俺の人生は、そう悪くはなかった。 至上の幸福 気付いて欲しい。 気付かないで欲しい・・・・・。 相反した願いは、いつも己の胸の内に。 純粋に、お前の為だけを思えば、気付かないでくれた方がいい。 それは分かっているのだけれど、感情がついていかない。 この指は知っているから。 毎日のように触れていた、柔らかい緋色の髪を。 この瞳は知っているから。 小さな小さなお前が、いつも俺の後をついて歩いていた事を。 この耳は知っているから。 無邪気に、楽しそうに俺を呼ぶ、高くて可愛らしいお前の声を。 『お兄ちゃん』 そう呼んで、紅葉のような手で、俺の服を掴んで。 振り返った俺を見て、ふんわりと笑って、いつだって俺の後について。 可愛い、可愛い弟。とてもとても大切な弟。両親を亡くした為、お互いが唯一の肉親。 だから護ってやりたいと、いや護ってやらなくてはならないと思っていた。 ただでさえ、お前は研究施設という閉ざされた陰湿な空間しか知らないのだから。 その小さな身体にコードを繋がれて、毎日のように身体検査をされて。 周囲の大人たちに『道具』として扱われ続けてきたお前だから・・・・・。 「クレヴァニール・・・・・・」 本当なら、お前の事をしっかりと抱きしめてやりたい。 2000年という長すぎる悠久の時を得て、やっと再会の叶った愛しい弟。 辛い思いばかりをさせてしまったお前を、この腕で引き寄せて、掻き抱いて、頭を撫でて。 そして『お兄ちゃん』と呼んでくれていたその声を・・・・・今は少し低くなったその声を聞かせて欲しい。 だが、それは出来ない。俺がお前の兄だと、そう告げてしまえば、まだ目覚めていないお前の中の『ユリエル』が 覚醒してしまうから。そうなれば、何も知らなくていいお前までもが天使との戦いに巻き込まれてしまうだろう。 だから、知らなくていい。天使と・・・・アキエルと戦う為には、エンジェリックチャイルドは命を賭けなければならない。 それ以前に多くの召喚士の殺害をせねばならず。そんな辛い思いを今以上にお前にさせたくない。 その、白く線の細い綺麗な手を血などで汚してくれるな。お前はただ、あの頃のように無邪気に笑っていればいい。 例えそれが俺の身勝手なエゴであったとしても。俺は、消える事を選ぶから、汚れる事を選ぶから。 だから、お前は、お前だけは綺麗なままでいてくれ。いつも凛と、ゆりの花のように在ってくれ。 ―――そして全てが終わったら、俺の事を思い出してくれ・・・・・・ そう、祈るような気持ちでデュルクハイムを後にして数ヶ月後。マーキュレイに残る遺跡の中で、 不運な事に望まぬ再会を果たしてしまった。その時のお前は、行方不明であった軍の先輩が何故敵側にいるのか、 そう問いたげな瞳で俺を見ていたな。金色の瞳が大きく見開いて、白い肌が青く色褪せて。 そんな顔をさせたいわけではなかった。むしろそんな顔をさせたくないから、デュルクハイムから姿を消したのに。 何故、神というのはこうも戯れを好むのだろうか。俺一人の命では足りないとでも言うつもりか? 頼むからこの、苦しみの中に生きる弟の命までは欲しないでくれ。俺が幸せになれないのなら、せめて弟だけでも 幸せにしてやってくれ。その為ならば、俺はいくらでも汚れてやる。どれ程多くの者に恨まれても構わない。 肌といわず、身体といわず、心といわず、魂さえ血に濡れたって構わないから。 『頼むから・・・・・・・俺にお前を殺させるな・・・・・・』 掠れた声で呟いた願いをどうか聞き入れてくれ。そんな思いで剣を振った。 しかし、意外な事に命が危ぶまれたのは俺の方であった。あんなに小さいと思っていた弟が、俺の預かり知らぬところで いつの間にか強く、逞しくなっていた。ひょっとすると俺よりも・・・・・・・。 それは喜ぶべき事だろうか。事実、そうなのだろう。弱くては生き残れないから。 この、生きづらい世の中では、強い生命力と力がなくては生き残れない。生きていなければ幸せになど、なれないから。 だから、強くなってくれた事は嬉しいはずなんだ。なのに、どこかそれを寂しく思う俺もいて。 恐らく、俺はいつまでもお前には護られるべき存在であって欲しいのだろう。俺を、必要としていて欲しいんだ。 一人で生きていけるなんて、言って欲しくないんだ・・・・・・・なんて女々しい事を考えるのだろう。 結局俺は、お前に対してエゴしか持ち得ていないのであろうか。 『すま・・・・・・ない・・・・・』 何に対して謝っているのかすら分からないが、ただ一言、誰の耳にも届かぬ声で呟いて身を翻した。 今度出会った時は、お前も俺を敵と見做すのだろうか。誰よりも、お前を愛しているのに憎悪を抱かれてしまうのか? ああ、やはり神は無慈悲だ。それでも俺は、血に濡れる事を拒めない。使命を捨てて、今更兄になんて戻れない。 本音を言えば、別に天使に人間が滅ぼされようが、召喚術で、世界を滅ぼそうが知った事ではない。 ただ、辛い思いをしかしてこなかった、愛しい弟に優しい世界を望んでいる、それだけなんだ。 クレヴァニール、どうかお前に至上の幸福を・・・・・・・・。 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ 「・・・・・さ・・・ん!」 誰だ、俺を呼ぶのは。 「―――兄さん!」 ああ、懐かしい、その呼び名。 「兄さん、しっかりしろ!」 何度も繰り返し呼ばれるその声に半ば陶酔しながら、重くて仕様のない目蓋を引き上げる。 映り込むのは金の両目に西日を受けて輝く涙を湛えた夕焼け色の髪の青年。あの時よりずっと大きくなった彼。 それなのにそうして泣いている姿はあの頃と少しも変わらない。とても懐かしい。 そっとだるい腕を涙で濡れる白い頬へと伸ばす。 「・・・・・・知って・・・・・・・いたのか・・・・・・」 「・・・・・思い出したよ、兄さん、ブリュン兄さん・・・・・・」 「クレ、ヴァ・・・・・ニール・・・・・・大きく・・・・・なったな・・・・・」 「兄さん、しゃべらないで・・・・・・」 「・・・・・・俺、はも・・・う永くない・・・・・だか、ら・・・・・少しでも話させて、くれ・・・・」 「兄さん!諦めないで!!」 ぎゅうと、骨ばったあの頃とは比べ物にならない大きな手で抱きしめられる。 抱き返してやりたいが身体がいう事をきかない。内部の臓器の殆どが死に掛かっている。 口からは止め処なく血が溢れて、強く俺を抱くクレヴァニールの身体まで濡らしていく。 「・・・・・・・ど・・・・・か・・・・・・ユリエルの、願いを・・・・・聞いてやってくれ・・・・・」 「うん、分かった。分かったから、もう・・・・・・・分かったよ・・・・・・」 「お前・・・・・には・・・・・兄らしい事、何一つ・・・・・出来なかった・・・・・すまない・・・・」 「いいから!俺は・・・・・・もう分かったから。兄さんが、俺の事思ってくれてたって分かったから・・・・・」 「・・・・・・そ・・・・・か・・・・・・・なら、思い残す事は、ない。後は・・・・頼んだぞ、弟・・・・・よ」 「・・・・・・・・ッ、兄さん!兄さん!!」 もう、限界だ。お前の顔すら、見えない。 視界が黒い・・・・・真っ暗だ。だが、一番最後に見た姿は、お前だ・・・・・・。 それはとても嬉しい・・・・・・・。死に場所がお前の腕の中、というのも悪くはない。 ああ、何だかとても幸せだ。人は死ぬ瞬間にも幸せになれるものなのだな・・・・・・・。 ここは暖かい。天国よりもきっと居心地がいいだろう。 まどろむ意識の中、そんな事を思っていると、不意に。 聞き取れるか否か、酷く絶妙なタイミングで、お前の声が届いた。 「・・・・・・兄さん・・・・・・・大好きだったよ・・・・・・・」 ――なんて事だ。 神よ、貴方の戯れ好きには頭が下がる。 これではどれだけ酷な運命を強いられていても。 貴方を恨む事など出来ないではないか・・・・・・。 感謝すら、してしまう。 有難う、そう心中で囁いた瞬間、俺の意識は闇へと完全に堕ちた。 目には至上の幸福へ対する、涙さえ浮かんでいた・・・・・・。 fin 色々分かりづらくてすみません。 最後の部分がどうしても書きたかったんです。 何だかブリュン→クレな感じですね。 |
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