自分だけだと思っていた。 だから本当にその存在との出会いは――衝撃だった。 奇妙な歓喜と薄ら寒い安堵が腹の底の方から拡がっていく・・・。 壊れた鳥籠、折られた翼 零れた涙は、重力に逆らうことなく落下して黒衣に一点の染みを作った。 けれどその染みがそれ以上拡がることはない。少年はすぐに涙を押さえ込む。 悲しかったのは刹那。可哀想と思ったのも一瞬。以降は腹の底の方から歪んだ喜悦が込み上げてきた。 一人ではなかったという安堵。愚かしい愚かしいと思い続けてきた、最も人間らしい感情が少年を孕んで。 醜いと、自覚した途端、今にも浮き上がりそうだった笑みは歪み、酷く不鮮明な――強いて言うなれば泣き笑いに 近い表情をそっと青白い面に載せた。 「・・・どうしたの?」 泣いたことに対しても、今しがたしている表情にも理解が出来なかったのだろう。幼子が不安げに問うた。 幼子としては少年の取った反応はきっと異端だったのだろう。少年の瞳を見ての幼子の第一声が彼にとって そうだったように。人とは違う、反応。思わず息を飲んでしまうほど。 「・・・世界を滅ぼす闇か。大層なものだ」 「!」 びくりと幼子が肩を揺らしたのが紅い瞳にフィルター越しのように映る。 よほど、その言葉は彼に重く圧し掛かり、また他人という存在にそのことを馬鹿の一つ覚えのように 罵られ続けたのだろう。耳にするだけで反射的に身を震わせてしまうほどに・・・。 覚えのある感情に少年は過去を思い出しながら続けた。 「・・・俺は・・・白い悪魔と呼ばれている。それに・・・吸血公とも呼ばれているな」 「え・・・・?」 「人の呪い方も知らんし、誰かを殺したことも血を吸ったこともないのに・・・そう呼ばれている。 御伽噺の王子・・・なんて初めて言われたが」 微苦笑混じりの言。自分が悪魔と呼ばれていることなんて、常識で考えて口にして楽しいことではない。 他人に言われるのも、自分で言うのも同じくらい、侮蔑の言葉はその響きだけで、人を傷つける。そういうものだ。 故に幼子は、悲しげに違え色の双眸を揺らす。 「・・・ごめんなさい」 「何がだ?」 「僕、つらいこと・・・言わせちゃった」 「先に俺が言わせてしまったんだが・・・」 謝られて、調子が狂う。少年には幼子のしている表情は分からない。けれど、声音でどんな表情をしているか 想像するくらいは出来る。楽しげに笑っているはずはない。泣いて、いるのかもしれない。想像するだけでも 胸の中に降る、罪の意識。少年は白銀の髪を靡かして一度頭を下げた。 「・・・すまん。お前まで傷つけるつもりはなかった・・・」 むしろ、自分もそうなのだと告げることで励ますつもりだったのだが。少年の思惑は外れてしまった。 申し訳なさそうに白眉を寄せて、小さな手を包み込むように引き寄せる。 「・・・・なぁに?」 「今、言うのも妙だろうが・・・。俺はアーネストと言う。お前の名が、知りたい」 「僕・・・?僕は、カーマイン。君の・・・おめめと同じ色の名前だよ?」 お揃いだね、と微かに笑い声を立てたその無邪気さに少年――アーネストもつられて口元を緩ませる。 誰かの名前を知りたいと思ったのは初めてのことだった。それも当然。アーネストは名門と言われるライエル家の長子で 次期当主なのだから。勝手に相手が名乗ってくる。知りたくもない、その名を。だから、知りたいと思うことがなかった。 ―――でも・・・。 「俺を見て、怖がらなかった奴も、媚びなかった奴もお前が初めてだ」 「・・・こびるって、なぁに?」 「・・・・。お前が、知らなくていいことだ」 一生とは、アーネストの心中にのみ語られる。まだ幼いせいか、一つも曇ることないその清らかな心が 下手な知識を得て穢れることがないように。降り積もった一面の雪に足跡一つ付けずに取っておきたい、 そんな叶うはずもないことを願う子供のように。そっとその一言を飲み込んだ。 「・・・惜しいな」 「え・・・?」 「お前はきっと・・・美しいのだろうな。見れないことが、惜しい」 「・・・見え、ないの・・・?」 「ああ。だが触れば何となく顔つきは分かるんだが・・・」 性格は顔に出ると昔から聞く。その理屈から言えば、目の前の幼子は美しい容貌をしているのだろうと アーネストは思う。確かめるように伸ばした手で幼子の輪郭へと触れる。ゆっくり細い頤を、頬を、鼻梁を、瞼を なぞればとても整った顔立ちであるのが感じ取れた。そして、まだ丸い頬が熱を帯びていることも。 「・・・何だ、照れているのか?」 「う・・・うん、だって・・・初めて言われた」 「そうか。お揃い、だな」 素直に照れを認められる辺り、自分とは違うと思いながらもアーネストは。こつりと。互いに初めてを経験した同士、 額を合わせた。特に意味はない。敢えて言うのであれば、信頼の証だった。心を預けられると。 会って間もない、交わした言葉も遥かに少ない。それでも。家族を除いて、初めて見つけた信じられる人。 双方共、脛に傷持つ身だからか・・・初めての賛辞の言葉がよほど衝撃的だったのか図りようがないけれど。 「・・・・・・」 ふと、家族を思い描いたことでアーネストは漸く一つのことに思い至る。 倒れる前自分は何をしたのか。忘れていたのが不思議なほど・・・。 「・・・いかん」 「?」 「両親とはぐれたのをすっかり忘れていた・・・」 「ええっ?!」 はぐれたと言うよりは逃げ出したわけだが。教会に足を踏み入れることを厭うて。あれから大分時間が経っている。 遠い異国の地で我が子がはぐれたとならば、必死に探しているだろう。喩えその子供が祖国で忌み子と囁かれていても。 愛されて、いることを少年は知っている。大切に大切に育まれていることも。だからこんなにも胸が痛い。 普通の子供に生まれていれば、そんな両親を苦しめることもなかった。自身も、きっと。 「・・・・・・・」 「・・・アーネス、ト?」 「・・・このまま・・・見つからない方がいいのかもしれない」 「どうして?パパもママも心配してるよ?」 言われずとも、分かっている。自惚れでもなく、日々の積み重ねがアーネストにそう思わせた。 そして分かっているからこそ、自分の存在が疎ましい。 「・・・俺が・・・俺のような忌み子がいなければ・・・あの二人はもっと幸せになれる」 「・・・!どうして・・・どうしてそんな酷いこと言うの・・・?」 「もし将来俺のような奴が・・・当主になれば・・・ライエル家はどうなることか・・・。 だが俺がいなくなれば手の掛かる子供は消え、新たに子を設けることも出来るだろう・・・」 両親が、自分のことを心配して掛かりきりになっていることをアーネストは知っている。もし、自分が健康で見た目も 普通の子供であったならば両親はもっと子供を欲していただろうことを。けれど、アーネストの躯が弱いために 両親はそれを諦めた。一人だけでも育てるのが大変なのだから。それはつまり、アーネストの存在が彼の愛しい二人に とって足枷となっていることを示し・・・。 だから、自分の存在が何より疎ましい。両親の自由を奪った自分の存在こそが。 ―――悪魔だ。 他人が無神経に囁くように。 そうだ、その通り。お前たちの言う通りだ。間違ってなどいない。 俺の存在は『悪魔』に等しい。 心の何処かで知っていた。 だからきっと、今まで自分と同じ存在を前にするまで泣けなかったのだろう。 自分の存在が、誰かの幸せを奪っていると――知ってしまっていたから・・・。 「・・・消えてなくなればいい」 人魚姫のように泡となって静かに静かに消えられるのなら・・・。 そうすればきっと、この胸の痛みも罪の意識も全て全て無に帰すだろう。 もう苦しむこともない、誰も。 ―――思ったのに、小さな小さな手がそれを否定した。 「・・・ッ」 酷く乾いた音がした。頬に鮮烈な痛みが走る。肌の表裏に熱が篭っていく。 殴られたのだと理解するのに数秒を要した。殴られることなど、初めてだったからだ。 経験のない事象には誰だって反応が遅れる。アーネストもその例に漏れず。 自分を殴った幼子―カーマインの朧げな影へと視線を移す。 「・・・カーマイン?」 「消えるとか、いなくなるとか、酷いこと言わないでっ」 「酷い、こと・・・?」 先ほども同じことを言われた。そして引っかかった。酷いこと――他人に言われたのなら分かるが自分を 自分で卑下する分には酷いと言われる筋合いがない気がする。とっさに押さえた頬が熱い。 憤る暇もないほどに、驚愕と混乱が少年の身を孕む。 「・・・何を、怒ってるんだ?」 「全部、だよ。アーネストは今ここにいて、息をして、存在してるのに・・・消えたいなんて言わないで。 パパもママもアーネストも・・・皆が可哀想だよ。僕だって君に会えたのに、もう二度と会えなくなったら悲しいよ」 「かな、しい・・・?」 知っているはずの言葉の意味がその一瞬、真っ白に抜け落ちる。 悲しいとは何だったろう。幾度となくその感情を自分は抱いてきたはずなのに、他人にそのように思われることは 初めてだったから。何もかもが白く染まる。教会などよりもよほど目の前にいる存在の方が神聖な気がした。 ぶるぶると怒りによるものだろうか、震えている小さな手をアーネストは掬い取る。 「・・・・すまん。俺はまた、お前を傷つけた・・・」 「大丈夫。僕はもう、痛くないから・・・それよりアーネストは痛くない?」 ほっぺた、と幼い呼称にアーネストはきょとりと。最早隠すことも忘れてしまった稀有な紅眼を瞬かせ。 可愛らしい響きに状況すらも忘れて口元を綻ばす。 「・・・お前の力では・・・痛いとも思えんな。むしろ、お前の手の方が痛んでいるのではないか?」 「だ、だいじょぶ・・・だよ?」 妙な間を空けて告げるカーマインにアーネストは片眉上げて。 「本当に、か?」 握り締めた掌への力をほんの少しだけ強めると小さな悲鳴が上がった。 「ひゃ・・・」 「・・・やはり、か」 「い、痛くないもん・・・」 震えた強がりは、幼いことも手伝って可愛らしいとしか、言いようもなく。嘘を吐かれることに慣れすぎて それに激しく嫌悪を抱くようになっていたアーネストもこういう嘘ならば、嫌ではないと優しく瞳を眇めた。 こんな風に言うと失礼なのだろうが、目の前の幼子はまるで愛玩動物のようで、つい撫でたくなる。 手を漆黒の頭の上まで伸ばして二、三度左右に行き来させる。滑らかな手触りが皮膚を通して伝わってきた。 「・・・綺麗な髪だな」 「見えないのに、分かるの?」 「・・・目が悪い分、他の感覚が鋭敏らしい。聴覚、味覚、触覚、嗅覚、・・・だから今まで生きてこれた」 「・・・・え?」 意味深な言葉と共に、アーネストは素早くポケットの中のハンカチを手にし、じんじんと少しだけ腫れている カーマインの手に巻きつける。それから直ぐにフードを目深に被り、カーマインの手を引いて立ち上がった。 「な、何?」 「・・・何か、来る」 「え・・・?」 「獣ではない・・・人間の気配、か?」 ざわりと。木々の葉擦れの中に紛れた草葉を踏みしめたような足音を耳に捉えてアーネストは見えない目で 周囲をぐるりと見渡す。一瞬、自分を探しに来た両親のものかと思ったが、それならばわざわざ気配を消すように 静かに近寄ってくるわけもない。別の何者かが此方の様子を窺っているのだろう。何のために。 答えは非常に簡単、分かったからこそアーネストは、眉間に深く皺寄せた。 「・・・アーネスト?」 「ここは・・・街からどのくらい離れている?」 「そんなに離れてないと思うけど・・・でも人は滅多に来ないよ・・・」 だから世界を滅ぼす闇―僕―が自由に出歩けるんだと、か細い自嘲が届く。やはり同じだと。 自分もまた、人目を避けて殆ど外出をしなかった。彼と違って制限されていたわけではないけれど、それが唯一の 自分の身を守る方法であったから。いつの世も、異端は排除される。そういう風に出来ている。 逃げ隠れることしか幼い時分に出来ることはなかったから。 「・・・ここを出るぞ」 「・・・え?」 「・・・もしかすれば・・・街で両親が俺を探しているのを聞きつけてきたのかもしれない」 「だったらここにいるって教えてあげた方が・・・」 「違う。善意で探しているわけではないだろう。恐らくは・・・」 ―――金銭目的。 それが考えられる。そうでなければ、今も尚じりじりと気配を極力殺しながら近寄って来るはずがない。 遠目に見ても、自分の容姿は目立つとアーネストは自覚している。もし、両親が街で自分を見なかったか聞いて 回っていたとすれば、外見的特長を一つ二つでも伝えていれば、すぐに分かるだろうことも。 そして両親の身なりを見れば、貴族であることも、更には数年前まで戦争していた国の者だということも あるいは露見するだろう。例え現在友好関係を築いていたとしても、過去をそう簡単に拭えるはずもない。 そこまで条件が揃えば、善良な一般市民はともかくも、腐った性根の奴らは目をつける。 いい獲物―もっと端的に言えば金ヅル―が見つかったと・・・。 「・・・捕まれば何をされるか分かったものではない。逃げるぞ」 「・・・あ!」 グイ、と細い腕を引っ張ってアーネストは近寄ってくる気配とは逆の方角―更に森の奥へと駆ける。 どちらに行っても危険はついて回るだろうが、アーネストにとって経験上、獣や魔物よりも人間の方が よほど恐ろしい生き物として脳裏に刻まれている。故に、人間の方から逃げる選択をした。 子供達が走り出すと、それまで気配を殺していた存在たちが一斉に姿を現す。 「おい、餓鬼が逃げたぞ、追え!」 「せっかくの金ヅルが!」 「もう一人ガキがいるぞ、どうする?」 「決まってる、二人とも捕まえろ!」 物騒極まりない怒声が背後から響き渡ってくる。 「ゃ、怖い・・・何っ?」 「野盗の類だろう。すまん、俺が巻き込んだようだ。とにかく今は逃げるしかない」 「う、うん・・・」 ドカドカと遠慮ない足音が地面を揺らす。森が騒ぐ。 周囲にいた鳥類や小動物が、騒ぎ立てる人間達に驚いて逃げていく。 小さな脚が、健気に草木の生い茂る走りづらい空間を駆ける。 息を切らして、必死の態で道を遮る木立の隙間を生身の肌に傷を作りながら潜り抜けて。 幾度も幾度も後ろへと流れていく景色。 それでも。 子供の脚では短距離ならばともかくも、長い距離を大人から逃げ切ることは不可能で。 徐々に迫る地響き。喧騒。アーネストに腕を引っ張られて何とかついて来ていたカーマインも、 数百メートルほど逃げたところで限界が押し寄せ、足を踏み外す。 「あっ!」 「!カーマイン」 無理が祟った細身が転倒する。綺麗な白いシャツが泥に塗れて汚れた。浅く切迫した呼気がその場の音を支配して。 急に立ち止まれずに数メートルほど離れてしまった幼子よりも一回り大きな躯が、慌てて踵を返し、肩を激しく 上下させ起き上がれずにいるカーマインの元へと駆け寄る。 「おい、大丈夫かっ」 「は・・・はぁ・・・駄目、も・・・走れ、な・・・ごほっ」 「しっかりしろ・・・」 咽る背中を擦ってやり、励ましてはみるものの、アーネストも限界が近いのは自覚していた。 基より同年代の子供より体力が少ないのだ、アーネストは。躯が弱いのだから仕方がないにしろ。 立ち止まった途端に汗が噴出し、息が切れる。影しか捉えることの出来ない視界は疲労で常以上に歪んでいた。 こんな有様では再び立ち上がったところで遠近感も掴めず、走ることは難しいだろう。 ちらりとぼやけた視線でカーマインの様子を見遣る。自分以上に疲弊し衰弱した躯。もう無理だ、と。 諦めの吐息を吐く。観念して僅かに震えているカーマインを抱き寄せ腕の中に守りながら、目と鼻の先にまで 近づいて来ていた無法者を睨み付けた。 「漸く観念したかお坊ちゃん?」 「・・・・・・・・」 「アンタんとこの綺麗なパパとママが探してたぜぇ?」 「ククク、にしても本当に白髪に紅い瞳してやがんだなぁ、本当に人間か?」 予想通り、街でアーネストを探している両親達の様子を見ていたらしい。彼らよりも先に探し出して 謝礼金でも目的としているのかあるいは。 「・・・・捕まえて身代金でも取ろうと言うのか?」 「ケケ、利発なお坊ちゃんだ。自分の置かれた状況を中々よく分かってる」 「・・・フン、別にお前たちのような輩に出くわすのは初めてではないだけだ」 ざっと見て五人。囲まれているのを確認しながらアーネストは何とか打開策を考える。 例えばここで大声を出しても街までは届かないだろう。どころか下手に騒げばその場で殺されることも考えられる。 自分一人ならば、それでもいいかもしれない。しかし、今自身の腕の中にはカーマインがいる。守るべき対象が。 無茶は出来ない。これ以上彼を巻き添えにするわけにはいかないと未だ細い喉が鳴る。 自分が非力なばかりに、何も出来ない。ただ黙って為すがままにされて、相手を刺激しないようにするしか。 それは酷く消極的で、とても歯がゆく情けない選択だった。それでも、力のない子供にとっては唯一出来る、 最善のことでもあった。ただただじっと息を殺し、無害を装い、助けを待つ・・・それが。 悔しさに奥歯を噛み締めて余計なことを口にしないよう耐えるアーネストだったが、取り囲まれ、じろじろと 物色するように眺められる状態に苛立ちも隠せなかった。途端に賊の一人に生意気だと殴られる。 「・・・ぐっ!」 強い力で顔を叩かれ、アーネストの上体は加えられた力に逆らうことなく吹き飛ばされた。 地面と向き合った視界に数人の足元が映る。覆い被さってくる影が否応なしに恐怖を煽って、けれど 怯えた様を見せるのが癪で必死に目に力を込めた。今度は横たわった腹を蹴られる。血を吐くほどの衝撃が襲い、 土に汚れながらアーネストは蹴られた腹部を押さえ咳き込み蹲った。 「げほごほっ・・・ぅ・・・」 「餓鬼の分際で嫌な目をしやがる」 「おい、あまり傷付けるな。これから人質にするんだからよ」 「はっ!人質なんてのは命さえありゃあ十分だろ?」 苦しむ様子を、止めた男でさえ愉快そうに見ている。貴族に対する恨みでもあるのか。 単に弱い生き物を甚振ることに陶酔を感じているのか、定かではないが、苦悶を露にすればするほど向こうが 悦ぶだけだとアーネストは目を閉じて痛みを耐える。口の端から流れ出る血が顎を伝いゆっくりと地面に滴っていく。 僅かな時のはずだ。けれどその間隔が酷く長いものに感じた。 「あーあー、お坊ちゃん伸びちまったんじゃねえの?」 「下手に騒がれるよりはいいだろう?」 大人しくなったアーネストに飽きたのか、賊の男達の気が逸れる。もし隙があるようなら、カーマインだけでも 逃がさなければとうっすら瞼を持ち上げ、少し離れたところで震えている彼の様子を窺う。どうやら恐怖で声も 上げられないらしい。けれどもアーネストが心配なのだろう、少しずつ四つん這いで近づいてくる黒い影。 来るな、とアーネストは思った。男達の興味がカーマインに移れば何をされたものか。自分と同じように暴行を受けるか、 もっと酷い目に遭わされるかも分からない。首を振って来ないよう合図を送るが遅かった。 「おい、そっちのガキはどうすんだよ」 「あー・・・よく見りゃ、随分小奇麗な顔してんなぁ。黒髪ってのも珍しいし・・お、見ろコイツ、オッドアイだぜ?」 「へえ、そりゃ珍しい。そっちは見世物小屋にでも売れば高く売れんじゃねえか?」 アーネストの傍に行こうとした小さな躯の前に下卑た男達が立ちはだかる。細い顎を無理やり捉えて繁々と 恐怖に歪んだ顔を眺め、口角を持ち上げた。まるで蛇のように気味の悪い笑みに、カーマインは萎縮する。 大きな異彩の双眸に大粒の涙を浮かべ、唇を震わせた。 「・・・ゃ・・・・」 「そうそう、こういう反応が欲しかったのよ。いいねぇ、もっと苛めてやりたくなるねぇ」 「はは、相変わらずサドだなお前は。苛めるってどうすんだよ?」 「やめろ・・・カー、・・イ・・ンを・・・離、せ」 ヒューヒューと喉から奇妙な風切り音を零しながら、アーネストは力の篭らぬ指先を出来うる限り動かして制止を、 というよりも賊たちの注意を自分に引こうとした・・・けれど。 「お坊ちゃんが何か言ってるぜ?」 「騎士気取りか?非力な餓鬼が。もっと自分の立場を知った方がいい」 「・・・ッ、う、ぁ・・・がぁ・・・」 賊の中でも一番落ち着いた、恐らくリーダー格と思われる男が冷たく言い放つと、アーネストの骨が軋むほど 強く背を踏みつける。ミシミシと嫌な音が響いた。 「や、やめて・・・アーネスト、死んじゃうっ」 「だとよ、リーダー。流石に殺しちゃ拙いっしょ」 「ああ・・・悪い。俺は命令されるのが嫌いでな・・・。それもバーンシュタイン人の餓鬼だ。つい、な」 「まーなー、アイツ等のせいで仲間も大勢死んだしなぁ」 あと少しで骨が折れる。一歩手前というところで、泥を纏った革靴は小さな背から離れた。 黒い外套にくっきりと靴跡が残っている。そしてその下の見えない柔らかな皮膚には青紫の痣が拡がっていた。 咳き込んだ体動で肺が激痛を訴えてくる。アーネストは緋色の瞳に生理的な雫を滲ませた。 これまで言葉による暴行は幾度となく受けてきたが、肉体へのそれは初めてで、何とかしなければと思っても 極度の苦痛から意識が混濁する。自分がしっかりしなければ。自分よりももっと怖い思いをしているだろう カーマインを安心させてやらなければ。そう思うのに、最早指の一本すらも己の意思では動かせなかった。 「で、どうすんのリーダー。このガキ二人。こっちの可愛いの、オレの玩具にしていい?」 「・・・ぃやぁ・・・アーネスト・・・」 悲痛な声が助けを求める。応えてやりたくともアーネストの躯は限界を迎えていた。声も出ない。動かせない。 まるで糸の切れた人形のように。地面にこすり付けられた整った顔立ちが無残に穢れ、生気を感じられない。 出来ることならば、この腹立たしい男達を殺してやりたい。それほどまでの憎しみが込み上げてくる。 自分が虐げられる分には構わない。慣れている。肉体への痛みも心に刻まれた痛みに比べれば一瞬のもので 大したことはない。時間が経てばやがて薄れていく。治っていく、よほどの傷でない限り。 しかし、カーマインは、と。カーマインだけは、助けてやりたい。白んでいく意識の中でそれだけを思う。 自分が巻き込んだ。自分が、あの時逃げたりしなければこの幼子は巻き込まれずに済んだ。怖い思いもせず、 泣くこともなかったろう。それに・・・彼はアーネストのささくれた心を解してくれた。たとえ意図せぬものであっても。 心の預け場所を、見つけられた。冷たかった胸の奥に優しい風が、温かい風が凪いだのに。 自分は何も出来ない。助けることも、彼を癒すことも、安心させてやることすら。 無力で非力で――愚かだ。両親にとってだけではない。カーマインにとっても自分の存在が『悪魔』のように 思えてくる。幸せを奪うことしか出来ない、その存在・・・。 ・・・消えてなくなればいい。 一度は思い直したその言葉を、弱っていく拍動を感じながらアーネストは呪詛のように何度も心の内で繰り返す。 そして意識は完全に途絶え、茜色の空はいつの間にか藍へと色を変えていた。 綺麗で優しい箱庭は、醜い大人たちに踏み荒らされた。 迷い込んだ小鳥すらも巻き込んで。 息を殺し、じっと蹲る檻へとその姿を変えて――― to be countinude...? アーネスト苛めのシーンを楽しげに書いてた自分は 改めてドSだと思います(全くだ) さて後何回で終わるか。二回くらいかな、と思います。 お付き合い頂ければ幸いです。 |
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