貴方のいない世界は。


無数に屍の折り重なる、そんな血の河よりも。





―――無残で、残酷です。








悪夢と優しい夢









「・・・・・・・・・・・・・・・・・ッ!」


涙に濡れる瞳を、こじ開けて。止まっていた息を一気に吐き出して。
急速に熱の引く身体を、強張る肢体を抱きしめて。冷えたシーツから身体を起こし、周囲を見渡す。
カーテンの隙間から光が差して、鳥の囀りが聞こえ、いつもと変わらぬ朝の光景にゆっくりと弛緩する。
暫く震えが止まらなくて小刻みに痙攣するような、己の手をじっと見つめた。身動き一つせずにいると、
背筋を冷や汗が流れていく。気色の悪い、その感触。大きく息を吐き出す。

「・・・・・・・・・・・ゆ、め?」

起きたばかり、それを差し引いても掠れきった自分の声に苦笑の一つでも漏らそうかと思ったが、上手く
顔の筋肉を動かせなかった。悪夢の類は、結構良く見る方であったが、今日見た夢はその中でもっとも静かで、
最悪なものだった。今でも血の匂いが香ってくるような、そんな錯覚すら、して。必死に首を振る。


そんなわけがない。


そんな簡単に死んでしまうほど、彼は弱くない。紅く染まった彼なんて見たくもない。
元々、死人に近い肌の色が急速に青褪めていく様なんて想像すらしたくないし、失えない、失いたくない。
彼は自分を置いていったりしない。孤独の意味を、痛みを一番知っている、人だから・・・・・。

そう、必死に自分に言い聞かせて。それでも不安で、納得しきれないで。勢いよく、立ち上がり着替えを済ませる。
頬に掛かる長い前髪を掻き上げ、一言「出掛ける」と家の者に告げて、館を後にした。足取りは強く、顔も険しい。
何よりも空気が鋭くて、普段の自分を知る者はきっと首を傾げる事だろう。でも、そんな事はどうでもいい。
今自分が知りたいのは、自分を突き動かす衝動は、彼だけ―――









◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇








「アーネスト!」

低く鋭い声になってしまった、その自覚はある。
でも、そうでもしないと泣いてしまいそうだったから。少しくらい、無礼を赦して欲しい。
ノックもせずに重厚な扉を開けると、名を呼ばれた男は普段、さして表情を変えぬ仏頂面を驚きのそれに変えて。
扉の外にいる、俺を凝視している。手に持った書類と、ペンを置いて、様子がおかしいとでも思ったのか、一目散に
こちらへ向かって歩いてくる。手を伸ばされて、頬を触れられて。動けないでいると、男の顔が近づいた。
俺の顔に影を落として、真上から不思議そうに俺を、見ている緋色がまた、驚いたように見開かれて、ついで少し困ったような
戸惑うような色を乗せて。頬に触れていた手を俺の目元まで引き上げた。グイと擦られて、白い手袋がじわりと湿る様を見て、
そこで初めて自分が泣いている事を知った。

「・・・・・どうした、カーマイン」

本当に困った声音で。労わるような声音で。次々に俺の目から零れてくる涙を拭いながら優しく問いかける。
ああ、何だ生きてるじゃないか。やはりアレは夢だったのだ。そう、勝手に納得していると今度は膝が崩れそうになった。
それに気付いた彼、アーネストが俺を支ようと腕を伸ばす。腰を捉えて、そのまま、引き寄せられて、抱きしめられる。
厚い服越しでも、この時俺は彼を暖かいと思った。そう、思うと余計に涙が止まらなくて、でも泣き顔なんて見られたくなくて
広い胸に顔を埋めて、ぼろぼろ子供みたいに、泣いた。アーネストは訊きたい事が山ほどあったろうに黙ってそのままの
姿勢でいる。俺が落ち着くまで、頭を撫でて、背を優しく節くれをつけつつ、叩いてくれた。

ずっとそうしているわけにはいかないと、段々と落ち着いてきた俺は涙を止めようと必死に我慢して。ようやく涙が収まった
ようなのでゆっくりと顔を上げた。そこには心配そうに、それでも優しく細められた緋眼があって。一気に安堵していく幼い、
俺がいて。何か言わなくては、と思うものの泣きすぎたせいで声が、出てこない。それでも無理してでも何か言おうとする
俺の口を彼の口が塞いだ。随分と優しい、甘い痺れを齎す、口付け。また、身体の力が抜けた。

「・・・・・少し、休め。泣くと体力を消耗するだろう・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・う、ん」

言葉に詰まりながら、それでも意思表示はしようと首を一生懸命縦に振ると、ぽんと頭に手を置かれて。
そのまま、大きなソファまで連れて行かれて横にされた。奥から毛布を引き摺ってきて俺に被せると、また髪を梳くように
撫でていく。それが心地よくて、少し目がとろんとする。悪夢を見たせいでろくに眠れなかった事も手伝っているのだろう。
しかしそれを思い出して、眠る事を怖い、と感じた。とっさに髪を梳く、アーネストの手を掴んで首を今度は横に振った。
『眠りたくない』と、それを伝えようとその動作をずっと繰り返していると、アーネストが自分の横に座り、また俺を抱きかかえる。

「・・・・・怖い夢でも見たか」

その声に一つ、頷く。するとアーネストは笑って、頬に小さなキスを落とす。

「・・・・・・・どんな夢だか訊いてもいいか?」

少し間を空けて問われた内容に、暫し逡巡するが、ここまで迷惑を掛けて、何も言わないわけにはいかないだろうとこれにも
一つ頷き返す。寝た体勢だと声を出しづらいので、少し身を起こして、優しい光を湛える紅い瞳を見上げた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・君が・・・・・・・・死んじゃう、夢・・・・・・」

俺を置いて・・・・と消え入りそうなほど小さく呟くとアーネストは俺を拘束する腕に少し力を込めた。それでも表情はそのまま。
穏やかに微笑して、いる。夢とはいえ、あまりよろしくない内容だというのに、俺を不安にさせない為か、ただ笑って。

「そうか」

返ってきたのは一言。とてもシンプルな応え。次いで、しっかりと強い声で言う。

「だが、夢は夢だ。俺はここにいる。そうだろう?」

首を傾いで、銀髪が揺れる。鈍くて綺麗な光。この、綺麗な光が血で汚れる様など、夢ですら見たくはなかった。
急に身体が震える。そんな俺に気付いたのか、アーネストはまた、俺をゆっくり抱きしめて。ふんわりと膝の上に抱きかかえ
られているので、何だか赤子がゆりかごに揺られているようだと、そんな気が、した。いつもの俺ならきっと顔を赤くして、
恥ずかしいからやめろと頭ごなしに彼を怒鳴りつけるのだろうが、今はこのじんわりとした暖かさを逃がしたくなかった。

「俺は、お前を置いていかない。一人は寂しいだろう・・・・俺も、お前も」

遺す者にも、遺される者にもなりたくはないと、彼にしては贅沢な願いを込めた内容。それって死ぬ時は一緒、って事なのか?
心中でもするつもりか?馬鹿馬鹿しい・・・・・・・・でもそれも悪くない。一緒に逝けたら幸せだろうね。そんな事を思って俺も笑う。
するとアーネストも俺が笑ってようやく安堵したようで。

「ああ、やっと笑った」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「お前は、泣き顔も綺麗だが・・・・・笑っている方が可愛いぞ」
「・・・・・・・・・・・かわい・・・・いは余計・・・・・・・・・」
「まあ、照れている顔も、怒っている顔も可愛いけどな」
「・・・・・・・・・うるさい・・・・ばか・・・・・・・」
「その馬鹿が死んだ夢を見て大泣きしたのはどこの誰だろうな」
「・・・・・・っ・・・・・・・知、るか」

ああ、何だかいつもの調子に戻ってきてるな。やっぱりアーネストの傍は安心する。今日は色々な発見が多い。
例えば、俺がこんなにも君を好きでいたのだとか。君の一言が、行動がこんなにも俺を安堵させるのか、とか。
いつもは煩わしいとすら思ってしまう『可愛い』と言われる事が、こんなにも嬉しい事なのだとか。

悔しいし、恥ずかしいから君には言わないけど。まあ、あれだけ派手に泣いといて今更恥ずかしい、もないけどな。
そうして悪夢なんて見た事も忘れかけていると、不意にまたソファに横たえられて、と言っても頭はアーネストの
膝の上、だが。とにかく横にされて、驚いて見上げると視界を手で、覆われる。

「まあ、寝とけ。今度はそんな夢など見ないように俺が番をしてやるから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「これでも、優秀な番犬だと、嫌味で色々言われてきたんでな。ああ、でも夢の場合は獏の方がいいか?」
「・・・・・・・・・・・いや、俺は・・・・・赤眼のお犬様で充分だよ・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・お犬様・・・・・・・・敬ってるんだか、馬鹿にしてるんだか・・・・・・」

文句を言いつつも俺が眠れるようにと優しく大きな掌が俺の頭を撫でる。その温かさをこんなにも間近で与えられると
いう事が、人を至福の思いに駆らせるとは、俺はきっと君に出会わなければ知る事はなかった。君がとても好き。
だからずっと傍にいて。俺を置いていったりしないでくれ。



だって、君がいない世界は


――――とてもとても残酷だから




歪んだ顔で思いを馳せると意識は優しい闇に飲まれて。
次に見た夢は君の隣りで幸せそうに微笑んでいる俺の姿で、何だか無性に恥ずかしかった・・・・。



―――アーネスト、君はどうやら立派な番犬みたい、だよ?



fin


過去お題より。
無駄にラブラブ(死語)させてみました。

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