時には。
不安でどうしようもなくなる事もある。
君も、俺も――――








囚われた狼、逃げられない羊







静かな部屋。風がそよぐ音すら届く。
そしてその風に煽られて宙に舞うカーテンのそれと、ぱらぱら捲られていく書類の音。
たったそれだけの音しかしない部屋。無音と言っても差し支えはないだろう。

しかし。
その部屋の主である青年の耳にだけは煩いくらい響く音が存在している。
執務用の机と椅子、それから参考文献の本棚、来客用のテーブルとソファ、茶器の収納された
食器棚、更に奥に続く扉の先にある簡易な仮眠用の寝台。必要最低限なものだけ置かれた室内で、
中でも使用頻度の高い執務用の椅子に青年は身を沈めていた。否、沈められていた。
細い肢体の真上に、覆い尽くすほど大きな肢体が乗っているから。そのせいで、青年の耳には
バクバクと煩いくらい自己の奏でる心音が届く。自身の体内で喚くそれは耳を塞いだところで
消える筈もなく。ただ、どうにかしようにもどうにもならない現実にふっと溜息を吐く。

「・・・・・アー、ネスト・・・・ッ」

無駄と分かりつつも、青年は自分に圧し掛かっている男の名を呼んでみた。
しかし掠れた必死の態の声に何の反応も返らない。それはまるで屍のようにピクリとも動かず。
ただただ、生々しい体温と重みがそこにあるだけで。何だか泣きたくなるような衝動に駆られるが、
そんな事をしてもきっと無意味だろうと青年は目を伏せ、もう一度溜息。

「もう、どうしろって言うんだ・・・・・」

はらりと白い頬へかかる銀の髪が擽ったくて顔を逸らすがしかし、身じろいだせいで今度は首筋に
触れる柔らかなものの感触に更に心音が高まるのを感じる。何とか気を逸らそうと、こうなった経緯でも
思い出してみるか、そう思い青年は瞳を伏せたまま数時間前の記憶を辿った。






◆◇◆◇◆







アーネストに恩赦が下り、仕事に復帰してから早数ヶ月。
休んでいた分と、罪の意識から以前以上に懸命に職務をこなしていた彼と顔を合わせるのは
もう随分と久しい。だがしかし、彼がオフだからといって俺もそうかといえば、・・・・違う。
彼の相手をするために机に詰まれた書類の束を出来うる限りの早さで片付けていく。しかしその途中。

「カーマイン・・・・」

ペン先が紙を掠める音に不意に混じる低音。
それに少しの甘さが足されていると思うのは、恐らく俺の気のせいじゃない。
いつも、大事に想ってくれている事を知っているから。それが少し擽ったくて、でも嫌じゃなくて。
口にする事は殆どないけれど、嬉しくて。だから、本当は一秒でも早く仕事を切り上げてしまいたい。
まっすぐに緋色の瞳を見て、時折垣間見れる笑顔を目にしたい。でも、そのためには今扱っている
仕事を終わらせねばならなくて。顔を見てしまえば、きっと俺はこの手を止めてしまうだろうから
背後にいるであろう彼に振り返る事なく返事を返す。

「何?」

冷たくあしらっているように聞こえぬよう注意を払って出した比較的穏やかな声音。
必死に動かしているペンもなるべく音を立てないよう気を遣う。だがしかし、振り返らぬ事が不服なのか
先程より強く発音される自身の名。

「カーマイン」
「・・・・・・どうしたんだ、アーネスト」

ちゃんと関心は持ってる。それを伝えるため、出来うる限りの抑揚をつけて。しかし手を止めず、振り返らず。
背後できっと腕を組んでいたのであろうアーネストが、それを解いて小さく身じろぎしているのを感じる。
もう少し、待っていて欲しい。これが終わったらすぐにでもちゃんと相手をするから。辛抱強い君なら、それくらい
何て事はないだろう?心中で呟いて、手の動きを早める。

「カーマイン」

だんだん強くなる低音。ほんの少しだけれど苛立ちが感じ取れる。珍しい、こんな事で気を立てる人じゃないのに。
本当に何かあったのだろうか。そうでもなければ彼が気を立てる理由が分からない。少しでも気になってしまえば、
自然と緩慢になっていく自身の動作。集中出来なければ、いくら書類と睨みあっても無意味か。そう思い、
今まで故意に振り向かなかった顔を後方へと向ける。

「・・・・・・・どうした?」
「・・・・・・・やっとこちらを向いたか」
「何か、用があるのか?だったらもう少しだけ待っ・・・・!」

待っててくれ、言う前に身体ごと後ろを向かされる。キィと椅子が嫌な音を立てた。ついでに崩れる書類の音。
流石にそれには文句を言おうかと思ったが、真正面にある緋色の瞳の強さに思わず気圧される。
それはまるで、焔のような熱を持ち、同時に氷のような冷たさを持つ瞳。激情と虚無。相反するものが同時に
存在しているその瞳にずるずる、気持ちを引き摺られそうになってしまう。

「・・・・・アーネスト・・・・・・?」

何故そんな瞳で自分を見ているのか分からず、知らず硬くなってしまう己の声。がしり。握り潰すかのような、
それほど強い力で肩を捕まれる。何がどうなっているのか、本当に分からない。

「アーネスト・・・・・痛い・・・・・」
「・・・・すまない、しかし・・・・・」
「しかし、何?」
「お前がこちらを向いてくれないから・・・・・」
「・・・・・・え?」

ちゃんと聞き取れはしたものの、意外な言葉につい聞き返してしまう。そうすれば生真面目なアーネストは
多少言い回しを変えてもう一度言葉にした。

「無視しているわけではないのは解かっている。だが、どうしてもこちらを向いて欲しかった」
「・・・・・・・・何故?」
「・・・・・お前の顔を見なければ・・・・・不安になる」

小さく、小さく吐き出される科白。先ほど以上に意外な言葉に思わず言葉に詰まる。いつもの彼は、もっと冷静で
しっかりしていて、迷いがない。でも、今目の前で俺の肩を掴んでいるその彼はとても弱々しくて、頼りなくて、不安で
仕方ない、そんな表情をしていた。初めて見る表情、というわけではないけれど滅多に見ぬ表情に一瞬、
どうしていいか分からなくなってしまう。

「・・・・・・・アーネスト」
「・・・・俺はいつもお前の傍にいるわけじゃない。むしろ傍にいられない事の方が多い」
「それは・・・・仕方のない事だろう?」
「そうだとしても、お前が俺の目の届かぬところで傷ついていてもそれに気づいてやれない。
お前が寂しい思いをしていても抱きしめてやる事が出来ない。それが続けばお前は俺を見捨てるかもしれない・・・。
誰か別に想う者が出来るかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられないんだ」

肩を掴んでいた手はいつの間にか両頬を包むように移動させられ、揺れた緋色の眼光と自身の色違いの眼光が
ぴたっと交わる。微かに、頬に触れる硬い指先が震えているような気がするのは気のせいではないのかもしれない。
そんな思いを、顔をさせたいわけじゃないのに。不安にさせている。それはきっと俺の言葉が足りないから。

「・・・・・・・アーネスト。君は俺を信じていないのか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
「俺が、君と逢えないからって君以外の人を好きになると思っているのか・・・・?」

問えば、ゆるりと首を振られる。そう、分かっている。彼は一度信じた相手を疑う事はしない。俺は彼が俺を信じて
くれているのだとちゃんと知っている。だから安心していられるんだ。でも俺は安心するあまり、アーネストを気遣う事を
忘れてしまっていたのかもしれない。だったら、それは紛れもなく俺の過失。なら、言わねばならない事がある。

「・・・・・俺は好きな人はそれなりにたくさんいるし、傍にいたい人もいる。でも、君に勝る人はいない。
もしたった一人の人間を選べというのなら、他の皆を捨てても・・・・・俺は君の事を選ぶよ?」
「・・・・・・・・・カーマイン」
「逢えない時間は確かに人より多いかもしれない。でも、それだけで崩れるような想いなのか?」
「違う」

はっきりとした否定。実を言うとこれを聞いて安心した俺がいる。俺も、彼を信じている。でも、彼には俺なんかより
ずっと相応しい人がいるだろうと内心で思っているからほんの少しだけ不安になってしまうのだろう。
でも、今返ってきたのは明らかな否定。それは裏を返せば本当に揺るぎないほど強く俺を想ってくれているという事。
思わず口元が綻びそうになってしまう。

「想いが深いからこそ・・・・・不安になるんだ」
「うん、分かってる。じゃあ、どうしたら君は安心出来る?」
「・・・・・・・・・・・・・・・ただ、傍に在ってくれるのならそれだけでいい」

そう言って、ふわりと肢体を抱きしめるアーネストに一瞬、瞠目するけれど久しぶりに近くに感じる温もりに
悪い気はせず、こちらも抱き返す。少しでも彼が安心出来るように。きっと、長い間逢えなかった事の不安だけでなく、
自身の世間から失われた信用を取り戻す事に躍起になりすぎて情緒が不安定になっていたのだろう。
そうさせる原因を作ってしまったのは他ならぬ俺であるから、だからせめて今この時だけでも安らぎを与えられるならいい。
背に回した腕で後ろから頭を撫でる。子供をあやしているようだけれど、案外これは馬鹿に出来ないほど安心するものだ。
暫くそうしていると強い力で抱きついてきていたアーネストの腕の力が弱まっていく。どうやらちゃんと安心してくれた
ようだ、と小さく息を吐くと一つの異変に気づく。

「・・・・・・アーネスト?」

それは腕の力が抜けた分、体重が俺にかかってきているという事。しかも微かに規則正しい息遣いが聞こえてくる。
ひょっとするとこれは・・・・・。嫌な予感を覚え、そろそろと自分の真下にある彼の顔を覗き込む。すると案の定。

「・・・・・・・・・・・寝、てる・・・・・?」

安心しきってしまったのか、アーネストは俺に抱きついたまま眠ってしまっている。しかも俺は椅子に座っていて、
その正面から抱きついてきている彼の体の重みで身動きが取れない。・・・・・・・困った。

「おい、アーネスト・・・・・」

寝ているのを起こすのは可哀想だと思うものの、これでは仕事も出来ない、というか何も出来ない。仕方なく肩を軽く
揺すってみるが全くの無反応。困った。もう少し強めに揺すってみるがやはりダメ。これ以上、手荒な事をしたくはないし、
一体どうしたらいいのだろう。うんうんと唸りながらそんな事を考えている間にどんどんと時間は過ぎていく。
生まれてくるのは焦りと恥ずかしさ。そうして思考能力が奪われていき・・・・・・・







◆◇◆◇







そうして今に至る、と。

「・・・・・・・・本当にどうすればいいんだ・・・・?」

呟いたところで聴こえてくるのは健やかな寝息と微かな風の音。それと、自身の心音。焦りを生んでもいい解決法は
一向に浮かんでは来ない。それ以前に頬に掠れる銀髪と首筋に当たる唇が擽ったくて仕方なく・・・・・。
もう、何度目になるか分からないが声を掛け、肩を揺するが本当に一向に目覚める気配がない。よほど寝てなかった
のだろうか。そう考えると心配でしょうがなくなってしまう。

「・・・・・・・何だか、俺の方が不安になってきたよ・・・・・・・・・」

もし、また逢えない日々が続いたら、また彼はこんな風になってしまうのだろうか。不安を抱えて、解消出来ないで、
溜め込んで、眠らなくなって・・・・・・・それでいつか倒れてしまわないだろうか。本当に心配だ。

「・・・・・・・まあ、今はゆっくりお眠り、アーネスト」

深く息を吐いて、自身に被さる眠れる騎士の頬へ小さく口付けて、偶にはこういう日があってもいいだろうと
ゆっくりと目を閉じた。静かな部屋に二人分の寝息が響くのはこれより数分後の事――――






fin




本当はUPする予定がなかったものなので、色々纏まりがない話です(爆)
ただ、筆頭がカーマイン氏に暫く逢えなかった事で不安が溢れて情緒不安定になった挙句、
抱きしめられたら安心しきって眠ってしまう話が書きたかっただけなのです。こう、
カーマインさんがお世話してあげてるようなのも好きなので・・・・・(筆頭、弱い・・・)
最近妄想が重度を増してきて困ります。嗚呼、嗚呼・・・・・。

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