今、会いに行きます





「・・・・・・本当に大丈夫か?」

低い声音には本当に心配の色を乗せて。アーネストは自分の腰にも及ばぬ小さな存在の左右色違いの瞳を覗き込んだ。
大きく、長い睫に縁取られたそれは煌々と輝いてはいるものの、その奥には僅かばかりに寂しさを覗かせていて。
どんなに口では平気だと言っていてもその実は離れる事に寂寥を感じているのは明らかであった。アーネストは眉を寄せる。

緋色の、気遣わしげな視線に絡め取られたカーマインはそれでも健気にこくこくと頷き続けていた。それは休暇も明けて
職務に戻るアーネストに余計な心配をかけぬようにと懸命に。それが分かっているからアーネストもそんなに強くは
問い質せない。大体、ここで寂しいと言われても職場に連れて行く事は出来ず。仕方なしにアーネストは息を吐き、カーマインの
小さな漆黒の頭にポンと手を乗せると長い前髪を割って現れた額に自分のそれをコツンと当てて微笑んだ。

「なるべく早く戻って来る。それまで待てるか?」
「うん、アーネストこそお仕事頑張ってね・・・・?」
「・・・・・・ああ」

紅葉のような小さな手を掬って優しく握ってやるとアーネストは食事や着替えなどの生活において必要な知識をもう
幾度目になるか分からぬが確認し、次いで名残惜しげにカーマインの頭上に生えた獣耳の裏を撫でた。
それから本物の猫にするように顎下を擽るとカーマインが気持ち良さそうに擦り寄ってくるのでその様に瞳を和ませやがて職務に
必要な書類を詰めた鞄を手に取るとゆっくりと屈ませていた身を起こして玄関口へと足を進めた。その大きな背を追うように
とてとてとカーマインもやや覚束ぬ足取りで玄関へ向かう。アーネストがドアノブに手を掛けて一度こちらを振り向くとカーマインも
足を止めた。そして小さな手を空に掲げて左右に振る。口元にはあどけない笑顔が浮かんでいる。

「いってらっしゃい、アーネスト」
「・・・・・・ああ、行ってくる」

鈴の鳴るような声で送り出されて、ほんの少し擽ったい気持ちになりながらアーネストは殊更ゆっくりとドアノブを引き、扉を開く。
眩しい陽光が室内に差込み、それに照らし出された柔らかに微笑むカーマインの姿が逆光でところどころ霞み、何処か儚さを
醸し出す。足が地面に縫い止められてしまう気がした。しかし何とか振り切ってアーネストは外へと足を踏み出し、そっと扉を
閉める。パタンと締め切った音が響いた瞬間、カーマインは隔てられ見失った背に酷い喪失感を覚えぎゅっと身につけた
白シャツの裾を握り締めた。

目尻にはうっすらと涙すら浮かんできたが、子供ながらにここで泣いてはアーネストが心配する、と何とか堪え
前もって教わった通りに、立派な玄関の扉の鍵を閉めた。それからすぐに外が見える屋敷の中の大きな窓へと駆けていく。
引かれた白いレースのカーテンを引っ張って、外を見る。そこからは木々や街並み、そして愛馬に跨るこの屋敷の主の後姿が
見えた。カーマインはその背が見えなくなるまで窓にべったり張り付いて見送り続けたていた。




◆◇◆◇




「・・・・・んしょ」

アーネストが見えなくなってからも暫く窓辺から外を見ていたカーマインだったが、カーテンを閉めるとアーネストに言われた通りに
先ずは用意された朝食を食べる事にした。カーマインが座るには少し高いソファに何とか登り上がりテーブルに置かれたトレイに
掛けられたクロスを外して自分の膝に掛ける。それは零すといけないから、と以前アーネストに言われてから自然と身についた
習慣の一で。

クロスを外すとそこには小皿に乗ったキャラメルで味付けられたトーストと既にグラスに注がれた冷たいミルクが置かれていた。
どちらもカーマインの嗜好に合わせたものでアーネストは滅多に口にしないものだ。それをわざわざ用意してくれたという事実に
カーマインは少し嬉しくなる。手を合わせてお辞儀しながら「頂きます」と口にするとそっと皿の上からそれを取り上げた。

パクと口に入れる。瞬間、甘い味が口内にじんわりと広がっていく。暫くはそれをもごもごと口を動かして食べ続けていたのだが
いつもならここら辺で「旨いか?」と尋ねてくる筈の低音が聞こえてこない事に不意に寂しさを感じた。パッと顔を上げる。
きょろきょろと屋敷内を隈なく見渡す。けれど当然ながらそこには探し求めている姿は浮かんでこない。

「・・・・・・・・・・・・・ッ」

何だか目頭が熱くなってきて、カーマインはごしごしと目を擦る。手に持っていたトーストも皿の上へと戻した。
不味かったわけではない。むしろこれはとても美味しいものだと思う。でもそれはアーネストがいてこそだ、とカーマインは
今更ながらに気づく。

食事中はあまりアーネストは喋らない。でも、ずっと暖かい瞳で自分を見ていてくれる。とても静かだけれどその場には確かに
優しい空気が流れている。だからカーマインは例え無音でも楽しかった。でも、アーネストがいないといつもは慣れてる筈の無音が
とても重い。急に一人なのだと思い出してしまう。ぷるぷるとカーマインは頭を振った。込み上げてくる寂寥を拭い去ろうと
するかのように。

そして喉から競り上がってくる正体不明の何かを溜飲するために小さな両手でグラスを掴み取り、くいと一気に中身を飲み干す。
空になるとそれを持ってキッチンへと足を運び、椅子を引っ張ってきて足場を作ると流しへとつけ置く。本当は洗えればいいのだが、
如何せん背が足りず、蛇口に手が届かない。なので最低限出来る事だけをこなし、カーマインはたたーっと忙しなく駆ける。
寂しくて、悲しくて。苦しさを少しでも和らげようとある場所を目指す。

リビングを通り過ぎた書斎の隣りの部屋、そこにあるのはアーネストと自分がいつも一緒に眠っている寝室。大きな白い扉を目一杯
背伸びしてドアノブを引っ張り開くと一目散に部屋の奥の大きなベッドへとまたよじ登る。いつもだったら自分で上る前に
アーネストが抱き上げて横たえてくれる場所。

その事を思い出すとまた小さな胸がきゅうと締め付けられる。カーマインは整えられたシーツをくしゃくしゃにしながら乗り上がると
四つんばいになって前へと進み、枕へと手を伸ばす。ふわふわした寝心地のいい寝具にはクンと鼻を少しヒクつかせるだけで
感じ取れる匂いが染み込んでいた。香水とアーネスト個人の体の匂いとが混じったそれはカーマインが最も落ち着く優しくて、
でも何処か力強く印象に残る香で。アーネストの性格を反映した香りにカーマインはそこにアーネストが存在しているかの
ような錯覚を起こす。抱き締めた枕に顔を摺り寄せた。

暫くはそのまま枕に顔を埋めていたが、やがて本物とは似ても似つかぬ感触と温度に一度は安堵した心がまた冷たく
なっていくのを感じる。胸にぽっかりと穴が開いてしまったような、そんな気持ちでカーマインはベッドに横になり、寂しさを
忘れようと懸命に眠ろうとする。しかし、一向に眠りは訪れない。アーネストが傍で頭を撫でてくれればすぐに瞼は重くなるのに。
あの優しい手がなければ例えどんなに疲れていても眠る事など出来はしない。カーマインは堪えきれなくなってついに冷たい
シーツと枕に顔を寄せながら泣き出してしまった。

「・・・・・ふえ、えぇぇん」

泣きながら、けれど思い出したように以前教えられた眠れなくなった時のための子守唄や羊を数えるなどの方法を試してみる。
しかし泣き声に掠れた歌は無惨で、数えた羊は不気味だった。余計に悲しくなってくる。結局カーマインは声が枯れるまでずっと
ベッドの上で今はいない屋敷の主を想って泣き続けた。




◆◇◆◇




ボキン、と不吉な音が室内に響いた。その音の元凶をアーネストは何処かぼーっとした目で見遣る。手に持った万年筆の先が
綺麗さっぱり折れていた。机上にはインクも僅かに散っている。アーネストは溜息を吐いて緩慢な動作で布巾を手にすると零れた
インクを拭っていく。何故すぐに布巾が出てきたかといえば、これと同じ事をもう三度も繰り返していたからだ。その際駄目にした
書類は十数枚に及ぶ。完全な失態だった。しかし今のアーネストにはそれを悔いる余裕などなく、新しい万年筆を手に取ろうと
机の引き出しを探るが、そこにはもう何もない。持ち合わせた分は全て使い物にならなくなってしまっていた。

「・・・・・・・・・しまった・・・・・」

口に出してはみるが、実はそんなに慌ててもいない。別の事が脳裏を占め続けて他の事を考える余裕などがないのだ。
しかし職務を放棄するわけには行かない。大体今机に積まれた書類を片付けねば帰る事すら出来ないのだから。早く家に
帰るのなら、集中してさっさとこれを片付けてしまうに限る。それは分かっている、分かっているのだが・・・・・。

「・・・・・ちゃんとやっているのだろうか・・・・・・・」

先ほどから漏らしている独り言。やれ、大丈夫だろうかとか、何をしているのだろうとか、心配だなどバリエーション豊富なそれは
全て自分の屋敷に一人で留守番させているカーマインに向けられたものだった。今までずっと自分が傍についていたのが、急に
いなくなった事でカーマインが寂しい思いをしていないだろうかと、食事はちゃんと採っているのだろうかと、果ては泣いていたり
してはいないだろうかと心配の種は尽きない。いっそ早退しようかと何度考えたかも把握出来なかった。

「・・・・・・はあ、考えていても仕方ない」

言い聞かせるように呟いてアーネストはのろのろと立ち上がる。そしてドアを開くと隣のオスカーの執務室のドアを力なく叩く。
無くなった万年筆の代わりをオスカーから得ようと思っての行動だった。ほどなくして部屋の主は訝しげにドアを開いた。
外に立っているアーネストの生気の欠けた表情を見上げると益々表情を顰める。

「・・・・・何、どうしたのさ、アーネスト」
「・・・・・・・・・万年筆、持ってないか?」
「はあ?そりゃあるけど自分の使いなよ」
「・・・・・・・・全部折った」
「はあ〜!?」

アーネストの抑揚のない言葉にオスカーは大きな声を上げる。確かに内容があまりに素っ頓狂であったから驚くのも無理はない。
オスカーは探るようにアーネストの青白い面を見遣るが相変わらず死人のように生気がない。普段から無表情ではあるがここまで
表情がないのも珍しい。ひょっとして病気か何かだろうかと首を捻る。そんなオスカーをアーネストはチラと一瞥するがやがて
興味を失ったように目を逸らすとくるりと踵を返した。

「・・・・・ちょっと、何処行くのさ?」
「・・・・・・・・・・・もういい」
「もういい、ってちょっと・・・。万年筆なかったら仕事にならないでしょうが」
「別に・・・・。何処かで探してくる」
「え、いいよ、いいよ。僕の貸してあげるから!それよりどしたの、何か悪いものでも食べた?」

はい、とアーネストに万年筆を押し付けながらオスカーが問うた内容にアーネストは緩く首を振る。普段の彼なら
「そんなわけあるか!」と怒鳴るところなのに、とオスカーは更に疑念を深めた。しかし今のアーネストには何を聞いたところで
まとまな解答が返ってきそうもない。オスカーは肩を落として扉を閉めた。しかしどうにも腑に落ちない。親友の珍しい姿に何と
言うか元から差してないやる気を削ぎ取られた気がする。オスカーは室内で一度深く息を吐き出すと気分を直すためにも散歩と
称して少し外へと出てみる事にした。回廊を出てすたすたと歩いていく。しかし訓練場付近を通りかかったところでオスカーは
背後から呼び止められた。

「おい、オスカー」
「・・・!リシャール様!」

振り返ればそこにはまだ齢13の幼い少年が立っている。この王城で何千、何万の兵を従える事の出来る人物、リシャール王子。
オスカーは親友であり、また自らが仕える主に一度軽く会釈しつつも臣下にしては軽々しい言葉を返す。

「リシャール様、どうかしました?」
「いや、お前今忙しいか?」
「ええ、それはもう恐ろしいくらい」
「・・・・・相変わらず飄々と嘘を吐く男だな。忙しいなら何故こんなところをうろついているんだ」
「・・・・・・・分かってるならわざわざ聞かないで下さいよー」

オスカーのその言葉にリシャールは肩を竦めるがまあいい、と一拍おいて「頼み事をしたいのだが」と首を傾いだ。
それに対しオスカーは特に何も考えず「どうぞ」と返した。書類があるにはあるが、王子殿下の頼みを蹴ってまでやる事でもない。
まあそれも言い訳に過ぎないが。

「うむ、少しスタークベルグの方に使いに出てもらいたいのだが・・・・」
「スタークベルグにですか?まあ・・・・・構いませんけど」
「そうか、では頼んだぞ」

言って胸に書簡を押しやられた。行き先もそこに書かれている。オスカーは受け取ってそのままの足でそこへ向かう事にした。
城を出て馬小屋へと寄ると馬事総監に話を通して自分の馬を出してもらう。アーネストの月毛の駿馬に劣らぬ白馬の駿馬。
彼の馬に比べれば気性も大人しいそれの背に蔵を取り付けサッと跨る。くいと手綱を引き、風を切るようにして目的地へと馬を
飛ばした。その先で小さな出会いがある事を予想すらせずに―――。




◆◇◆◇




広い寝室の奥でごそごそとクローゼットの中を漁る音がする。カーマインが小さな手を伸ばして積まれた白い箱を手に取った。
それは家を出る前にアーネストから言われていた着替えが入っている箱で。いつもはアーネストの大きすぎるシャツ一枚を着て
いるのだが流石にいつまでもそれではいけないといつの間にかアーネストが新しく服を買ってくれていた。とはいえまだどんな
ものであるのかは見た事がない。カーマインは少しだけドキドキしながら箱を開けた。好奇を滲ませる瞳は腫れぼったく、熱を持って
いる。痛々しい泣き腫らした跡。あれからカーマインはずっと泣き続けたが、それでも気が済まず、アーネストに怒られるだろうと
思いつつ、待ちきれずに会いに行く事を決めた。

それに当たってこの格好のままだといけないので今こうして着替えをしようとしているのだった。ゆっくりと箱から出てきた服を手に
取る。まだ駆け回って遊ぶ子供だからか用意された服は貴族のそれではなく、良い生地を使っているとはいえ、随分とラフで
シンプルな形をしている。とはいえ色使いは白にベージュ、それから赤に黒、とカジュアルで何処か女の子っぽい。カーマインは
少し首を傾げつつそれに着替えた。白の肩の辺りが膨らんだシャツに黒いタイをして下にベージュと赤のチェック柄の
ハーフパンツを穿き、黒のソックスと赤く丸いフォルムの靴を履くと最後に耳と尻尾を隠すために帽子とコートを羽織る。
真新しい服は少し肌に馴染まないけれど仕方ない。カーマインは屋敷の鍵を手に取るとそれを使って外から扉を閉めて鍵を掛け、
アーネストの働くバーンシュタイン城に向けて足を踏み出した。

とことことそういえば初めて外に出たなと思いつつカーマインはコムスプリングスの街並みを歩いていく。周りには自分と同じくらいの
年頃の子供たちや商いをするもの、旅人、駐屯兵と様々な人間がいる。アーネスト以外の人間を見るのも初めてだ。
こうして遠目に見ると母に教わっていた人間像と少し違う気がする。人間とはとても恐ろしい生き物だと聞いていた。けれどこうして
見る限りでは自分たちと差して変わらない気がしてならない。カーマインは少し嬉しくなりながらもとことこと歩いていく。

道なんてさっぱり分からないのでところどころあまり怖くなさそうな人に道を聞きながら行く。しかしどの人も「お城に行きたい」と
言うと「お嬢ちゃんがかい?」と不思議そうな顔をした。何か変な事を聞いたのだろうかと首を傾げば苦笑混じりにあっちだよと
指差して教えてくれる。それにお礼を言いながらカーマインは指差された方へと変わらずに歩いていく。一つ気になると言えば
お嬢ちゃんとは一体何かと言うくらいだった。しかし考えたって分からず結局それを放ってカーマインは王城を目指し続けた。

そうして朝早くからひたすら城を目指して歩き続けていたのだが、陽光のきつい正午を過ぎ、やがて空がオレンジ色に染まり
出した頃にはきゅ〜とお腹が鳴り始めた。カーマインは慌てて腹部を押さえ込む。それでもきゅうとそこは鳴いた。朝食もろくに
食べず、おまけに昼食も採っていない。ただひたすら北へと歩き続けていればそれも当然の事だった。カーマインの帽子や
コートの下では空腹時の兆候が現れ、耳も尻尾もぐったりと垂れている。足も歩き詰めでかなり萎えてしまっていた。それでも
止まらずに歩こうとすれば疲労に疲労を重ねた身体はべしゃりと前方につんのめってしまう。膝を石畳に打ちつけ、打った場所から
じわりと広がっていく痛みにカーマインは身を起こしながらそっと膝を見遣った。大きな目を瞬いて見たそこにはじゃりによる汚れと
うっすらと傷口から滲み出る赤が窺えた。段々と増してくる痺れるような痛みにカーマインは涙を零す。

「うぅ〜・・・・・痛い・・・・・」

立って歩こうと思っても足が痛くてなかなか立てそうもない。けれどこんなところで立ち止まっていてはアーネストに会う事が
出来ない。そう思ってカーマインは瞳に浮かぶ涙を乱暴に払い、ゆっくりと地面に手をついて立ち上がる。痛みに空腹どころでは
なかった。一歩前に踏み出す度に全身を雷が走るような痛みが突き抜ける。拭った筈の涙が次から次へと溢れ出した。それでも
アーネストに会いたいとカーマインは前へと進んでいく。しかしその足取りはまたいつ転んでもおかしくない。酔っ払いのような
千鳥足でふらつきながら前を行く姿はとても痛々しかった。

「・・・・・アーネストぉ、どこー」

すんすんと啜り泣きすら交えてカーマインは並木道を歩いていく。まだまだ幼い身体では半日歩いたところで街を一つか二つ
越えた程度だ。バーンシュタイン城のある王都にはまだまだ到底及びはしない。それに先ほど負った傷が容赦なくカーマインを
孕んでいく。疲労に空腹、それに足の痛みでついにカーマインは泣きながら地面に座り込んでしまった。辺り一面に悲痛な泣き声が
響く。しかしそこは街の中ではなく、街と街を繋ぐ街道で、殆ど人が通らない。哀れな子供に寄ってくるのは柔らかな肉を狙った
肉食獣やモンスターばかり。木々の合間から鋭い眼で狙いをつけられているとは知らずにカーマインはえんえんと鳴き続けた。
しかし暫くして人間よりも数倍優れた聴覚が不意に不審な物音を拾う。カーマインは一度泣き止んで背後をそっと見た。
そこにあるのは林だけ。けれど殺気のようなものが感じ取れる。カーマインは身の危険を感じてびくりと肌を粟立てた。

「・・・・・・やぁっ・・・・・」

もう一度立ってその場を離れようとするが疲れに疲れた身体はもう動きそうもない。カーマインはじりじりと近寄ってくる殺気に
身構える。そしてぎゅっと目を瞑った。心中では何度もアーネストの名を呼び続ける。怖くて怖くて。会いたくて悲しくて。瞬間、
獰猛な獣の咆哮が耳に届いた。カーマインは引き裂かれるその時を本能で感じ取り、自分の身体を守るように抱きしめる。
口の中で小さくアーネスト、と呟いた。青褪めた白い面に止め処なく涙が伝う。獣の地面を蹴る足音が物凄い速さで自分に向かって
くるのが分かる。全身が総毛立ち、震え出す。一際大きな咆哮が大気を震わしたその時、別の大きな音がした。カポカポと段々
感覚が狭まる高く硬い音。そして。

「動かないで!」

柔らかい、けれど何処かとても重い声が響いた。カーマインは弾かれるようにその声に従う。そうすれば何かとても嫌な音が
鼓膜を打った。肉を断つような。次いで衣を裂くようなおどろおどろしい叫び。暫く響いたそれが静まり返るとカーマインは恐る恐る
硬く閉じた瞼を押し開いていく。一瞬、自分の膝から流れる赤と同じ色が地面を彩っているのが映り込んだ。それからもう少し
眼を開いて辺りを見ようとしたその時、不意に身体に浮遊感を感じる。びっくりして零れるまでに瞳をこじ開ければ、カーマインの
眼前には自分を抱き上げる、見た事のない人間の姿が映った。紫の髪の、優しそうな顔をした人。男か女かはカーマインには
よく分からなかった。しかし、ハッと気づく。自分を抱き上げて心配そうな顔をしているその人物が着ている服は色こそ違えど、
朝に屋敷を出て行ったアーネストと同じものを着ている。もしかして、と思ってカーマインが口を開く前に先ほどの柔らかい声が響く。

「大丈夫かい、お嬢さん?」
「・・・・・お嬢・・・・さん?」
「あれ?ひょっとして坊やの方だったのかな?だったらごめんね。何処か怪我してないかい?」

声と同じような優しい微笑でその人が尋ねてくる。顔は、やはり男か女かよく分からないけれど声の感じが男の人のようだったので
カーマインはそうかな?と思いつつ今度こそ口を開いた。

「・・・・・お兄さん、アーネストと同じ服着てる・・・・」
「・・・・・・・・え?」
「お兄さん、アーネストの事知ってる・・・・・?」

くすんとまた涙を浮かべながらカーマインは尋ねた。それから少し視線を泳がせば、カーマインは男の人・・・だと思われる人物に
抱き上げられているのだが、その人物は更に白い馬に跨っていた。アーネストに抱っこされた時よりも高い位置に自分の身体が
あると認識すると何だか急に怖くなった。ぎゅっと自分を抱く腕にしがみつく。そんなカーマインをラベンダーの瞳で見遣っていた
人物はあまりに意外な人物の名を耳にしてぽけーっと呆けた顔をしていたがやがて正気を取り戻し応えを返す。

「・・・・坊や、アーネストの知り合いかい?」
「・・・・・・うん。僕、アーネストに会いたいの・・・・」
「そう・・・・。それじゃもしかしてアーネストに会うためにわざわざこんなところを一人で歩いてたのかい?」
「うん。アーネスト、何処にいるのぉ・・・・?」

ぐしぐしと色違いの瞳から零れる涙を拭うカーマインを男は頬を掻きながら見遣っている。よく見れば小さいながらに随分と美しい
造作の顔をしているな、などと考えつつ、取りあえず言葉を返す。

「・・・・・君、一体何処から来たんだい?お父さんやお母さんは・・・?」
「・・・・僕・・・・アーネストのお家から歩いてきたの。お父さんや、お母さんは・・・・いないの」
「・・・・・・・・・・!」

男はその言葉を聞いて驚いたような顔をする。

「ご両親がいない・・・のかい。それはごめんね。不味い事を聞いてしまったね・・・・」

本当に申し訳なさそうに眉根を寄せて男はカーマインの頭を帽子の上から撫でる。その表情や仕種が何処かアーネストに
似ていてカーマインは知らず強張っていた全身の力を弛緩させた。

「ひょっとしてアーネストが君の事預かってるのかな?」

あの堅物が子供の世話をしている様など想像もつかないし、似合いもしないがかといって両親のいない、つまりは孤児を放っておく
ような冷淡な男でもない、と思い起こし男は問う。それにただ名前を知ってるだけにしてはこの子供は随分とアーネストに
懐いているように見える。僅かな確信を持った詰問に腕に抱いた子供はコクリと頷いた。

「本当は・・・・お留守番しなくちゃいけないんだけど・・・アーネストに会いたくて・・・・」
「それで遥々一人でコムスプリングスからこんなとこまで歩いてきたのかい?たいしたもんだね」
「・・・・・・・だってアーネストに会いたい・・・・・」
「あいつにこんなに懐く子も珍しいね。だったら僕これから城に戻るところだったから一緒に連れてってあげるよ」
「・・・・・・・・・え?」
「彼とは同僚で・・・・まあ親友だからね。聞きたい事も出来たし!君さえよければ送ってくよ?」

その言葉にカーマインはパッと顔を輝かせた。先ほどまで涙を浮かべていた白皙の面は嬉しそうに柔らかな笑みを湛え、
とても愛らしい顔になる。男はなるほど、と思った。これなら子供嫌いな親友も情を絆されても仕方がない、と。あまりにも
幸せそうに微笑まれて男は眩しげに目を細める。

「よし、じゃあ送ってあげる。っとその前に一つお願いがある」
「・・・・・・?なあに?」
「君の名前、教えてくれないかい?僕の名前はオスカーだよ」
「・・・・・・・・カーマイン」

酷く言いにくそうにカーマインが言うのにオスカーは警戒されているのだろうか?と思いつつ一応は名を聞けて安堵の笑みを
浮かべる。そして腕に抱いた存在を反転させ、自分の前に座らせた。

「じゃあ、飛ばすからしっかり掴まってるんだよカーマイン」
「・・・・・・う、うん」

言えばカーマインはぎゅうと目の前の白い馬の首にしがみついた。とても素直な子だ。あのアーネストが面倒を看る気になるのも
分かる。そして不意にオスカーは思い至った。今日の何処か様子のおかしかった彼の事を。何か酷く生気が乏しかった。気になる
事でもあるかのように。それはもしかして置いてきたこの子の事が心配でしょうがなかったのかもしれない。だったらいっそ連れて
来てしまえばいいのにと思いつつ、オスカーは馬を駆った。馬首が反転し、今まで向いていた方向と逆に走り始める。王城へと
向かった馬上からはもう見えはしないがつい先程までいたその場所にはカーマインを襲おうとした獰猛な獣の死骸が無惨にも
捨て置かれていた。




◆◇◆◇




「おーい、アーネストーお届けモノだよー」

スタークベルグへの使いから帰ってきたオスカーは小脇にアーネストへの『お届けモノ』を持って何やら陰の気が放出されている
ドアを叩いた。初めはトントントンと軽く三回。しかし返事がないので次はもう少し強く。それでも返事がないので終いには殴りつける
ようにガスガスと荒くノック(?)を続ければ流石にその喧しさが耐えられなくなったのかのろのろとした動作で扉が開かれた。

「喧しい、一体なんだと・・・・・・ッ!」
「酷いなー、せっかく君にお届けモノ持ってきたのにぃ」

ぶーぶーともう二十歳になる大の大人の男が口角を尖らせながら小脇に抱えた『お届けモノ』に対し、「ねー?」などと同意を
求める。同意を求められた『お届けモノ』はただ曖昧に笑っていた。右膝には転んだ時の傷を手当てした跡があり、アーネストは
それに気づくと先ほどまで死んだも同然だった紅い瞳を大きく見開く。そして激昂にも近い声音で言った。

「なっ、それはどうした!?いや、それよりも何故ここに・・・・!?」
「えー、この子君に会いたくてわざわざ歩いてコムスプリングスからこようとしてたんだよ」

途中で僕が拾ってきたんだけど、と言って『お届けモノ』をアーネストの腕へと押しやる。

「怪我は・・・・途中で転んじゃったみたい。僕がちゃんと手当てしたから・・・大丈夫だよ」

そんなオスカーの言葉を聞いているのか聞いていないのかアーネストは手渡された小さな存在を力の限り抱きしめていた。
そのあまりの強さに小さく悲鳴が上がる。それを聞いてアーネストは腕の力を少し緩め、端整で小作りな顔を覗き込む。

「・・・・・何処か、他に怪我はないのかカーマイン・・・・」
「うん、大丈夫・・・・。ごめんなさい。お留守番してるって言ったのに・・・・」
「本当だぞ・・・。もっと酷い怪我をしていたら・・・そこの馬鹿が通りかからなければどうする気だったんだ」
「ちょっと、今さり気なく馬鹿って言ったでしょ」

文句を言うオスカーはやはり無視してコツンと額を合わせ、心配の色が濃い吐息を吐きながらアーネストは言う。
カーマインはそれにただごめんなさいと蚊の鳴くような声で謝り続ける。紅葉のような手をアーネストの首へと回す。
啜り泣きが聞こえ、アーネストはカーマインの背を優しく撫でる。

「・・・・それにしてもどうしてここに来ようとした?やはり寂しかったか・・・・?」

その言葉にはカーマインは首が千切れそうなほど大きく頷く。何度も、何度も。そして首に回された腕の力が強まる。
カーマインの力では例えどんなに力を込めても苦しいという事はないが。しかし込められた力の分だけ想いが込められている
ような気がし、アーネストは知らず瞳を細めた。

「・・・・・・悪かったな、やはりお前を置いてくるべきではなかった」
「ううん、アーネストのお仕事邪魔したくなかったのに来ちゃった僕が悪いの」
「いや、やはり殿下に断りを得て連れてくるべきだった。寂しい思いをさせてすまないな」
「おーい、ちょっとー僕の事無視なわけー?」

何やら二人だけの空間を作りつつあるアーネストとカーマインに向けてオスカーは呟く。内心やたらと甘い空気に砂を吐きたい
気分になっていた。それは見苦しいので堪えるが。しかし瞳だけは堪えきれず遠い目になっている。そんなオスカーをアーネストは
軽く一瞥する。それから明らかに棒読みな礼を言う。

「・・・お前が連れてきてくれたんだったな。まあ一応礼を言おう」
「一応って何さ。よく君みたいな奴にそんな可愛い子が懐くね。不思議でしょうがないよ」
「あ!オスカー、アーネストの悪口言った!もうきらーい」

ぷんとカーマインはアーネストの腕の中で頬を膨らませてオスカーにそっぽを向く。
そんな態度を誰かにされるのは生まれて初めてでオスカーはガンと側頭部を鈍器で強打されたかのように大きなショックを受けた。
危ないところを助けてあげたというのにここまで邪険にされる謂れが分からなかった。
取り繕いをしようにもカーマインは目も合わせてくれない。

「もう嫌いだそうだ。ご愁傷様だなオスカー」
「ちょっと君、一体どういう躾をしてるんだい!?保護者なら保護者らしくだねぇ・・・・」
「あー、また言った。オスカーなんてもう顔も見たくない!」
「はあ〜!?ちょ、そりゃないでしょ!??何で!?何処がいいの、この堅物の何処が!?」
「僕はアーネストの味方だもーん。アーネストの悪口言う人は嫌い!」
「・・・・・・だそうだ。まあ、運が悪かったと思って諦めるんだな」
「なっ、ちょっと君たちねえ・・・」

オスカーがあまりの扱いに抗議をしようとしたところでバンと扉は閉められ、しかも中から鍵を掛けられた。取り残され、
頭に血が上っているオスカーはドアの外から何度もそれを叩き、罵倒の声を上げるが全く相手にされない。それどころか
内部からカーマインに「静かにして!」と怒られた。あんなに小さな子に怒られてオスカーは少し落ち着きを取り戻し、自分の
冷静のなさを反省する。しかし自分が静かになると、部屋の中からまたしても砂を吐きたくなるような甘い遣り取りが
聞こえてきた。とても聞いていられなくてオスカーは燃え尽きた灰のように憔悴しきった顔でとぼとぼと自室に戻っていく。
アーネストの部屋からは甘い、何処か幸せそうな空気が。オスカーの部屋からは暗く、鬱な空気が漏れ出ている。
それぞれの部屋の中で一体何が起こっているか、知る者は残念な事に誰もいなかった―――




fin



以前アンケートで頂きましたネタを使わせて頂いております。
「お留守番してる間に寂しくなってアーネストのところへ行こうとする猫主をオスカーが送ってあげる話」
だったでしょうか。オスカーの扱いが悪いのはきっとカーマインが少しずつアーネストに似て
きたからだと思われます。部屋の中で一体何をしているのかはお好きにご想像ください(逃げた!)
ネタを下さいましたあのお方!どうも有難うございました〜vvv
あ、因みにタイトルは例の映画とドラマから(殴)


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