鬼騎士日記。


 植木鉢の葉がささやかに揺れる、とある日の昼下がりのことだった。
 母親も妹もお目付役さえもそれぞれ何かの用事で忙しいらしい本日。
 何故か自分だけはとても暇で。
 実は起きたのもつい2時間前だ。
 お昼ご飯を食べる時間に、朝食代わりのコーヒーを飲んで息をついた。
 それから寝過ぎで重い頭を休めるようにソファに転がっている。
 このままではまた眠ってしまいそうな気がするが…………たまにはいいかもしれない。
 何もすることが無いなんて、ちょっと贅沢だ。
 たまには誰とも会わずにのんびりと……、
「………」
 過ごそうかなと思ったのに。
「…………」
 カーマインは、面倒くさそうに首を動かして後ろを見る。
 玄関のドアが叩かれているようだ。
 せっかくまったりしようと思ったのに。
「……誰だか知らないけど……」
 吐き捨てて、のろのろと立ち上がる。
 本当は、こののろのろしてる間に訪問者が諦めて帰ってくれないかなと期待しながら。
  
「はい……」
 目の辺りを片手でこすりながらドアを開ける。
「………」
 相手の姿を目にして、カーマインはゆっくりと覚醒していく。
 少しずつ見張られていく両目を見て相手は馬鹿にするように小首を傾げた。
「随分、ふぬけた格好だな」
「………」
 カーマインは目を丸くしたまま言った。
「……服はいつも着ているものだけど」
「口答えをするな」
 言うが早いがアーネストはカーマインの頬をむにっとつまんだ。
「……っ」
 痛い、といえば、いひゃいという発音になるに決まっている。
 そんな無様な声は出したくない。
 アーネストはカーマインの頬をつまんだままカーマインの身体を押しのけて家の中に入ってくる。
 身長差が結構な程ある人間に頬をつままれるというのは、ほぼ釣り糸に吊り上げられた魚のようなものだ。
 それでもカーマインは抵抗をした。
 その手に爪を立てた。
 アーネストは鼻を鳴らしてあっさりとカーマインを解放する。
 壁ぎわに逃げてカーマインは頬を押さえた。
 目は涙目だ。
 のんびり、まったり、ゆっくりからはほど遠い刺激でもう完全に目は覚めた。
「……どうして、来たんだ、アーネスト」
「来たら悪いというのか」
 こういう時、悪いですと答えたら、どうなるんだろうか。
「……」
 好奇心に耐えられず、カーマインは妙にもじもじしながら言った。
「悪い、と思う」
 だんっ!
 という大きな音は、アーネストがカーマインの顔の横に凄い勢いで平手を打ち付けたからだ。
「………ほお……?」
 目が笑ってないにもかかわらず至近距離で微笑まれ、カーマインは思った。
 どうして俺がこんな目に。
 アーネストは空いているほうの手をカーマインの顔の前に持ってきた。
 親指の付け根の下辺りにくっきりと残っているのは、さきほどカーマインが爪を立てた跡だ。
「治せ」
「…………」
 カーマインは上目遣いでアーネストを見た。
 肩をすくめて唇を尖らせて不満げに。
 そんなに強く食い込ませたわけじゃないから、放っておいても治るはずなのに。
 それでも手が寄せられる気配はない。
 仕方なくカーマインはそっと息をついて睫を伏せた。
 目を閉じてアーネストの手に唇を当てる。
 すると。
「……治せと言ってるだろう……!」
 ぐぐぐと、両方のこめかみを手で押さえつけられる。
 みしみしという擬音がとても似合う。
 たまらずカーマインは暴れた。
「っ、だって治せって!」
「だから治せと言ったのだ、私は! 誰が唾液を付けろと言った!?」
「舐めたら治るんだよ、知らないのかっ!?」
「近所の野良猫と一緒にするな……!!」
「痛い、痛い、痛い!」
 本当に悲痛な声を上げるので、アーネストは忌々しげに手を離した。
 カーマインはその場にしゃがみこんでこめかみを押さえると、情けない顔でしゃくりあげ始めた。
 アーネストの手よりもカーマインの頭の方がどう見てもダメージが大きい。
 しかしアーネストはそんなカーマインを冷たく見下ろして吐き捨てた。
「それとも貴様は怪我をした奴がいれば誰の傷にでも舌を這わせるというのか? 異常だな」
「………っ」
 カーマインは思わずアーネストを見上げた。
 その瞳から一筋、涙が零れて頬を伝う。
 アーネストは片方の眉を上げた。
「…………違う」
 ぽつりと言ってカーマインは立ち上がった。
 髪が乱れて、分け目のところもぼさぼさになっている。
 寝起きの姿よりももっと煩雑な髪型だ。
 それを気にしてかカーマインは自分の髪の毛を適当に撫でながら言った。
「……俺が付けた傷だから」
 アーネストは腕を組んだ。
 どうやらカーマインの返答がお気に召さなかったらしい。
 しかし、不意に笑った。
「……なるほど。自分が付けた傷には責任を持つというのか」
 カーマインは両腕を掴まれた。
 頭上に二本合わせて壁に押さえつけられる。
 脇ががら空きになったまさに無防備な格好だ。
 顔が紅くなったのを意識しないわけにはいかない。
「ならば、この間、貴様が私の背中に付けた傷も舐めて治してもらおうか」
「あ……」
 カーマインは顔を背けた。
「あれは、この間、アーネストが強引に……」
「強引に?」
「…………」
 強引に、何をされたか言わせる気でいるのか。
 もちろんそんなことカーマインの口から言えるわけがない。
「……それは貴様が抵抗しなかったからだろう」
「………」
 カーマインはきゅっと目を閉じた。
「……離して、くれ……」
「ふん……」
 アーネストは一度、カーマインの耳に舌を入れた。
「あっ!」
 跳ねる勢いで反応した身体から退く。
 手首を掴んでいた手も同時に離した。
「……喉が渇いたな。茶の支度をしろ」
 アーネストは言い置いて、カーマインを残すと勝手に居間の中に入っていく。
「………………」
 呼吸を整えてカーマインは廊下の床を見つめた。
「………誰が……」
 誰が支度なんてしてやるものか。
 そう思っていても。
「カーマイン」
 居間の方から怖い声で名前を呼ばれると、
「……うるさい……」
 一人呟きながら台所のほうに向かった。

 ………そんな風に反発した固い心で接していたはずが。
「悪くはない味だ」
 軽くほめられて妙にドキドキしてしまう。
 紅潮した顔でソファに座りながら身を乗り出す。
「……悪くはない味?」
「……だから、そうだと言っているだろう」
 投げやりに言われたけれどカーマインは嬉しかった。
 アーネストはどうしようもない意地悪だけど、その分、嘘やお世辞を言うことはない。
 何かを賞賛するときは全て本心から出た言葉だ。
 カーマインは自分の持つティーカップの中の液体を目を細めて見つめた。
 要するにお人好しだ。
 自分の命も省みず世界を救おうとしたぐらいなのだから、世界一のお人好しだ。
 この細い身体と、アーネストにさえ泣かされるくらいの弱い心で。
 アーネストは横を向いて深いため息をついた。
「……なに?」
 その様子を目にして、紅茶をふーふーしながらカーマインは聞いた。
 アーネストは顎を傾けながら不躾に辺りを眺め回す。
「……ここがお前が産まれた家か」
「一度、建て替えてるけど」
「……普通の家だな」
 カーマインは目をぱちぱちさせた。
「………確かに、コムスプリングスにあるアーネストの家よりは普通の家だと思うけど」
「それは何の嫌みだ」
「……嫌みではないけど……」
 カーマインは言いながら何故か紅くなる。
 そういえば、先ほど話題に上った、アーネストの背中に傷を付けたのも、その別荘でだった。
 考えなど手に取るように分かるのかアーネストはカーマインを見てわざとらしく口元のはしをあげた。
「………あの時は、お前の方から尋ねてきたのだったな」
「……アーネスト……」
 カーマインは縮こまって、ティーカップを握りしめる。
 熱さはどうでも良いらしい。
「……本当は何の用で来たのだ?」
「…………」
 カーマインは無言だった。
 唾を飲み込めば息を飲む音が大きく響きそうで……それを誤魔化す為に紅茶を飲む。
 目が白黒に変わる程まだ熱かった。
「……は」
 口元を押さえてカーマインは顔をしかめる。
 舌がいつもよりざらついた感触だ。
 火傷だ。
 アーネストは呆れたようにカーマインを見て、それから視線を移した。
「お前の部屋はどこにある?」
「え……」
 カーマインは火傷の不快さに目を閉じながら言った。
「……2階だよ」
「見せてもらおう」
「えっ、どうして!?」
「興味がある」
 興味がある?
 その言葉の意味を呆然と噛みしめている内にアーネストは立ち上がって居間から出て行ってしまった。
 気づけば、聞こえるのは階段を容赦なく上がっていく足音。
「ま……待ってくれ!」
 カーマインはティーカップをひっくり返す勢いで立ち上がり、子供のような走り方で後を追う。
 追いついたときにはすでにドアのノブに手を掛けられていた。 
「アーネスト、アーネスト!」
 心の中では「ライエル様!」と叫び出したい気持ちでいっぱいだった。
 腰に飛びつき背中に顔を埋めるようにして叫ぶ。
「待ってくれってば!」
「………何か問題があるのか」
「中、汚いから」
「どの程度、汚れている」
「…………」
 カーマインは考える。
 起きてからそのままの状態だ。
「ベッドが乱れて………」
「構わん」
 無情な言葉に気を取られる内にがちゃりとノブが回る音がする。
 軽量なカーマインの身体もろともアーネストはカーマインの部屋に入っていった。
 簡素な机とタンス。
 それに確かに整えられてはいないベッド。
 頭を抱えるカーマインにアーネストは言った。
「……つまらんな」
 カーマインはその言葉を聞いて妙に自分が情けなくなった。
 コムスプリングスにあるアーネストの家とはほど遠い。
 それでもカーマインは別に贅沢をしたいとは思わないしこの部屋に侘びしさを感じたこともない。
 ただアーネストの家と比べると……確かに見劣りはする。というだけの話だ。
「……気が済んだだろ」
「まあな」
 ふてくされたようなカーマインの言葉に対する返答もまた短い。
 カーマインはアーネストの横を抜けて部屋に入り込むとベッドを直し始めた。
 背中を前に倒してそちらを見ずに言う。
「下に戻っててくれ。少し掃除してから行くから」
 ものはついでだ。
 ずれた毛布を元の位置に戻していると、
「………?」
 アーネストが出て行く気配がない。
 振り返ろうとすると、いきなりジャケットを下からめくられた。
「っ!」
 カーマインは普段からジャケットを中途半端に降ろして着ている。
 その為、後ろ姿になるとお尻は隠れて見えなくなる。
 適度に引き締まり良い形をしているその部分が、スカートめくりならぬジャケットめくりをされて露わになっている。
「あああッ!」
 不思議な恥ずかしさでカーマインは変な声を上げてアーネストの手を振り払おうとする。
 しかしもっとジャケットを上に持ち上げられただけだ。
「前から気になっていたが、何故お前はこんな服の着方をするのだ」
 片手でジャケットをしっかり掴み、アーネストは淡々と聞く。
 カーマインは奪い取れないと分かるとその場に腰を落とした。
 これで恥ずかしい格好からは逃れられる。
 ベッドのへりを両手で掴んでカーマインは呻く。
 袖を通してあるジャケットのせいでどうしても二の腕は浮くけれど。
「こんなことして楽しいのかっ?」
「そうだな」
「っ」
 ばさりと、背中にジャケットが降ってきた。
 アーネストは離した手を下ろす。
「……お前の嫌がる顔を見るのは楽しいからな」
「………っ!!」
 カーマインは本気で怒った顔で振り返った。
 その前に後ろから抱きしめられる。
「嫌がる顔だけではないが」
 すっと胸にも手を回され、カーマインの身体がびくんと疼いた。
「………」
 シーツをぎゅっと掴んだままカーマインは黙り込む。
 目元は前髪に隠れて見えないが、口元は怒っているように引き締められている。
 アーネストはカーマインを抱いたままカーマインの髪を撫でた。
 跳ねた髪を本来の流れに戻し、分け目も作ってやる。
 それが終わると力を込めて自分の胸の中に引き入れた。
 カーマインは泣きそうな顔でされるがままになっている。
「……こ……こんな事じゃ騙されない。アーネストは嫌な奴だ……」
「そうだな」
「意地が悪いし」
「そうだな。最低だ」
「………
 カーマインは小さく首を横に振った。
「………………最低まではいかないけど」
 アーネストは不意を突かれたように笑った。
 世界一のお人好しらしい言葉が飛び出した。  
「………愚かだな」
 呟かれた言葉にカーマインがむっとする。
「意地が悪いよりも愚かな方が良い」
「………」
 アーネストは眉を上げた。
 カーマインは体勢を恥ずかしがりながらも後ろに目を向ける。
「………そういえば、本当に、今日どうして来たんだ?」
 聞かれてアーネストは実にあっさりとカーマインを解放した。
 きょとんとするカーマインを残してベッドに座り込む。
 そして、来たときと同じようにカーマインの頬をつまんだ。
「この間抜け面を見物に来た」
「……!」
「それと、この家をな」
 言ってカーマインの部屋を見渡す。
 生家を見ることにどんな意味があったのか。
 一度見たいと何気なく思っただけだから理由などは無かったのかもしれない。
 もしくは今から何を定義づけても言い訳になるだけだ。
 無性に逢いたくなった、という想いへの。
 それは先日のカーマインも同じだったということをアーネストは知らない。
 今はただ、ぱしっと手を払いのけられて微笑んだ。
「……この部屋に何か置く気はないのか」
「………アーネストの家みたいにするのか」
「何か俺に言いたいことが有りそうだな」
「………別に、そういうわけじゃないけど……」
 カーマインは相手を見上げた。
「これでいいよ、俺は」
 実に満足そうに言う。
「………欲のないことだ」
 半分、呆れながらアーネストは言った。
 カーマインは首を傾げた。
「……そうでもないと思う。欲なら、けっこうある。…………もう少し、優しくしてほしいし」
 最後にそう続くとは思わなかったので、危うくアーネストは聞き流すところだった。
 カーマインは何か言いたげに唇を開き……また静かに閉じてアーネストを見つめる。
 神妙な表情だ。
 表面上は全く動じてないように見えるアーネストは、やがて小さく失笑した。
 鼻で笑われカーマインの顔が耳まで真っ赤に染まる。
「無理だな。この意地の悪い男には」
 カーマインが先ほど言った「意地の悪い男」というセリフを皮肉った。
 それが分かると、カーマインは奇妙に目の色を変えた。
「じゃあ優しい人だって言ったら優しくなるのかっ?」
「………」
 言いたいことは分かるが。
 理屈としては不自然だ。
 それでも構わないのか、カーマインはベッドに掴まると口早に言った。
「アーネストは優しい、アーネストは優しい、アーネストは優しい」
 そんなことで本当に他人の性格を変えられると思うのか。
 鬼のような騎士と一部の人間に囁かれることもあるアーネストを。
 それでも止めずに何かの祈りのように声に出しているカーマインにアーネストは破顔させられる。
 馬鹿で愚かなお人好しだ。
「………少しで良ければ、合わせてやろう」
 アーネストはカーマインに手を差し伸べた。
「来い」
 カーマインは驚いた顔でアーネストを見る。
 それから、ゆっくりと目を細めた。
「………いいのか?」
「ああ」
 カーマインは照れくさそうにしながらもアーネストの膝の上に乗った。
 背中にアーネストの胸が当たる。
 すぐそばにはアーネストの顔がある。
 腕を前に回されて、まるで護られているかのようだ。
「……変な感じだな」
 正直に言うと、
「嫌ならどけ」
「すぐにそういうことを言う……」
 カーマインは安心しきった顔で、どこかで余裕すら見せてかアーネストの身体に思う存分すり寄って甘える。
 何もない部屋だけれどアーネストはいる。
 こんなに近くにいて優しく抱きしめられている。
 何もすることがない1日よりも遙かに贅沢なことを見つけた。
 
 植木鉢の葉がささやかに揺れる、とある日の昼下がりのことだった。
 母親も妹もお目付役さえもそれぞれ何かの用事で忙しいらしい本日。
 カーマインは自他共に認める意地の悪い男に抱かれ、とても幸せだった。
 たまには、こんな締めくくりで終わる日記の1ページがあっても良い。
 
 END.  



HEROS;PANORAMA:夕紀様より

夕紀様から頂きました黒アニーx1主ですよ奥さん!(誰)
人の好い、白アニーも好きですがカーマインに熱烈な歪んだ愛を
贈る黒アニーも大好きです・・・!暴力的な雰囲気を醸し出しながらも決して
傷をつけるようなやり方をしないところとか!逐一見下ろしてる感がたまりません!!
カーマインはカーマインでアーネストの苛めに耐えつつも健気なところがよいですね。
周囲の人間をハラハラさせそうな仲でも結局は出来上がってる二人に愛です。
何だか黒アニーの新境地を垣間見せて頂いた気がしてなりません・・・!
素敵且つ無理を聞き届けて頂いたSS、どうも有難うございましたー!!