満月の夜、それは人を駆り立てる。無性に凶暴に。

持て余した想いを、激情に流れてでもいい、伝えられるなら。

狂気の夜も決して悪くない。さあ、告げよう。




―――逃げようか、どこまでも望むが侭に。責任も立場もかなぐり捨てて、と。







Run a way









英雄という名は、鉛よりも重く、茨よりも深く痛々しく心に食い込む。
立派に飾り立てられて、芯で貫いたかの如くまっすぐに伸びた背筋で毅然と立ち、崩れる事のない相好は。
目の前で加減なく、子供のように泣かれるのと同じくらい見るに堪えないものがある。
悲しいと言えない事ほど哀しい事はない。助けてと言えない事ほど胸が潰される事もない。

その無惨なまでに傷ついたお前を、どうしたら救えるのだろうといつも考えているのに何も出来ない俺は。
きっとどんな人間よりも無能なのだろうと、至高の騎士を象徴する紅蓮の衣をきつく握り締める。
一番救いたい者を救えなくて、何が国の誉れだと、己を罵倒する言葉しか浮かばない。
そうだ、俺はいつだって想う事ばかり。想いだけでは誰も救えない事を痛感しているくせにそれしか出来ないのは
もはや愚かを通り越して滑稽でしかない。それでも願い、思う。英雄と呼ばれし彼にどうか自由を、と。

あまりにも不甲斐ない自分が許せなく、律する気持ちで自身を映し出す姿見を片手で殴りつければ。
当然の如く、大きな音を立て、割れた。砕けた破片が指先に刺さって紅い雫が伝っていく。パタパタ、地面を
濡らしていくそれはまるで。自分が流せない涙の代わりのようで、身体的な痛みよりも心的な痛みが強い。
そのまま、手をだらりと下ろして虚空を見上げる。窓越しに、俺を見下ろすかのような月光を目に留めれば、
何故か無性に動き出さねばならない気がして。扉を押し開き夜闇に駆けていく自分がいた―――





◆◇◆◇◆





コツン、と。
窓に何かが当たる音が聞こえて、不思議に思いつつ窓辺に寄ってみる。
今宵は神々しいまでの満月。こんな日は何故か心の奥底に閉じ込めた何かが飢えた獣のように吠え立てて。
狂気の夜と誰かが言ったか、そんな事を思いながらもカーテンを開けて、窓を開く。そして下を見下ろせば実に
意外な姿。月光を受けて、いつも以上に白く浮き上がる肌、鮮やかに煌く緋眼、同色の燃え立つような
紅蓮の衣――それは紛れもなく、インペリアルナイト筆頭、アーネスト=ライエルで。

「・・・・・・・何やってるんだ?」

思わずそんな事を呟いてしまった。用もなければこんな時刻に、しかも国を渡ってまで姿を見せるはずも
ないというのに。彼の背後を見れば、よほど急がせたのか、ぐったりと疲れたように首を擡げている彼の愛馬が映る。
月毛の駿馬。猛将アーネスト=ライエルが唯一気に入っただけあってかなりの名馬。そちらに気を取られていると
先ほどの問いへの返事が返ってきた。

「・・・・夜分にすまない。お前に、どうしても言いたい事があってな」
「・・・・・・?構わないけど、明日とか手紙じゃいけなかったのか?」
「・・・・・・・・そんな事もないだろうが、ただ今日しか言えないような気がする・・・・」

月が、駆り立てるからと。先ほど自分が感じた事を鸚鵡返しのように言われて、不意に笑いたくなってしまう。
その欲求に従って微かに笑うと、ゆらりと銀髪が揺れるのが窺えた。不思議そうに首を傾ぐ彼とはおおよそ十五メートル
ほど離れているから、表情までは見えないけれど。でも、多分眉根に皺を寄せているんだろう。また、笑みを誘われる。

「・・・・今、そっちに行くから少し待っててくれ」

時間帯を配慮して、離れたところで会話するよりはマシだろうと、二階から降りて彼の元へ行こうとすればそれよりも
前に低音が短く告げる。

「いい、俺が行く」
「は?」

何だと思う間もなく、馬の轡を結わえている木をするすると登って、枝にタンと乗り上がって。はらり、彼の体重で
揺られた枝から新緑の葉が舞い落ちた。

「・・・・・・何やってるんだ」

繰り返し同じ質問をしてしまったが、きっとここにいるのが自分でなくともそう尋ねる筈だ。普通、夜中にやって来て尚且つ、
木を登って用足しをする奴なんていないだろう。いたとしても、目前の男はもっと物事を順序立てて礼儀に基づいた行動を
取るタイプだと思っていたのだが、それは自分の認識違いだったのだろうか。まあ、とにかく先程より近づいた相手に
視線を合わす。そうすれば、随分と非常識な事をしている当人は至って真面目な顔をして。

「・・・・・・お前はそこで窮屈じゃないか?」

言う。それはこちらの台詞。彼のような長身で木の上にいるなんて、足場が悪くて窮屈なのではないか。そう問い返して
やればぶんぶんと首を振られる。よく、意味が判らない。そんな表情を自分がしていたのか、アーネストは言葉を探り
ながら、ぽつぽつと会話を続けた。

「俺が言っているのは場所ではなく・・・・お前を取り巻く環境の事だ」
「・・・・・・・・・藪から棒に何を言うんだ、君は」
「本当は、お前が光の救世主と呼ばれ始めた頃からずっと聞きたかった事だ。別に突拍子がないわけでない」
「じゃあ、何で今聞くんだ。もう、二年も経ってるじゃないか」
「・・・・・・・・・・・それは、俺が臆病者だから、なんだろうな」

言葉を紡ぐと共に、苦く笑う。見ようによってはそれは嘲笑とも取れるか。何だか、彼を傷つけてしまったような
そんな気がして自然、眉根が下がる。そうすれば、いつもは手袋で覆っている筈なのに、今日は何故か何も
つけていない素手を伸ばされた。ふと、それに目を止めれば、ロクに手当ても施されていない大小様々な切り傷が
見受けられ、思わずそれが自分の頬に当てられる前に両手で掴んだ。

「・・・・・・何だこの傷は」
「・・・・・・・・別に」

何やら、失敗したとでも言い出しそうなそんな表情へと顔のパーツを動かしてアーネストは口にするが、
彼はきっと自分でも気づいているのだろうが、嘘がとても下手なのですぐさま何かを隠していると勘付き、問う。
それ以上の嘘は許さないと目に力を込めて。

「何をやったんだ」
「・・・・怒りに任せて鏡を割った、それだけだ」
「普段は怒っててもそんな事しないよな?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「アーネスト?」

ふわり、微笑んで。「ちゃんと言わないとここから落とすぞ?」そう言ってやればギクと肩が一度小さく弾んだ。
その反応はきっと脅しじゃないと本能で感じ取ったからだろう。勘がいいのも、彼が国の誉れと呼ばれる地位に
長くいる理由の一つか。

「・・・・・・・・た、だけだ」
「何?」
「お前が・・・・いつも、お前を救いたいのに救えない自分が疎ましく思えただけだと言った」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

ぎり、と自分の顔が顰められるのを感じる。吐き出す息は酷く重い。一瞬、呆れて物が言えなかった。
一体どうすればそんな事を思えるのかと。他でもない、自分をいつも救ってくれる彼がそんな事を言うなんて。
憤りよりも信じられないという気持ちの方が大きい。そして考える。どうすれば今の自分の感情を上手く伝えられるか。
一発殴ってやろうかとも思ったが、それをするにはアーネストの手に刻まれた傷があまりに痛々しい。
傷の原因は酷く愚かではあるが、全ては自分を思ってくれての事。仕方なく俺は息を吐くと、手に包んだ大きな手の甲に
そっと口付ける。ぴくりと手の内の硬い指先は震えた。まだ微かに血の滲む傷口に軽く舌を這わせ、それを拭っていくと
狼狽したような男の声が遮ってくる。

「な、馬鹿!汚れるだろう・・・・!」
「そう思うのなら、二度とこんな傷を作るな」
「・・・・・・・・・・・・・・ッ」
「・・・・痛くは、ないのか・・・・?」

粗方、止血が済んだ頃に問えば、アーネストはバツが悪そうに「平気だ」と呟く。傷の状態からすればそんな事は
ないと思うのだが。しかし、一人前の男ならば強がりたいという気持ちも分かる。故に黙っていた。そっと痛々しい
硬い手指を撫でる。それを自分の胸元へと引っ張って、目前の男の顔を窺えば、至極複雑な表情を浮かべていた。
微笑んだ、おかしくて。

「アーネストは馬鹿だな」
「・・・・・・・・・・・・・」

自分でも思うところがあるのか、俺のかなり失礼な科白にアーネストは怒るでもなくただ俯いた。別に責めているわけでも
愚弄しているわけでもない。ただ、感じた事を率直に言っただけ。それを笑って付け足してやる。

「・・・・そんな馬鹿馬鹿しいほど、俺のために一生懸命にならないでくれ」
「・・・・・・・カーマイン?」
「俺は、想ってくれてるだけで充分、嬉しいよ?それ以上なんて望めやしない」
「・・・・いいや、望め、何でも。お前は無欲が過ぎる」

どうしてだろう。何故この人はこんなにも自分に尽くしてくれようとするのだろうか。とても嬉しいけれど、同時に自分こそが
彼を縛っているのでは、と途方もない罪悪感に駆られる。それでも、握ったこの手を離せない自分は誰に言われるまでもなく
愚かだ。そして決して無欲ではない。無欲に見えるのは、自分が望みを口にする前に彼が全て叶えてしまうからだ。
彼が気づかないだけで、俺はどうしようもないくらい、貪欲な人間なのに。そう思うと自嘲さえ漏れる。

「・・・・・・・・俺は、全然無欲なんかじゃない。俺ほど貪欲な人間はいないよ」
「お前が貪欲だと言うのなら、俺はもっと貪欲だ。お前の望みを聞くフリをして本当はお前を縛ろうとしている」
「・・・・違う、君のそれは優しさだよ。君は、俺に合わせるような真似なんてしなくていい」
「優しいのは、お前だろう・・・?こんな、閉塞的な世界で、鎖に繋がれながら尚、英雄で在ろうとする」
「違う・・・・・違う。俺は、ただ・・・・閉ざされた世界から逃げる勇気すらない、臆病者だ」

好きで英雄でいるわけではない。多くの者が自分に英雄である事を望んでいる。その重責に耐える事に慣れる事などない。
それでも自分が英雄である事を放棄してしまえば、次なる被害者が生まれるだろうし、何より英雄でなくなった俺はきっと
世界から見放されるのだろう。世界を、どこかで疎んでいながら見捨てられる事に怯えている。何て脆弱なのだろう。
滑稽すぎて笑う事すら、出来ない。嘲りに染まった俺に気づいたのか、アーネストは木の枝の上という酷く不安定な場所に
いながら、更に近寄ってきた。狂おしいほどに輝く望月が、彼を神々と照らし出す。

「・・・・・ならば、俺が・・・・。俺がお前の世界の鍵となろう」
「・・・・・・・・・・え?」

意外な言葉、予想する事さえ出来なかった言葉に思わず間の抜けた声が漏れ出た。

「俺は・・・・お前を、その閉ざされた世界から逃がす鍵になる」
「アーネスト・・・・?」
「辛くなったら、我慢が出来なくなったら・・・・・逃げよう、共に。お前が一人で逃げられないと言うのなら、共に・・・・」
「何を、馬鹿な事を」
「・・・・・馬鹿でもいい。俺は、俺に出来る事はお前と共に逃げる事だけだ。責任も立場も投げ出して」

それが、俺の言いたかった事だとアーネストはとても真摯な顔で言う。それこそ敬虔な殉教者か何かのように。
対して俺はただ瞠目する事しか出来ない。それを認めてほんの少し、アーネストが表情を和らげる。

「今すぐとは言わない。本当に限界が来た時でいい。今の言葉を・・・・覚えていて欲しい」

ふわりと微笑む。傷だらけの手が俺の頬をゆっくりと辿っていき、それから少し切なげに瞳を揺らすと、アーネストは
木から飛び降りようとする。慌てて、その彼の腕を掴んだ。すると、どこか不思議そうにこちらを向かれる。

「・・・・・カーマイン?」
「言い逃げ、する気か君は」
「・・・・・・・何・・・・・?」
「もしも、本当に辛くなったら・・・・君のところへ逃げるよ。君が、俺の唯一の居場所だ・・・・」

掴んだ腕の、今は血の止まった傷に再び口付けて、口元を綻ばせる。それからゆっくりと手を解放すれば、
驚いたような顔をした彼に一度だけ深く抱きしめられる。彼の足元の枝がギシと軋んだ。

「いつでも、逃げてくればいい。俺は・・・・ずっと待っている」
「ああ。俺の逃げ場は、君だけだ」
「・・・・・・・では、夜分遅い事だしこれにて失礼しよう。次に会う時はせめて笑顔で迎えてくれ」

彼が始めに自分の元へやってきた時、呆れ顔で迎えた事を揶揄するように告げて、今度こそアーネストは木の枝から
飛び降りた。地面からは十メートル以上はあるというのに、とても軽やかに。その身体能力の高さに改めて彼が
インペリアルナイトであるのだと認識しなおす。幹に結わえた馬の轡を外し、騎乗するとこちらに向かって軽く手を
揚げた。それに小さく手を振り返してやる。月光が銀髪を弾く。

「ばいばい、俺の”聖域”さん」

からかい混じりの言葉はきっと、満月に当てられて紡いだのだろう。普段ならいくら揶揄とはいえこんな事は言えない。
本当に月の魔力とは恐ろしいものだ。そうは思えど、その魔力を借りてでも俺を逃がすと言ってくれたアーネストに
密やかに想いは募る。

「・・・・いつか、逃げよう・・・・・愛しい君の元に」

最後に紡いだ言葉は月の力を借りたものではなかったと、それを知るのはきっと俺だけだろう。今はもう、見えなくなった
アーネストから視線を藍色の空を支配する金色の満月へと向ける。眩しすぎるそれは確かに人を狂気に誘う。
けれど、本当に俺を狂わせるのは月などではない。真っ赤な血に濡れた紅の騎士、ただ一人。その事実は何とも言えない
甘さと笑いを呼ぶだけだった―――









fin



おぎゃー、何だか中途半端です。
初めアーネスト視点だったくせにいつの間にかカーマイン視点に(殴)
何だかロミオとジュリエットみたいな事をしたかっただけなんですが、全く掠りもしない
出来になりました。・・・・いいんだ、アニーが木登りしてればそれで(よくねえー!)

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