知らない事はたくさんあった。

知っていれば良かったと思う事も、たくさんあった。

今は何を言っても遅すぎるのに・・・・。


ああ・・・・。

自分の名前を呼ばれないのは、

――――悲しいな。






その名を呼ばれる幸せ




長い、長い間歩いている自覚があった。
時空の狭間を彷徨って、様々な人間と出会って。
最終的に二千年以上も我が身を置いていた元の世界へと舞い戻ってきている自分がいた。
この世界から魔素を消し去り、自分の存在すら魔素と共に掻き消えると分かっていたし、納得していたのに。
何故か、未練がましく舞い戻ってきてしまった。

何故だろう。

懐かしい風の匂いに問うが応えは返らない。
ただ、青い空には不似合いな自分の紅い髪が巻き上げられるだけ。
そっと目を閉じる。忘れかけていた何かを思い出そうと。
何も変わらないようで何もかもが変わってしまっていたこの世界で。

「・・・・・・ぁ」

暫くの間、目を伏せ、風に身を任せていれば不意に思い出す。
時空の狭間での膨大な情報量と出来事が思考を鈍くさせていたけれど。
自分がこうしてここに帰って来ようと思ったのは。

「・・・・・・あれ、か」

アイゼンヴァント山の麓で魔素を消し去るために山頂を目指していた自分たちを待っていた
クリストファーがシルヴァネール卿に肩を借りながら、いつになく真剣な目で自分を見ていたからだ。
明確な言葉はなかったが、あの琥珀色の真摯すぎた両眼は必ず帰って来いと告げていた。
だから俺は消えてもいいと思っていたのに最期の瞬間、消えたくないと思ってしまったのだろう。

「・・・・・・・顔だけでも見に行くかな」

どうせもう、する事も行くところもないのだから。
自分がどのくらいの間、この世界から離れていたかなんて分からないけれど、まあどちらにしろ久しぶりであろう
あの煩わしいと素で思えるほどの友に会いに行ってみるのも悪くない。

「でもその前に、墓参りが先か」

魔素を消し去る前、自分の存在も消えると知るよりも前、全てを終えたら墓参りをしようと決めていたから。
思いもかけずこの世界に存在を留める事が出来た今、それをしないわけにもいかないだろう。

「・・・・何処かで花でも調達してこないとな」

墓参りに流石に手ぶらはまずいと、近くの街で花と酒を買うと、俺は近いところから順に知人の墓参りをする事にした。




◆◇◇◆




それぞれ知人の墓に花と、人によっては酒を献じて回ったのだが、その途中まさかあんな思いをするとは思わなかった。
育ての親であるディクセン団長と実兄であるブリュンティールの墓を参った際、ディクセンの娘であり、俺の義姉である
レジーナに会ったのだが、それだけならいい。親しき者と偶然とはいえ顔を合わせたのだから。しかし、再会の余韻に浸る
間もなく、今の俺にとってはまるで氷のように冷たく、刃のように鋭い言葉が寄越され、唖然とした。

『アンタ・・・・・誰だっけ?お父さんの知り合い?』

性質の悪い冗談か、そう思う事すら出来ぬほどレジーナの顔には途惑いが浮かべられていた。
何年も一緒に家族同然に暮らしていた彼女が自分を忘れている。それはつまり自分の存在がこの世界から失われた
瞬間、自分がこの世界に存在したという記憶すら奪われたのだろうと。俺はこの世界から完全に抹殺されてしまったのだと。
推測するに容易い。だから俺はレジーナに何も言う事が出来なかった。墓に花と酒を添えて、
逃げるようにその場から去る事しか・・・。

「絶対、不審だろ・・・俺ぇ・・・・」

希望の遺跡から歩きに歩いて、誰一人といない廃墟の前に腰を下ろした。
墓参り用に買った花の一輪がひらりと地面に落ちる。人の手で温められたのか、僅かに萎れたそれはなんだか哀れで。
茎の部分を持ってくるくると回した後、何処へなりとも好きにしろと吹き抜けた風へとその軽い小さな身体を放る。
風に数枚花びらがもがれ、流されていく。何処か好きな場所まで飛んでいけるといいのだけどと、そんな事を
思いつつ、再び瞑想する。この後、一体どうするか。誰かに会いに行っても皆はきっと俺を覚えてない。
声を掛けては『お前は誰だ』と問われるのか。名前を、誰も呼んでくれないのか。そう思うと無性に悲しくなった。

今まで、自分の名前なんて深く意識しなかった。
名前を呼ばれる事がこんなにも大切で、愛おしくて、幸せな事だったのだと。
何気ない日常がどれほど自分を支えてくれていたのか、今になって思い知るなんて。

「・・・・無様だなぁ・・・・・・・」

心の底からそう思う。
人間はただでさえ目に見えるものしか信じられない傾向にあるというのに、目に見えていたものでさえ
自分はこれまで取り零して生きてきていたのか。信じられない気がする。自分の愚かしさが過ぎて。
込み上げてくる妙な虚無感が、喉が枯れるまで笑い倒したい衝動に駆らせるのは何故だろう。
それは気持ち悪いほど矛盾した・・・・・・

「あー、駄目だ。感傷的になりすぎるな。俺は事実上死んだも同然なんだ。こうなる事はおかしな事でもなんでもない」

そう。自分が存在した証がないという事は例え肉体が生きていても死んでいるに等しい。
どんなに声を荒げてもその事実は変わる事もなく、前向きに受け止めるほうがよほど自分の為になる。
だから一度自分が死んだというなら、この存在が無となったというなら、もう一度生まれ変わったつもりで
生きていけばいい。すっかり自分の歩いた足跡が消えてしまったのなら、これからまた足跡を刻んでいけばいい。

「・・・・そう、だよな」

空を仰いで、既に亡くなった者たちに何気なく問う。
彼らは本当に肉体をなくし、死んでしまったけれど、俺はまだ生きているから。やり直しは幾らでも利くだろう。
こんなところで不貞腐れていたらきっと彼らに怒られてしまう。なら、早く立ち上がらなければ。

「ぅっし、駄目もとで行ってみるか」

当初の予定通り、クリストファーの元へ。
どうせ彼も自分の事など覚えてないだろうが、あの日瞳に交わされた約束を果たさなければ何となく気持ちが悪い。
こうして無事に戻ってきたのだと、姿を見せなければ。

「あとで嘘つき呼ばわりされるのも・・・・癪だしな」

一つ息を整えて、俺はゆっくりと立ち上がった。




◆◇◇◆




「・・・・誰だ、お前」

予想通りの反応だった。
むしろ予想通りすぎてつまらない、とでも言っておこうか。
オーディネル州の知事となったらしいクリストファー=オーディネル卿に面倒極まりない謁見手続きをして
漸くそれが叶ったというのにこれ、だ。

記憶にない。
俺の存在など、奴の中には、いない。
たった一言がそれを俺に告げる。

予想していた事だった―――予想通りの事だった。
当たり前の、必然の。
なのに。


それなのに。

「・・・・・・・・・・っ」

―――何故。
そう言われて俺の瞳は潤んでいるのだろう。
ツンと鼻の奥が引き攣れた感覚が過ぎるのだろう。
声も出せず、唇が小さく震えるのだろう。


どうして、どうして。


「おい・・・どうし・・・・」
「・・・やめろ!」

パシッ

見知らぬ者へ、当たり前の事<マナー>のように伸ばされた手を、気づけば払いのけていた。
以前は狩をするライオンの餌に集るハイエナのように俺に引っ付いて回っていたお前が、どうしてそんな態度を
取るのか、と。何度も何度も俺の事を好きだとその口で言ったくせに、と。そんな理不尽な思いのままに。

「・・・・・ってぇ」
「・・・・・・・・・・・」

何が起きたか分からない、そんな顔でクリストファーは払われた手を振っている。
加減なんてしなかったから、それなりに痛かったのかもしれない。俺の手のひらもジンジンと痛い。
けれど、一番痛いのは心だ。自分の存在を忘れられていた事への痛み。レジーナから受けたものよりずっと痛い。
それが何故かは分からない、いや分かっているけれどそうとは思いたくない。
以前だったらプライドが許さなかった、だが今はそれを認めれば酷く惨めになるからだ。
―――俺は・・・・・・

「・・・州知事に向かって随分な真似をしてくれるじゃないか。傷害罪で訴えてやってもいいんだぞ?」
「・・・・・・・・・・・・ぁ」
「世間は今、体制が変わったばかりで荒れている。そんな中、諍いは何処ででも起きるものだが・・・・。
まさか知事に向かってこのような態度を取る者が出てくるとは思わなかった。なぁ、お前?」

お前、と言われて反射的にカッとなる。

「俺は『お前』ではない!」
「・・・・・・では誰だと言うんだ」
「・・・・・・・俺・・・は・・・・」
「俺は、なんだ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

答えられる筈もない。
例え今ここでクレヴァニールだと名乗っても、その響きはきっとクリストファーの心の琴線に触れる事はないだろう。
彼の記憶に俺は住んでいないし、彼の人生の中に俺は存在していないのだから。
そんな事をわざわざ自分から確かめるような真似はしたくなかった。自分で自分の首を絞めるような真似など。

「・・・・・罰は如何様にも受けます。ですから・・・どうか今の事はお忘れ下さい」

何もかもを忘れているならば、ここで今俺と会った事も忘れてしまって欲しい。
どんな未練も残らぬように。そう思って告げた言葉に、何故か小さな笑い声が返った。
耳を疑う。どう考えても、笑われるような事は一言も言っていない。正面のクリストファーをじっと見る。
すると。

「あ・・・っは・・・・だめだ。も・・・我慢出来ん」
「・・・・・はあ?」
「わ、悪いお前のそんな表情、初めて見るもんだから、つい・・・・」
「・・・・・・・・・・え」
「いっつもお前、俺に見せるのは怒ったような顔ばっかりだったもんな。なぁ、クレヴァニール?」
「・・・・・・・・・・・・!」

名を、呼ばれた。
彼が知る筈もないのに。
名を、呼ばれた・・・・・。

「な・・・・で・・・・」

驚きすぎて声が掠れてしまう。それすら、クリストファーにはおかしいのか、目に涙を浮かべている。
腹を抱え、片手で目元を乱暴に拭いながら、真っ直ぐと俺を見た。

「狐に化かされたような顔をしてるな。クレヴァニール」
「・・・・・クリストファー、まさかお前・・・・」
「そうだ。俺はお前を覚えている」

忘れているフリをしていただけだ。
クリストファーの口がそう動くのを見た瞬間、怒りと安堵が同時に押し寄せて動けなくなってしまう。

「いっつも、俺を邪険にしてくれる仕返しだ」
「仕返しって・・・・」
「・・・・でも泣かすつもりじゃなかった。悪い、謝るよ。それから・・・・お帰り、クレヴァニール」
「・・・・〜〜馬鹿やろ・・・・・」

つい、憎まれ口が出てしまう。

「はは、懐かしいなそれ。前は何度も言われたっけか」
「・・・・んっとに・・・忘れられたかと思っ・・・・・」
「・・・・・・悪かった、ホント、デリカシーなかった。謝る、何度でも謝る。だから・・・・泣くなよ」

そう言うと、クリストファーの手が再び俺へと伸びてくる。
今度はマナーとしてではない。以前のように親しみの込められた・・・・俺が何度も拒絶した好意の手。
それを今は払う事なく、受け止める。髪に、頬に、額に、目元に。

「・・・・一年間、浮気もせずにずっと待ってたんだぞ。せめてもう少しいい顔して欲しいもんだな」
「いい顔?」
「そ、花も恥らうような・・・・これ」

言って、頬に触れた指先がそのまま俺の頬を左右に引っ張る。心持ち上に。
それでクリストファーの言いたい事が分かった。いい顔というのは。

「これ、か」

引っ張ってくる指を外して微笑んだ。そうすれば目前の女好きの顔も緩む。

「うん、やっぱりお前は笑ってる顔が一番綺麗だ」
「・・・・・・・馬鹿じゃないか?」
「本当に相変わらずだな、クレヴァニール。もう少し素直になってると思ったのに」
「知るか」
「ま、でもその方がお前らしいか。ところでクレヴァニール、お帰りの返事は?」

促されてはっとする。
そういえば先ほどの『お帰り』に俺はまだ返事を返していない。
とはいえ、クリストファーに対し返事を返すのは何だか癪なような気もする。
けれど、そうだな。こいつは俺の欲しかったものを全部くれたから。

名前を呼ばれる嬉しさを、お帰りと言ってもらえる喜びを、以前と変わらぬ感情を―――

だったら、仕方ない。
俺も返さなければ、フェアでない。

だから。



「ただいま」


極上の笑みと共に告げて。
俺はきっとここから、新しい始まりを迎える。
そんな気が、している―――





fin…?




何か今までくっついてなかったので、くっつくきっかけの話でも
と思ったらこんなんになりました。あんまりラブ度がないのは・・・何故でしょう。
本当はもう少し間に挟むつもりでしたが、まあそれは後ほど気が向いたらと言う事で(殴)


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