醜いアヒルの子 時折、寂しそうに窓の外を見ている彼がいる。 気配を消して、彼が何を見ているのか追ってみれば、それは何の変哲もない風景で。 空を見ている事もあれば、木々や植物を見ている事もある。けれど、それらより数多く目にしているのは、 ――――人間だ。 特にこれといって変わった事をしているわけでもない、笑って、騒いで、仕事をする、普通の暮らしをしている者たち。 気に留めようと意識しなければ気がつきもしない、空気と変わらないような、普遍のもの。わざわざ見るようなものじゃない。 それでも目が行ってしまうのは、無意識に彼が、人間というものに何かを感じ取っているからだろうか。 そう尋ねるのは何処か、彼を傷つけてしまうような、そんな気がしてなかなか踏み入る事が出来ず。いつもただ、 何にも気づいていないように振舞って、背後からその細い背を抱きしめてやる事しか、出来ない。 歯痒さに、胸が膿んでいく・・・・・。 ◆◇◆◇ 「・・・・・カーマイン?」 少し、用事で部屋を開けてる隙にやって来たらしい彼の名を呼べば、無反応。 漆黒の髪は、来客用の白いソファに埋まっている。待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか? 脇に抱えた書類を机の上に置いて、そっと白皙の面を覗き込めば、微かに香る酒気。眉を顰める。よく見れば 真白い頬は色差し、桜色の唇から漏れる吐息からはアルコールが漂う。まさかと思い、ソファに寝そべった 彼の横にあるテーブルを見遣れば、酒瓶がいくつも並んでいて。それだけあれば小さな飲み屋くらいは開けそうな ほどの量。そしてその全ての中身が底を尽いていた。目を瞠る。確かに彼は恐ろしく酒に強い。未成年のくせに、だ。 しかし、その彼が潰れるまでに酒を飲む姿は未だ嘗て見た事がなく。何があったのだろうと詮索してしまうのは 無理からぬ事だろう。とにかく、空になった瓶を片して、潰れたまま眠りについているカーマインの身体に毛布を 被せる。どうせ、ここまで呑んだのなら起こしたところで起きはしないんだ。そう思い、彼が自然に起きてくるまで 職務に戻ろうとすれば、常々邪魔だと思っている長い服の裾を掴まれた。 「カーマイン!?」 驚いて、振り返ってみても彼の普段は開かれている色違いの眼は硬く閉じられて。呼吸も眠っている時のリズム。 起きている筈がない。それでも彼の手は俺の服を掴んで離さない。乱暴にならぬ力で外そうとしても、なかなか離して くれそうもない。仕方なく、その場に座って彼のあどけない寝顔を鑑賞する事にする。こうして、眠っている時は 憂いを帯びる事もなく、むしろ幸せそうで。それが何故か痛々しく感じるのは、起きている時の彼の寂しい瞳を知っている からだろうか。安定した息の音を聴いていると、不思議と此方も安堵して眠気が襲ってくる。気づけば上の瞼と下の瞼は ゆっくりと、けれど確実に重なり合って行った・・・・・・・。 ◆◇◆◇ 「・・・・・・・・・・・・?」 ボーン、ボーンと。柱時計が鳴る音が聞こえて眼を開けば、窓から見える空はすっかり夜のそれになっている。 慌てて身を起こせば身体から何かが滑り落ちた。何かと思い床へと視線を巡らせば、自分がカーマインに掛けた筈の毛布で。 それが何故、俺の身体から落ちるんだ?と首を傾げばある事に気づく。床に座ってカーマインに向き合って寝ていたと いうのに今の自分は、部屋に入った時のカーマインと同じ状態、つまりソファに身を沈めていた。益々、おかしくて、それを 口に出そうとした瞬間に、トレイに紅茶を二人分淹れてきた彼と鉢合わせになる。 「あ、起きちゃった・・・・?」 「お前・・・・、何故俺は此処に・・・・?」 酒に潰れて寝ていたとは思えぬほど優美な所作で歩んでくる彼に疑問を口にすれば微苦笑を寄越された。 恐らく先に目を醒ました彼が俺を移動させたのだろう。その細い腕で。そして起き上がった身体を額を押して、 押し戻そうとしてくる。まだ、寝てろとでも言うつもりか。しかし、眠気はもうない。ゆっくりと身体を押してくる細い腕を 掴んで留めれば、カーマインは漆黒の髪を揺らして首を傾げる。 「・・・・・もっと休めば、アーネスト。疲れてるんだろう・・・・?」 「いい。もう目が覚めた。それよりお前は何で人の部屋で潰れてたんだ?」 率直に問えば、目を逸らせる彼に、これは絶対に何かあったなと確信する。そして、逃がす気もない。 掴んだ腕をこれ幸いと思いつつ引き寄せれば、鼻先が触れ合わんばかりの至近距離。アルコールが強く香った。 それに目を細めつつ、小さく耳打ちする。 「・・・・・ただ飲みたいだけなら、わざわざ俺の部屋で飲んだりしないだろう・・・・・?」 大体、俺の目前で飲もうものなら止められるのが分かっていてわざわざあれだけの量の酒を持ち込んだんだ。 よほど何かある。そして、心の何処かで彼はその何かを俺に聞いてもらいたいと思っているのだろう。無意識な甘え。 滅多に見せてくれぬそれは非常に嬉しい。けれど彼は甘え下手だ。むしろ甘える事を恥だと思っている節がある。 だから、なかなか踏み出せずにいるのだろう。俺が、彼の傷に触れる事に躊躇いを覚えるように。だから、俺が 手を引いてでもその彼の奥深くに潜む甘えを引き出してやらねばならない。 「俺は、頼りないか・・・・・・お前の荷を、担げやしないと思うか?」 微かに寂しげに訊けば、やはりというか何というか、カーマインは息が詰まったように気まずげな表情を浮かべる。 彼は優しいから、自らの自尊心よりも他人の気持ちを優先すると、それが分かっていてそんな顔をした俺は卑怯、 なのだろう。性質が悪いのも自覚はしている。けれど、そうでもしなければ彼は何も言わないだろうから、それくらいは 目を瞑って欲しいものだ。黙ったままの彼を試すように見仰げば、ぽすんと胸に衝撃を受ける。緋色の視線を下げれば 漆黒の小さな頭が目に入って。どうやら彼が俺に突っ伏してきたらしい。散らばる髪を弄れば、迷うような声が響いた。 「・・・・・・・・・・・頼っても・・・・いいのか」 「いくらでも、頼ればいい。少なくとも、酒よりは役に立つと思うが?」 「・・・・・・・・・意地悪な、言い方だなぁ・・・・・・」 クスクスと布に擦れて篭もった笑い声が聞こえる。背中を撫でてやれば、落ち着いたのかそれも収まり、 カーマインは頭を擦りつけるかのように身じろいだ。そしてその日の出来事を母親に報告する子供のような口調で言う。 「・・・・・・俺さあ・・・・こう言うとアーネスト怒るの分かってるんだけど、ね・・・・」 「・・・・・・・・・何だ」 「・・・・人がさ、普通に暮らしてるの見ると、どうしても・・・・溶け込めてないのが分かるんだよ」 人間じゃないから。小さく呟やかれた言葉が酷く耳障りで、思わず眉間に皺を寄せるが最後まで話を聞こうと堪える。 口を挟まれなかった事に安堵したのかカーマインは一つ息を吐いて続ける。 「だから、さ。分かってるから、何言われたって悲しくないと・・・・思ってたんだけどな」 「・・・・・・・誰かに何か言われたのか」 「・・・・・う・・・ん。新しい王様は、さ。俺の事あまりよく思ってないみたいで・・・。彼に意見する度に、睨まれる」 脳裏に何度か顔を合わせたローランディアの国王を浮かべる。先のアルカディウス王は一番に民の事を思う、 優しい王だった。その甥であるコーネリウス王は、無能というわけではないが王という立場にある人間にしては、 落ち着きがないと言うか、血気盛んと言うか、目先の功績に目を奪われて周りを見る余裕が欠けていると言うか、 とにかくまだまだ未熟な王だ。それを言ってはエリオット陛下も未熟であろうが、彼には学ぼうという姿勢がある。 しかしコーネリウス王にはそれがない。まだ青いというのに自分は完璧だと思い込んだ愚かな王だ。そんな、一家臣が 思案するにはあまりに不遜な言葉を飲み込んで、先を促せばカーマインはゆっくり、口を開いた。 「・・・・・嫌味には大分、慣れてきたんだけど・・・・・『汚物』って言われた時に視界が真っ黒になった・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・!」 「そんな事、俺が一番分かってるのに・・・・人から言われると、どうしてこんなに悲しくなるんだろうな・・・・・・・」 震えながら弱々しく萎まっていく声音に、堪らなくなって。細い背を強く、深く抱きしめた。それ以上、穢れた言葉を 口にさせないように。何より、俺が聞きたくなかった。無理やりのように押さえ込んだ俺に非難の言葉が注がれても 仕方ないくらいだったが、カーマインは何も言わない。ただ、細い指先を震わせながら縋り付いてくる。その背を 出来うる限り優しく撫でる。髪もゆっくり梳いて。細く小さな身体から震えが収まるまで何度も。 「・・・・・・・・・悲しい時は、泣いてしまえ」 「・・・・・嫌だ、それじゃ・・・・何か負けたみたいだ」 「酒に逃げた時点で負けたも同然だろう・・・・・・」 「あは、それ言われると・・・・・痛いなあ・・・・」 笑い声が、痛々しい。 「本当の事を言われたのに、何で悲しいかな・・・・・」 「・・・・・それは、本気で言っているのか?」 「・・・・・・・・?だって、俺は本当に死肉から作られた『汚物』だ。だから、人間の中にいると、その醜さ故に溶け込めない」 今まで何とか堪えてきたがその科白には流石に頭にきた。咎めるように、背を抱く腕に力を込めて締め上げる。カーマインが咽喉を 引き攣らせるがそれでも腕の力を緩める気はしなかった。頭の中で血が沸騰するような、激しい怒りが込み上げる。彼の言葉は 彼を想う者全てを否定するかのような言葉だったから。 「アーネスト、苦し、・・・・・・っ・・・・・」 「・・・お前は自らを卑下する事で、俺を否定した」 「・・・・・・・・・・な、に・・・・・・?」 「俺は、お前が何であろうとお前を想う気持ちは変わらない。何であってもいい。だからと言ってお前が自分自身を 否定すると言うのなら、お前を想う俺も、お前の母も妹も仲間も、全てを否定した事になるんだぞ・・・・!」 強い口調で叱りつければ、カーマインの肩が大きく跳ね上がる。怯えて、いるのだろうか。それでも今、折れる事は 出来ない。今、折れてしまえば、俺はまた彼の傷に踏み込む事に躊躇ってしまうから。今、俺は彼を叱る事で己自身も 戒めている。彼を傷つける事を恐れて何も出来ずにいた不甲斐ない己を罰するために。例え、嫌われる事になっても それはそれで仕方ないのだ。一生、それに怯えてすれ違い続けるよりよほど建設的だ。多少の罵詈雑言を覚悟しつつ 目を閉じれば、カーマインは予想外の言葉を吐いた。 「・・・・・・ご、め・・・・。でも、俺、どうしたって人間には、なれないんだ、なりたくたって、なれないんだ!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「人間じゃないから、醜いから!・・・・・・だから、溶け込めないんだ!『異質』なものは『普遍』になれない!!」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 よくよく、聞いていれば彼の自虐はただの自虐じゃない。救いを、理解を無意識に求めている。他の誰でもない、俺に。 それが分かると不思議と憤りは昇華され、代わりに、今にも砕けて消えそうなガラス細工のような彼を守ってやらねばと 庇護欲が働く。いつも彼が人間を寂しそうな目で見ていた理由がそこにあった。けれど、彼は一つ誤解をしている。 彼は、確かに人間ではないかもしれない。けれど、彼が人間の中で一等目立つのは醜いからではなく。 「お前は、醜いアヒルの子だな」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・?」 「確かに、お前は『異質』かもしれない。『普遍』には成り得ないかもしれない。けれど、それは醜いからじゃない」 「じゃあ、何だって言うんだ」 「・・・・・・・・お前が、人間よりも綺麗な生き物だからだ。アヒルの群れに紛れた白鳥のように、な」 お前は白鳥だよ、とそう告げてやればきょとんと目を見開かれる。幼い表情に笑えば、更に不思議そうに首を傾ぎ。 彼は良くも悪くも自分を飾る事を知らない。故に己の価値も知らない。美しさ故に、周りに溶け込めない事すら気づかない。 そこが彼らしくあり、同時に欠点であるように思う。いくら言ってもきっと理解なんてしないだろうから口にはしないが。 そんな事を考えていると不意打ちのようにあどけない声音が耳を打つ。 「・・・・・俺が白鳥だったら、アーネストは鷹みたいだよね」 「・・・・・・・・・・・ん?」 「強くて、綺麗で気高くて。鷹みたいだ」 「・・・・・・・・・・それはどうも。それより、少しはすっきりしたか?」 つい先ほどまで悲痛な叫びを上げていた彼に問えば、毒気を抜かれたかのように微笑まれる。 「・・・・・・・う、ん。自分が綺麗な生き物だなんて思わないけど・・・でも、アーネストがそう思ってくれるなら別にいいかなって」 「・・・・・・・・・・・・そうか」 「例えこの先、本当に溶け込む事が出来なくても・・・・・努力を怠る理由にならない。少しでも人間に近づきたい」 「・・・・・・・俺は、お前の方がよほど人間らしいと思うがな」 本音の割合高めの呟きは、微かにでも彼の重荷を和らげたようで。嬉しそうに縋りつく指先が、抱きつくそれに変わる。 それは些細な変化。けれど、彼にとっては大きな心の変化。縋るのは、助けを求める事、抱きつくのは、俺自身を求めて くれる事。少なくとも今、鼻腔を擽るアルコールには勝てたようである。内心安堵の息を吐く。 「・・・・・・・次からは酒より前に俺に頼って欲しいものだ」 「・・・・・・・・・・・う、ごめん。本当は、さ。アーネストに一番頼りたかったんだけど・・・・・・なかなか戻って来ないから」 つい、お酒開けちゃった、と悪戯っぽく告げられてしまえば何だか憎めない。 「・・・・・まあ、それでも俺の元へ一番に来たというのだからよしとするか」 「・・・・・・・・一番って言うか、アーネストのところしか行く気はないよ・・・・?」 「それは殺し文句だ。ところで、そろそろ退かないと俺はその気になるぞ・・・・・?」 「・・・・・・・・・・・・・それは、困った」 両手を挙げて、離れる彼に少し未練は残るものの、一番に頼ってくれるという言葉に一応満足して諦める事にする。 そして美しい白鳥がこの腕から飛び立っていかぬ事を、相容れぬアヒルの群れに涙せぬ事を密かに願い、目を伏せた。 fin…? あれ、何だ、この中途半端感は。醜いアヒルの子という題材を使いたかったのと ザルなカーマインさんが酔い潰れるというのを書きたかっただけなのです。 やっぱり頭の中のプロットじゃダメダメだなと思いました。反省・・・・嗚呼・・・・・。 |
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