猫のはじめて。
暇を潰したわけではない。
その相手が誰でも良かったはずはない。
ただ、その頃、恐らく彼は人間を嫌いになっていたのだろう。
それとは裏腹に人間を欲してもいたのだろうと思う。
邪魔にはならず。
張りつめるほどの静かさもない。
ただ温いだけの空間も嫌なら、目眩がするほどの熱情も持ち合わせていない。
穏やかさはいらない。
騒がしさもいらない。
言うことを聞けと、言うことを聞くなと、両方叶えてくれる相手。
………そんな奴など居はしまい。
無い物ねだりの遠い目で高い高い空の神々を愚弄して。
要するにたまらないほど疲れていたのだと、顎を上げて、深いソファに寝入る。
今日も恐らく何も無い。
くだらない。
いっそ、もう。
例えば猫にでもなってしまえれば何も考えなくて楽だろうか。
「……………」
そう思い、飼い猫の背中に手を乗せる。
撫でる前から喉を鳴らしていた愛嬌のある輩に、アーネストは笑みを漏らす。
ろくに構ってやった覚えもないのに、懐いている。
ほんの気まぐれだろう。
これで味を占めて、しょっちゅう構うようになってしまったら、この猫はすぐに俺を嫌うだろう。
目に見えている。
それが分かっていてアーネストは、猫を両手で持ち上げた。
ソファに寝転がる自分の腹の上に猫を置き、しばし手で掴まえたままにする。
視線の先。
猫がこちらを見る。
心地よさのまるで無い、警戒して見開かれた瞳。
こちらの瞳孔を逐一漏らすまいと監視してくる。
アーネストは目を細めてその強い視線を受け止め、猫の背を撫でる。
片手で細い足を捕まえたまま。
いつでも逃げ出せるようにと背中の骨を浮かせているので、かえって頼りない感触だ。
毛の下には皮があり、脂肪などは無く、すぐに骨格。
不意に猫の身体が動いた。
腹を蹴って飛び出そうとしたのを難なく封じ込める。
緊張した呼吸が伝わってくる瞳で睨み付けられる。
ため息をついてアーネストは天井を仰いだ。
……………猫では駄目だ。
これが人間だったら、今よりもっと気持ちが良かっただろう。
放せとか、殺すぞとか、何も言ってこない猫では気がそがれる。
もっと本気で抵抗されたい。
その上で言うことを聞かせたい。
泣き出す寸前のくせに弱みを見せないようにと強がる類の瞳が見たい。
こんな小さく、か弱い生き物では。
アーネストは猫を解放してため息をついた。
本気が出せない。
ああ。つまらない。
走り去る猫の尻には目もくれず、立ち上がると窓のそばによる。
気持ちの良い風を運ぶ、開かれた空間に、塞いだ心の持ち主が立った。
コムスプリングスでそんなことを考える男は俺1人ぐらいだろうなと内心で失笑しながら、窓枠に手を置いた。
平和で穏やかな時間が売りの観光地で、本気にさせろ、とか。
気が病んでいるとしか思えない。
猫がどこかで鳴いた。
振り返りながら別の音も耳にした。
玄関の呼び鈴が鳴らされた音だ。
「…………」
だるい速度で歩き出す男の前に、いつの間にか猫が躍り出て、そしてまたいつの間にか消えていった。
1人になりたい=色々と面倒くさい。
そんなあり得ない理由で、家の使用人達全員に暇を出した。これもあり得ないことではあるが。
もっとあり得ないのは、その暇がたった三時間だけというものだ。
三時間だけ家から出て行け、それが終わったら戻ってこい、なに、夕飯を自分で作れと言うのか、この俺に?
という心情だった。
もちろん、そのままを口に出したわけではない。
成人した大の男がそんな小さい我が儘を言ってどうなる。
巧くごまかして上手な言い方をして、追い出した。
もちろんこれが初めてではない。
家の中に自分以外の人間が誰も居ない状態というのがかなり好きだった。
また呼び鈴の音がする。
呼びつけられている。
誰だか知らないが、いきなりこの家の主のこの俺が姿を見せたら相手は驚くだろう。
そして怖れ伏すかもしれない。
そんな状態の人間を見るのもかなり好きだった。
本当に面倒くさそうな顔をして応対してやろう。
相手はきっともっと申し訳なく思うだろう。
アーネスト・ライエルは荒んでいた。
善良な一般市民だろうが、八つ当たりをする気でいっぱいだった。
特に嫌なことがあったわけでもないというのに。
満たされない。
「……はい」
無愛想な冷たい声音で玄関を開ける。
最初に見えたのは琥珀色の片眼。
ドアを全て開け切ると、色違いの片眼が見えた。
異相だな。
予想とは大幅に違うものが現れて僅かに驚いた。
派手な双眸だが、髪は黒く、スタイルも地味だ。
それでも瞳の大きさ、形、鼻と口元。
パーツのバランスが秀逸だ。
……さっそく来たのかと思った。
そんな奴など居ないだろう? と、神々に罵った後だから。
すぐに派遣奉られたのですか、と。
「……何か?」
アーネストは目元を凍り付かせたまま、唇を微笑ませる。
腕を組んで肩から壁にもたれかかった。
アーネストを呼びつけた少年は……少年だった、身体の線がはっきりと出る服を着ているから
間違いは無い……ともあれ、少年は、一度唇を結んだ。
愛想笑いなど見せなかったことがアーネストの気分に合う。
ひとつ思う興味は、相手が自分の顔と職業を合致させているのかどうか、だ。
俺を知らない奴なら、ますます印象が良い。
どこまでもひねている。
少年は、きちんとアーネストの目を見て言葉を発した。
生意気そうな、意志の強そうな眼差しが良い。
「突然すみません、あの」
「1人か」
「え?」
え? と聞きながら、は? の顔をした少年。
質問をしようとした先に、妙に砕けた口調で質問をされ、少し間の抜けた顔になる。
アーネストはちらりと見る。
少年の横にも背後にも人はない。
「……手分けして、捜しているので………と、言うか……」
口元を押さえて眉間を寄せた様子を見てアーネストは鼻で笑う。
何も悪くないのに笑われて、それでも少年は、少年の方からは初対面の人への礼儀を決して崩そうとはしない。
どんな相手にも誠意を以て接する性格のようだ。
それは好きだ。
心に愉悦が灯る。
端から見れば、獲物を狙っている瞳にしか見えない見つめ方で少年を眺め、アーネストは斜めに顎を上げた。
「捜す? 人か物か」
偉そうに、主人のように。
その態度に不満を覚えない初見の人間など居ないはずなのに、少年は固い声音ながらも丁寧に説明をした。
「人を捜しています。この街でフェザリアンの研究をされているという方を訪ねてきました。
心当たりなど有りませんか」
強張った声だからこそ、本来の質がかいま見える。
響き渡り、澄む音だ。
いざという時は凛と張って広い場所にも伸びるだろう。
悪くはない。
くだけさせてみたいという欲は、生じる。
「……中に入れ」
「え?」
訝しげに見上げてくる相手にアーネストは一歩、退きながら言う。
「心当たりなら、ある。その人物の家の場所を詳しく説明してやる。中に入れ」
少年は途端に両目に力を入れた。
よほど、大事な用件らしい。
救われた顔で肩の力を抜く。
「本当ですか……!」
「嘘は言わん」
「ありがとうございます。お願いします」
促されるままにアーネストの家の中に足を踏み入れる。
颯爽とした動き。
黒髪がふわりと揺れた。
アーネストはふと手を空に泳がせ、何事もなかったかのように奥の廊下に向けて指す。
「こっちだ」
「はい」
真面目な顔で少年は頷く。
廊下を歩きながら、
「名は?」
「え。はい、確か……」
「自分の名前を言うのに悩むのか」
首だけ振り返ると、少年はぱっと前髪を揺らす勢いで顔を上げる。
驚いたような大きな瞳の形はやはり綺麗だ。整っている。
あの猫でも負けるかもしれない。
その猫はどこに行ったものやら気配すら感じさせない。
「カーマインです」
「……」
下の名は?
と、問うのも良かったが、意図的に隠したのならば聞いても無駄なのだろう。
睨み付けてやるとカーマインは口元を引き締めて生意気にも睨み返してきた。
……は。そういう態度か。
愉快そうに笑んでしまうのを隠すためにアーネストは首を元に戻した。
しかし、そこで彼にとって意外なことが起きた。
「貴方の名前は?」
黙ってついてくるかと思えた黒髪の少年がはっきりと質問を浴びせてきた。
笑うのも止めてアーネストは黒目だけを動かして背後を見やり、それから身体全体で振り向いた。
「アーネストだ」
「……アーネストさん、ですね」
アーネストは頷きながら意地悪そうに目を細める。
「下の名も教えて欲しいか?」
カーマインは一瞬だけ眉間を寄せて、すぐに長い睫を伏せて首を横に振った。
「いいえ」
僅かにうつむいたせいで長い前髪の1本がカーマインの鼻筋にかかった。
瞳が開く時、美しさの固まりが現れる、その静かな感動は呆れ返るほどの早さで心を取り込んでゆく。
こんなのが今までこの平和な観光街の中を歩いて、そしてここにたどり着いたのかと思うと、悪い冗談の
ような気がした。
良く他の者は見逃すことができたものだ。
さすがは穏やかな観光地だ。
「来い」
アーネストは少年の二の腕を掴むと、拒否をされる前に素早く歩き出した。
来いと言われるまでもなく案内されているつもりだったカーマインを部屋の中に押し込み、ソファに投げ出す。
カーマインは乱暴な扱いに文句を言うわけでもなく、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。
息を飲んだ表情のまま、窓を締めるアーネストの背中を見つめている。
取り出したのは本当に街の地図だ。
カーマインの隣に座りながら広げる。
横を見ると、カーマインは安心したような息をついていた。
知らないフリをして聞く。
「この街に来るのは初めてか」
アーネストの質問の語尾は、自分でも思うが、分かりにくい。
一般の発音として最後は跳ね上がるのが普通だが、あえて一定のイントネーションを保っている。
わざと独り言のように。
これは相手がきちんと自分の言葉を聞いているか試すためでもある。
小さな仕掛けにカーマインは、
「はい。初めてです」
間を置かずに答える。
雰囲気に飲まれてもいないようだ。
「こういう観光地は、他から来る奴らの為の外向きの区間と、地元の人間の為の居住区がはっきりと分かれている。
居住区側のほうは、その分、初めて来る人間には分かりにくい構造をしている……」
「……観光地側の建物をどうしても優先する為に、居住区側は不親切な造りになるのかもしれません」
「そうだな」
知ったような口を聞く。
だが、この少年となら、どんな話題を選んでもある程度は楽しめるかもしれない。
媚を売るわけでもないのにそれとなく合わせるような相づち。
嫌みもわざとらしさも無い。
そのくせ、
「場所を教えてください。俺の他にも仲間が動いていて、……あまり時間が無いんです」
隙もない。
アーネストはしばらく地図を見つめた。
長すぎる間だった。
「………………………そうだな」
言って、アーネストは地図をたたむ。
不思議がるカーマインの顔を見て、アーネストは何故かため息をついた。
上体を少し前に倒し、何か美味いものでも食べた後かのような充足した吐息だ。
カーマインは俺の為に居るのかも知れない。
やはり猫では駄目なので。
猫のような人間を。
言葉というのは重要だな。
意志や知性も。
心一つ。
アーネストはカーマインの手首を掴んだ。
カーマインは握られた手首を確認して、それからアーネストの顔を見る。
「場所は教えよう。だが、俺の頼みも聞いてくれ」
カーマインは身体を引いた。
掴まれた手首を残して、少し腰を移動させる。
「用件によります。具体的な頼み事の内容を聞かなければ返事はできな、痛っ」
言葉の途中で手首を握る指先に力を加える。
小さな悲鳴がどれほどの負荷を与えているのかをアーネストに教えた。
不意を突かれたせいもあっただろうが、カーマインは身体を硬くさせて顔をしかめている。
「いい気になるなよ」
掴んだ手首をぐいと上に持ち上げる。
腕の裏側、脇、そこから腰まで降りる線が全て見える。
「それが初対面の人間に物を頼む態度か」
もう1本の腕を使って、アーネストはカーマインの身体をソファに押し倒そうとした。
その時、カーマインがたまらず声を上げる。
「離せ!!」
ダメージを与えたはずなのに、思いがけぬほど強い声だった。
無茶な動きでアーネストをはねのけようとする。
手首の痛みすら忘れたような、曲げた足で思い切りアーネストの太ももを蹴りつける。
遠慮など無い反撃に、思わず感心した。
が、あまり激しく動いた為にカーマインはソファから転がり落ちてしまった。
手首を掴んでいたアーネストも引き擦られそうにはなったものの、手は離さずに、床に膝をつくような
こともしない。
結果、アーネストに一部の自由を奪われていたおかげでカーマインは背中から落ちることが出来たのだが、
「離せ! 貴方こそ、それが初対面の人間に対する礼儀か!?」
「礼儀だと?」
うるさそうに髪をかきあげ、アーネストはやや引いた様子でカーマインを見下ろす。
「礼を尽くすつもりなど俺には無いが?」
それこそ何故、初対面の人間に?
もちろん一般常識としての礼儀を取れ、という意味で叱られていることは知っている。
だが、からかってみたかった。
「お前こそ、良く初対面の人間の足をこんなにも強く蹴ることができるな」
アーネストの太ももには、ばっちりカーマインの足の跡が残っている。
「……当然だ……!」
奥歯をぎりぎりと噛み合わせる勢いでカーマインが吐き捨てる。
強く睨みながら。
「貴方にはもう聞くことはない。教えてくれなくても構わない。離せ」
一言、一言、脅しつけるように発音する。
アーネストは首を傾げた。
「それは残念だ」
続けて言う。
「奴の居場所はもう二度と分からないだろうな」
カーマインは目を見開き、そして、ぐっと細めた。
「………何…?」
「望み通り離してやろう。……行け」
意地の悪い子供のように、アーネストはあえて手首を引き揚げてからぱっと手を離した。
床にもう一度背中から落とされて、しかしカーマインは怒らない。
アーネストの言葉を聞いて、思考がそっちにのみ注がれているようだ。
起きあがり、片膝をつきながらカーマインはアーネストを見る。
アーネストはカーマインを横目で見た。
真正面から向き合わず、もう興味を失った対象のように。
「………嘘だ」
カーマインは言った。
言葉とは裏腹に顔が緊張している。
声音も。
これでは誰が聞いても、半信半疑のまま呟いていると判断するだろう。
「貴方が何を知っていると言うんだ。俺を引き留める為の……」
「誰がお前を引き留めているというのだ。さっさと出て行け」
最後にはアーネストはこんなことまで言った。
「貴様のような、人を不快にさせる顔の人間は、二度と見たくないな。早く行け」
…………カーマインが生まれて初めて言われた言葉だったということをアーネストは知る由もない。
ただ、予感はした。
無自覚でも何でも、顔立ちが整っている人間は、外見を揶揄されたり否定されたりする経験に乏しい。
その衝撃を与えた珍しい人間に強い関心を覚えることだろう。
「……な……」
カーマインは動揺した。
視線を泳がせ、呆然とうつむく。
その様を一目だけ見て、アーネストは横を向いた。
予定以上の打撃だ。
女のような反応だ。
男のくせに。
もしかしたら、よほどの世間知らずなのかもしれない。
だとしたら些少は悪いことをした。
ちっとも反省していない心の中で思いを浮かべる。
…………だが、さすがにそのまま時が過ぎることは無かった。
カーマインはアーネストから顔を背けて言った。
「………この街で、貴方だけが、彼の家の知っているというんですか」
アーネストは、少年がこちらを見ないのをいいことに、今度は堂々と正面を向く。
カーマインはアーネストの視線から逃げるようにもう少し首を曲げた。
「さあな。何のことだ」
「………さっき言っただろう」
アーネストは鼻で笑う。
「…………だったら、何だ?」
「嘘ではないという証拠は?」
「だから早く貴様が出て行けばいい。おのずと分かるだろう。どれだけ仲間と共にこの街を捜しても、
目当ての家が見つかることはない」
ソファに座り直して、アーネストは背中を埋めた。
「それが証拠だ」
良くもこんな嘘がすぐにつけるものだと、自分自身を笑い飛ばす。
「…………何故?」
「俺しか知らない場所に家が建っているというだけの話だ」
肩をすくめて両手を少し広げる。
こんな演技も本当はいらない。
カーマインはアーネストのほうを見ていない。
目の端に映り込むかどうか。
やがてカーマインは疲れた動きで首を横に振った。
歩き出し始める。
賢明だ、実際に外に出て確かめに行くのだろう。
冷静な考えを失わないところは好意的に捉えられるな。
カーマインはアーネストの前を通りすぎる頃には、もう顔を上げていた。
逆に言えばアーネストに顔を見られなくなって、ようやくうつむかずに済むと思ったのか。
何も告げずに部屋を出ていこうとする足音。
アーネストは目を閉じてソファにもたれかかる。
耳にガチャリという音が響いた。
それから、ガチャガチャと、幾度もノブを回す音。
「………開かない……!」
焦れたように家の持ち主に報告する。
「いつ、鍵を……」
カーマインは急いでアーネストの所に戻ってくる。
眠ったようにソファに身体を預けるアーネストの肩に手を置く。
「開けてくれ。どうして」
「………」
アーネストはゆっくりと瞳を開けた。
そして、カーマインの瞳と視線を合わせるように下から顔をのぞき込む。
真正面から顔を見られ、カーマインはつい反射的に、うつむいた。
さきほどの事があったからだ。
自分の顔に小さな疑問を生じているはずの、その顎を片手の指先ですくい、アーネストは自分に
近づけようとする。カーマインは自分が何をされているのか分からないようだった。
不快じゃないのか、と。
生真面目に問いたげな表情。
気を取られている隙に。
……目を閉じたのはアーネストの方だけだった。
「……っ」
触れた瞬間、カーマインの背がびくりと大きく震えた。
もう遅い。
カーマインは猫のように目を見開いたまま、アーネストに唇をくれてやっていた。
恐らくは強くなるであろう可能性を秘めた身体も、また闘いを覚え始めたばかりだと思われる筋肉にも、
アーネストとの対峙は酷だった。
ようやくキスをさせられているのだと理解したカーマインは身体を引きはがそうとアーネストの肩に
置いた手に力を込める。
しかし背中に回されたアーネストのたった1本の腕が、少年の全身全霊をいとも容易く封じ込める。
徐々にお互いの身体は近づき、カーマインは呼吸が止められていることも手伝って力が入らなくなる。
それを知ってアーネストは唇を外そうとはしない。
「……っ、……!」
カーマインは両目をぎゅっと閉じた。
少年の細い腕が関節から曲がり、胸がアーネストの胸に着くと、やっと唇を離す。
たまらなく息を吸い込んだカーマインの回復を待たず、今度こそソファに押し倒す。
急いで酸素を吸い込みながら、カーマインはアーネストの胸を手で押す。
弱い攻撃に笑みがのぼる。
「カーマイン」
初めて名前を呼んだ。
カーマインはうつろな目を薄く開く。
「初めて出会う男に犯される気分はどうだ」
言われて、カーマインの目に怒りという名の理性が灯る。
「離せ……」
それでも気持ちに身体がついていかない。
分かってアーネストは言っている。
まだ肩で息をしながらカーマインは起きあがろうとする。
その腹目がけてアーネストは拳を置いた。
鳩尾の辺りに、じわじわと力を入れる。
眉間を寄せたカーマインが苦痛の悲鳴を上げるまでそう時間はかからなかった。
ソファにカーマインの身体がめり込んでいく。
そのぐらいしなければ、この猫は鳴こうとしない。
そうだな、内蔵が壊れるか、心が折れるか、どちらかだ。
できるなら身体が折れたほうが良い。
この少年の心が折れる所など見たくはない。
さあ、身体を滅ぼしてでもいい。
俺に屈するな……!
「………あ、ぐ……!」
カーマインの顎ががくんと上がる。
アーネストの目に歪んだ愉悦が輝いた。
限界が。
その時。
猫の声がした。
にゃん、と鈴の音のように涼しい音がして、アーネストが横を向く。
誘われるように見た先に、猫が座っていた。
人間のように感情があるわけでもない。
こちらを見て、心配そうにしているわけでもない。
馬鹿にもしていない。
アーネストは猫を睨み付けた。
そして、腕から力を抜いた。
カーマインは圧迫から解放されて、ぐったりと目を閉じた。
「…………」
猫を睨み付けている間、猫もこちらをじっと見ている。
けれどアーネストが気を削がれた顔で別の方向を向くと、音もなく走り去って、どこかに消える。
………そういうものなのかもしれない。
アーネストはカーマインの腹を撫で、異常が無いことを確かめた。
感触に身をよじった少年を見下ろして何故か微笑む。
「……少し休んだら出て行け。お前が捜している家は、ここのすぐ近くだ。仲間がすでに見付けているだろう」
そう言い残すと、アーネストは自分の服から鍵を取り出し、自分でドアを開けて出て行った。
廊下に出ると猫が待っていたように足下にすり寄ってくる。
邪魔をしておいて甘えてくるとは良い身分だ、と。
アーネストは猫を両手で抱き上げて、自分の顔の前に持ってきた。
異国では猫も食糧になるらしい。
お前も食われてみたいか。
猫は空中でばたばた足を動かす。
ため息をついてアーネストは猫を下ろした。
床に着地をした猫が不意に鼻を動かす。
ドアが部屋の内側から開き、片手で腹を押さえたカーマインが中から出てくる。
アーネストはその姿を見ても何も言わなかった。
まだ辛そうに顔を歪めながら、カーマインは背中でドアをしめる。
そしてアーネストを見た。
緊張した目元を、そっと和らげる。
「時間が無いから……俺はもう行く」
かすかに震えた声が、そう言った。
アーネストは背を向けて立ち去ろうとし、カーマインも別の方向に顔を向ける。
屋敷の奥と、玄関に、それぞれ。
「………貴方は、本当はこんなことが簡単にできるような人間ではないと思う」
最後に。
「……………許したわけじゃない。嫌いだ」
その、本当に哀しそうな顔を、アーネストは見ることができなかった。
もう距離が離れていたから。
唇を拭うことなく歩き始めたカーマインを、主人の替わりに猫が見送ったことも。
二人が居なくなると、猫はまた走ってどこかに消えた。
END.
HEROS;PANORAMA:夕紀様より
夕紀様からまたしても頂きました黒アニーx1主です!
しかも初顔合わせ!!「黒アニーさんがカーマインを見初めるきっかけのお話」を
リクさせて頂いたんですが、いやもう大満足です。
着々と黒アニーさんはカーマインの印象を良くして、対するカーマインは
完全拒否なのですけれども。そこがまた萌えます。一方通行大好きですから・・・!(黙れ)
むしろ印象に残るようにと嫌われそうな事ばかりする黒アニーさんにトキめきます。
捻くれ愛はいいですね。真に有難うございましたーーーー!!
あ、夕紀様のサイトにはオチが別バージョンのお話しがあります。
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