月が空から落ちるように。

暗い暗い黒よりも深い漆黒の中を沈んでいく。

最後の最後に足掻いて伸ばした手は・・・。


―――果たして君に届くだろうか?




幸せになる、その時に




瞬間、終わりと言うものが目に見えた気がした。


魔導砲の第二の標準はオーディネルに向けられている。
その報せを受けてアルフォンスは西側から、生き残った数少ない兵士を伴いバルトリック砦の開場を急ぐ。
そしてその情報を手に入れた彼の兄クリストファーはマーキュレイの英雄たるクレヴァニールらを引き連れて東側から
挟撃を試みた。トランスゲートを使えば難しいことではない。シモンズの駐屯部隊は、ロイヤルガードの実力を
恐れて遠巻きに防戦を続けている。

勝てる、はずだった。

その力がアルフォンス=オーディネルにはあった。挟撃などと小細工をしなくとも。
まっすぐな琥珀の瞳の清らかさと、それに込められた強い意思に大抵の人間は怖気づく。
そして流麗にして機敏な身のこなしと、剣の腕。通常、強い人間ほど多くの人の命を奪っているものだ。
故にその瞳は冥く色を落とし、闇を映している者も少なくはない。

けれど、アルフォンスは幾ら血に汚れようと、その瞳を曇らせたことはなかった。
穏やかでいっそ脆い印象すら与える容貌でありながら、その心に根ざした芯は誰よりも硬くて強い。
覆すことも、汚すことも出来ぬほどに。強い意志が彼の中に焔のように生きている。
だから、気圧されてしまう。清廉さは何よりも人の目に、心に訴えかけてくる。

人であるのなら、ば。

だが目の前で今、彼の剣を受ける男からはその匂いを感じなかった。
まるで化け物を相手にしているような、錯覚を受ける。押し寄せてくる殺気と戦いそのものへの喜悦。
不気味な緊張がアルフォンスに走った。戦士と相手をしているというよりは暗殺者に出くわした、
その方がまだ納得出来る。何より、元とはいえロイヤルガードであったアルフォンスを相手にしているというのに
目前の長髪の男は口元に笑みすら浮かべていた。酷く余裕に。人外を、思わせる。

「・・・お前は、何者だ?」

息一つ乱すこともなく、振り抜いた刃を受け止められアルフォンスは柔和な表情を微かに歪める。
自分が戦っている男はどう考えても、普通ではない。これだけの剣技を誇るのであれば、他国の人間であったとしても
噂くらいは耳にするはずだ。なのにアルフォンスは己と互角の腕を、ひょっとすればそれ以上の腕を持つ
この男のことを知らない。アッシュブラウンの長い髪が空を舞う。蛇の如く鋭い金の瞳が射抜く。

心音が、痛みを伴って全身を駆け巡る。

「・・・お前は・・・」

何事か、呟きかけてしかし、背後から吹き込んできた新しい風にその先を噤む薄い口元。
薄暗い砦に開閉した扉から差し込む光が線を描く。黒く映る外から来た人影。それでも見覚えのあるシルエット。
ずっと保っていたアルフォンスの緊張が一瞬、途切れる。

「・・・・・・・・」

名は呼ばない。口にした途端に己から力が抜けるだろうことが分かるから。剣戟の向こう、自分の存在に萎縮していた
この場の守護兵たちが新たな侵入者に向かっていくのを、感じる。心配はしない。彼ならばこの程度の兵に
負けるはずがない。むしろ、今こちらに来られては困る。随分と久しく息が乱れていく。それだけ今アルフォンスが
相手にしている得体の知れぬ―それこそ名前すら知らぬ男は強い。未だ人を小馬鹿にしたような笑みがちらつく。
早く倒さねば。次第に背後から聞こえてくる彼の声に気が急いた。

―――もしここで自分が敗れれば、彼の命が危ない。

本能的にそう、思った。

強く強く、疲れた足を奮い立たせて踏み出す。

鼓膜に響く呼吸音、石畳を蹴る音、剣を振り抜く風切音。

目的を捉え、視界に鮮やかに飛び込む緋色の雫。

―――瞬間。

「・・・よくもやってくれたな」

肩口を穿たれた男は逆上し、愉快そうに笑ませていた表情を鬼の形相へと変貌させ、剣を収めた指先に
重く漂う黒い瘴気のようなものを出現させる。歪み淀む空間。頬に触れる痛みにも似た緊張。汗が吹き出て
アルフォンスは咄嗟に身を翻らせた。これに触れてはならない。衝動が身体を動かした。

男の手から瘴気が放たれ、アルフォンスは紙一重でそれを躱す。
目標物から外れたそれは地面へとぶつかり、球状に接地面を抉った。魔法でもそんなに綺麗に地面へ穴を
開けられるものではないだろう。もし、あれに当たっていたら?仮定が遅れて身を震わせる。

「何だ・・・今のは・・・」
「避けたか、小賢しい・・・人間風情が!」
「・・・ッ!」

人間風情。

そういう言い回しは、同じ人間であるのならするはずもない。
やはりこの男は異形だったか。そんなことを、遠く考える琥珀の瞳に、闇が広がる。
ねっとりとした黒い霧が全身を覆い、呼吸を奪う。

朦朧と意識が遠退く。


―――クレヴァニール。


声にならない声で漸くその名を呟く。

何を云いたいわけでもない。ただその名を口にするだけで胸の奥に広がる甘くも苦い感情。
その先にほんの僅か訪れる安堵。それを無意識に求めた。死という何よりも深い闇が目の前に見えていたからか。
光を焦がれる。道端に咲く、小さな花のように。


生きるために必要な、その光―――。


急速に下降する意識の内、未練がましく手を伸ばす。
震える指先、皺枯れた声、止まない耳鳴り。

それでも。


―――ボクハココデオワルノカ・・・?


腕の中に、愛しい人を抱くことも出来ずに。


シンデシマウノカ・・・?


数多の犠牲の果てに在るはずだった平和な世すら、目にすることも出来ず。


ボクハナンノタメニウマレテキタ?


死ぬためじゃない、まして人を殺すためでもない。


最後の最期の最後の時まで、みっともなくとも、無様でも足掻いてもがいて。


「・・・ォ・・ス・・・!」


コワダカニボクヲヨブキミノコエヲキクタメニ。


―――イキルタメニウマレテキタンダロウ?


「アルフォンス!」


キミガヨンデクレルカラ。


「・・・く、・・は・・・・・・る」


こんなところで殺されてる場合じゃない。


「・・・僕はっ・・生きる!!」


己に降りかかる闇は己にしか振り払えぬというのなら。


ただ足掻く――それだけのこと。


「アルフォンス、死ぬなっ!」


だから僕は、必死に手を伸ばして。





―――君の手を掴む。





身体を覆う闇はもう何処かへと消えていた。



◆◇◇◆



暗い暗い闇の中。胎児のように何処からともなく響く心音を聞いていた。
身体が重力に引っ張られて落ちていく感覚を、肌で感じる。
不思議と痛みはない。冷え切っていく全身の熱に本能的に自分は死ぬのだと思った。
何を残すこともなく・・・誰を救うこともなく。ああなんて無様なのだろうと。
自嘲が込み上げてくる。

それでも。

声が聞こえたから。

僕は―――。

「アルフォンス!」

強く頬を叩かれて、漸く重くて持ち上がらなかった瞼を押し開く。
瞬間、視界を刺すように降り注いでくる強い光。目が潰れそうで、慌てて眇めると白い光の中に
緋色を見つける。どんな色の光を当てられても、染まることのないその紅は覚えがあった。
とても、綺麗な。

「クレ・・・ヴァ、ニール」

君の色だ。

何者にも侵されることのない、絶対の紅。
鮮烈な色であり、生きるものだけに流れる色でもある。
目にするだけで温かさを感じるその色はとてもとても愛しくてとてもとても焦がれた色。

全身が痛みに悲鳴を上げているのを感じながら、必死で腕を伸ばす。
沈む夕日のように、手を伸ばせば伸ばすほど遠のいていきそうなその色を必死で追って、指先に
さらりと触れる髪の感触。指の隙間を通り抜けていく軽い音が耳に心地良い。
光の中で君が微かに顔を歪めて僕を見ているのが分かる。金色の強い瞳に涙を称えて。

綺麗な、綺麗な・・・・。

―――でも。

「・・・・泣かないで、くれ。僕は、生きて・・・いる。意地でも・・・生きるから・・・っ」

僕のために泣いてくれているのなら、嬉しいことだけれど。まるで死ぬみたいじゃないか。
息一つするのも辛いけど、それでも一度は弱まりかけていた拍動が再び音を刻むのが分かるから。
僕は生き延びたんだろう。残していけないものがあったから。まだ、何も伝えていないから。

僕の言葉、僕の想い、僕の、全て。

君と初めて言葉を交わしたあの日からずっと輝いているもの。

僕をこの世に繋ぎ止める感情。

「クレヴァ、ニール」

掠れた声で呼べば、とっくにその場を制圧したらしい彼は僕の傍らに跪いて、強く痛いくらいに手を握ってくれていた。
僕が必死で伸ばしたその手を。ここに繋ぎ止めるように。滲んだ汗が、酷く胸を打つ。
そんなに心配してくれたのかと、自惚れてもいいんだろうか。喜んでしまってもいいのだろうか。

―――僕は、

「・・・君を好きだと・・・言ってもいいかい?」

この一言を言いたくて、目の前に見えた死神の手を跳ね除けて来たんだ。
身体の節々が痛い。出来れば歪んだ君の表情は見たくない。もし叶うのなら、笑ってくれるのであれば
僕は誰よりきっと幸せになれるだろう。例え降り注いでくる言葉が僕の望むものと違ったとしても。

「君が、好きです。ただそれが・・・言いたかった」

不謹慎だと君は怒るかもしれないけれど。本当にそれしか浮かんでこなかったんだ。
もっと兄さんみたいに気の利いた科白を言えればよかったけど。少し動くだけで全身刺されたように痛む。
じわりじわり。膿んだように皮膚から滲み出てくる汗を拭うことすら出来ない。
耳に届くのは荒い自分の呼吸音。握られたままの手が、熱い。

この手を離されてしまったら、このまま死んでしまうのではないかと思うほど、苦しい。
唯一の現実の在り処。この感触がなければ、今の僕にはきっと夢と現実の区別がつかないだろう。
冷たい石畳の上に横たわっているはずなのに浮いた感覚が身体に付き纏う。

「クレヴァ・・・ニール?」

生きている証が欲しくて。返事を急くように再度名を呼べば。
何処か放心しているようだった君の金の瞳が瞬く。不気味なくらい静かな中でそっと一言。
耳元で囁かれたその言葉は。


「         」


どうか夢ではありませんように。

祈るように瞳を閉じて、次に目覚めた時に見れるだろう君の笑顔を思い浮かべて。

口元にそっと笑みを浮かべた。



幸せになる、その時まであと数時間。

その瞬間まで、この手は離さないでおこう。

現実がここにあるのだと、忘れないように。




―――『おはよう』と、当たり前の挨拶で目覚めよう。




fin



若干消化不良感漂いますが、そのうち後日談的な話がUP
されると思いますのでそちらで補充をしたいと思います(エエー)
せっかくの相互記念なのに消化不良って何なのでしょうね・・・!(殴)
遅くなって大変申し訳ありませんでした綾杉様ーー!どうぞよろしくお願い致します。


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