷に打たれて死んだ方が良い。国の戦力には到底なれない。
息づかいと疲労で視界がブレる。
身体から放たれる蒸気のせいで白いのかもしれない。
雷も、雨も、今日は白いのばかりだ。
アーネスト・ライエルは深い溜息を吐いたようだった。
こちらを、叱るような瞳。
強情の過ぎる子供。我が儘な恋人。
唇は結ばれていたし、瞳には愉快さの片鱗もない。
こんなに滲んだ世界で、何故彼の顔だけがくっきりと鮮明に映るのだろう、自分には。
呼吸が落ち着くほどの時間が流れた。
不意に掴んでいた剣が引かれ、慌てて掴み直す。
滑りかけたが何とか奪還を阻止することに成功した。
アーネストは思案げに一息つくとふと、右の辺りを気にする素振りを見せる。
彼がちょうど目をやった辺りから爆発が起きた。
不肖の妹の魔法。
今まで後方に仲間がいたことを忘れていて、しかも、さっきまで仲間のことなど忘れたままで避けたり転がったり受け
止めたりしていたのに。
今更大丈夫だったのだろうかと思う。ウォレスが居たから大丈夫だろうと思い直す。
ルイセも隙に乗じて魔法をかけるぐらいの元気はあるのだからと気づく。
威力よりも爆煙のほうが多い。その煙の中から、あの瞬間に取り戻した武器を掲げてアーネスト・ライエルが
飛び出る。
こちらもその胴を目掛けて剣を走らせた。
向こうはどうか分からないが、自分はほとんど反射による動きだった。
向こうがどうなのか分かったのはそのすぐ後。
自分もアーネスト・ライエルも武器を重ねて止まったわけではない。
この剣と、間近で見ると少し傷がついていたあの柄付きの長剣は、ぶつかって音を立てることもなく空中で止まった。
その時、同じ呼吸をしたと感じた。後から考えても。どう考えても。
息を吸って、吐く間に。
武器を戻して、身体を退いた。
闘わないつもりなど無かった。
何のために自分がここに来て、ここに居るのか。知っていた。
アーネスト・ライエルが片手を掲げ、自分はその場から踵を返した。
後ろでグローシュが集まっていく感覚に後頭部の髪だけが誘われて浮いていく。
返礼は、強力な、未だかつて見たこともない魔法だった。
皆に庇われて護られたルイセと、彼女と同じ学院に通う少女だけが異様に興奮していた。
魔法発動と共にアーネスト・ライエルは姿を消し、オスカー・リーヴスもバーンシュタイン軍の誰も残ってはいなかった。
この橋の占拠は完了した。
勝った気がまるでしない方法で。
喜びに沸く橋の上で座り込む。
抉れた地面を見つめて手のひらで撫でる。
灰色の石の粒が指先について、その上に雨が落ちた。
手首の辺りで頬を拭って、肩を落とす。
殺されなかった。やっと実感できた。
立ち上がるのは嫌だったのにウォレスに引っ張り上げられた。
強くなってきた雨に目を細め、橋の向こうに続く道へと視線を向ける。
まだ続く。
その先にも、彼らは居る。
ゆっくりと橋の先まで歩いてみた。 END.
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