鉄錆びに混じるは甘き花香








―――追われて、いる。


仕方がない。自分はお尋ね者だ。この首に、木の根を噛むような粗野な生活をした貧民も遊び暮らせるほどの
懸賞金が掛かっている。命を付け狙われたところで文句の言いようがないだろう。むしろ自分の命を差し出すことで
苦しい生活をする者が少しでも裕福になるのなら、潔く首を差し出してしまった方がいいのかもしれない。

屋根伝いに夜闇を駆けながら、背後より迫ってくる刺客に意識を向ける。相手は五人。逃げ切れない事はない。
これでも剣の腕だけは自信がある。主が、自分を認めてくれたきっかけも、それだ。腰に差した刀に手を掛けた。
そこでふと疑問に思う。先ほど自分は死んでもいいと思ったはずなのに、何故刀を抜こうとする・・・・?

無意識の行動は、明らかに生への執着を見せているではないか。自分が分からない。柄に手を掛けたまま上半身を
捻り、呆けている間に追っ手の一人に追いつかれた。剣先が迫る。ついクセで刀を鞘から抜き放つ。横に凪ぐ。
寸でのところで躱されたため、戦いに慣れきった身体は自然と懐に隠し持っていた小刀を漁り出し、敵の振り下ろされる
刀の切っ先をそれで受け止める。しかし一尺余りのそれで大刀を受けるのは少々難しい。上体を屈め、跳ねる際の
瞬発力を利用し、刀を弾き上げる。刀が空に弧を描いて地に落ちた。その隙に丸腰となった追っ手の腹に小刀の柄で
一発殴る。よろめき倒れる男の姿を目に留めて、反射的に翻り前に駆け出す。草鞋が屋根瓦を強かに踏みつける。

どうしてだ。何故こんなにも必死になって逃げる。死んだっていい、生きる意味などないと自嘲していたこの俺が。
考えながらも、屋根の端まで来てしまったらしく、足場がない事に気づく。そろそろ観念すべきか。それとも、剣の腕を盾に
更に罪を重ねるか。そんなになってまで生き延びて何がしたいわけでもないのに。まるで何かに惹かれるかのように、
ただ逃げる自分。再び、無意識に刀を握る。今度は大刀だけでなく、脇差も手にして。最も得意とする二刀流の構え。
自問自答したところで、身体がしっかり応えている。自分は死ぬ気なんてない。醜くとも、意味などなくとも生きようとしている。


―――何のために。



問いかけに応えるのは、月光を受けて輝く自身の愛刀の剣先と劈くような、業火の怨念に焼かれるかのような呪わしい
悲鳴。しとどに緋色の体液が屋根瓦を汚していった。そして積み重ねられる罪。刺客は屍と成果て、自身は大罪人に
拍車を掛けた。逃げて逃げて、罪を重ねて、無意味な生を貪って、何が残るわけでもない。何かが残るとすれば、
それは救いようのない背徳と汚名だけだ。刀を降り抜く。刃を濡らす血が四散した。拭いきれなかった分を懐の懐紙で
拭き取り、鞘に収める。その様はさながら、人斬りか。誰かが言った。人斬りは最早人間ではない、と。ならば自分は
人間ではないのだろう。人であった時期は確かにあったはずだが、今となってはそれは遠い記憶でしかない。
風に着物の裾が舞い、生暖かな空気に血臭が混じった。業は、深い。忌々しげに瞼をきつく閉じる。

「・・・・・天罰は一体いつ下る・・・・・・・?」

自殺は大罪、故に不可。追われても本能的に逃げてしまう。ならば、神が裁いてくれるのをじっと待つだけだ。
それは死ぬ覚悟のない脆弱な人間の詭弁に過ぎないと知っているのに。ただ、待ち望む。風の匂いが変わった。
穢らしい血臭の中に、それとは真逆の馨しい花の香。自分が無知故かそれが何の花の香なのかは分からぬが。
ただ好ましい香りだというのは分かる。どこぞの姫君でも愛用しそうな、高潔でそれなのに優しい、親しみやすい香。
無意識に、戦いに於いて刀を抜くのと同じように反射反応に近い勢いで香の元を探る。視界を目まぐるしく反転させて。
そうして捉える。自身の緋色の目に。今自分が立つ、屋根の上から眺め下ろせる位置に。

高い塀に、整えられた垣根。松も年代もの、椿と桜が植えられ、池には心地よい清い響きを齎す獅子脅し。
家に至ってはその大きさから、随分と古くから続く名家を思わせる。家というよりは屋敷と言うべきか。とにかくそこに
月光を受けて浮き立つような人影が一つ。民家の屋根に立つ俺を見上げるようにこちらへと視線を寄越している。
遠目にも心惹かれる何かがその人影にはあった。顔など、判別出来ぬし、正直、男か女かも分からない。
それなのに、香のせいか無性に気になる。風に乗って鼻腔を擽るそれに誘われて、返り血を浴びているというのに
そちらへ足を向ける愚かな自分がいる。屋根を飛び越え、木々の枝を借りながら、屋敷へと移動する。

「――――ッ」

庭に降りる事は流石に躊躇われ、屋敷の一番高い木の枝に踏み止まれば、目下に映るのは造形の整った端正な顔。
黒髪が夜の空、金と銀の瞳はまるで月と太陽。触れれば掻き消えてしまいそうな危うさでありながら意思の強そうな表情。
二面性が脳裏に焼きついて離れない。人の心に容易く忍んでくるその様は妖そのもの。確かにその瞬間、時が止まった
気がした。息をする事すら憚られる。ひたと、不躾すぎる視線を注いでいるにも拘らず、目下の美貌は淡やかに微笑んだ。
花が綻ぶ。香に惹き込まれる。言葉を、失う。

「・・・・紅い志士様、こんな時分に何か御用か?」

瞳の色を揶揄したのか、それとも血に濡れた着物を指しているのか判別しかねるが、紅い志士という言葉に
思わず眉根を寄せる。しかし、目下では先ほどと変わらぬ笑みを妖が浮かべている為、きっと他意はなかったのだろうと
溜飲を飲み込む。それにしても。言葉尻に思わず反発を露にし、思考の外に追いやったが随分と艶を帯びた声だ。
もっと聴いていたいなどと思ってしまうまでには。

「・・・・志士様、そんなところにいないで降りてきたら如何か」

黙っている俺に焦れたのか、しかしそうとは思わせぬ穏やかな声音。何て無用心な科白か。返り血を浴びた、初見の人間を
招くとは正気の沙汰とは思えない。そう考えれば、ひょっとしたら自分の下で見上げている人物はひょっとしたら幻か、
それとも本当に妖なのかもわからない。不審も露に瞳を細める。

「お前は何奴だ。こんな時分に邸内とはいえ部屋から出てれば不貞の輩に付け狙われるぞ」

随分と敷居の高い高貴な身分のようだし、おまけにその匂い立つような美貌。自分とは違った目的で賊に襲われても
おかしくはない。そうとう世間知らずなのか。学のある面立ちではあるが、金持ちの子弟にしては無邪気が過ぎる。

「・・・・・俺は、このフォルスマイヤー家の当主カーマインと申します。こうして外に出ているのはある程度は護身術を
心得ているからですよ。それに、貴方は追いはぎではなさそうだ。気が向かれたらでいい、降りてきてはどうか」
「・・・・・・・・・遠慮被る」
「そうか。では、そこで構わない。少し世間話に付き合わないか?」
「見て、分からぬかこの血を。進んで関わろうなんて・・・・家を自ら潰すと同義だぞ?」

フォルスマイヤー家といえば。時折町の噂で耳に入ってくる、長きに渡り名を残す、名門中の名門の華族だ。
一族の者はどの者もあらゆる才に長け、学もあり、容姿も美しいとか。確かに目の前の、どうやら青年はそれをしっかり
体現している。当主にしては些か若すぎる気もするが、この手の名家では直系同士の婚姻が多く、その為に短命に
なる事もしばしばある。そう言った経緯を得て、彼―カーマインと言ったか―は代替わりを迎えたのかもしれない。
それはともかくもそれほどまでに立派な家柄の者が、自分のような罪人と関わろうとするとは気違いを起こしている
ようにしか思えない。溜息を吐いた。

「・・・・・・・飽きさせてしまったか。それとも、困らせたか?」
「違う。ただ、呆れているだけだ。お前は凡そ当主に向いているとは思えん」
「よく、言われる。努力が・・・・・足らないのかな」

自嘲が零れて、目を剥く。そう言った意味で当主に向いてないと言ったわけじゃない。当主にするには無用心で
無邪気すぎると、そう嗜めたつもりで。学が足りないとか、才能がないとかそういう事を言ってるわけじゃない。
首を振った。獅子脅しの音が何処か遠くに聞こえる。

「違う。そういう意味で言ったんじゃない。俺は、ただ・・・・・」
「慰めてくれるのか。貴方は優しいな」
「ばっ、何を言って・・・・・!!」
「下らぬ与太話に付き合わせてすまなかったな。貴方にも都合があるだろうに」

ふわり、微笑む。花薫る美貌はそう呟くと。草鞋を脱いで縁側から部屋へと戻ろうとする。とっさに呼び止めそうになった。
自分は名乗りもせず、青年の誘いにも乗らなかったというのに。何の権限があって呼び止める?そう思い、咽喉まで
出かかった言葉を飲み込む。そして、自分も木の枝から、塀の外へと飛び降りる。今の自分の姿を誰かに見られようものなら、
彼に迷惑が掛かるだろうから。

この鉄錆びのような血の匂いに気づかぬはずがないだろうに、名どころか何があったかも訊かずにいてくれた彼に余計な
気負いを与えてはならない。二度と彼に関わらないのが最も正しい選択なのであろう。ほんの僅かな時といえど、彼といた間は
生きる事の意味を見出せない苛立ちを忘れていた。それは何故か。美しさに惑わされたか。いや、違う。もっと別の何か。
それが何かは知る由もないが。


花の香が、強烈に残る。笑顔の残像が脳裏に焼きついて離れない。艶やかな声が鼓膜を支配する。



一瞬、自分が罪人である事も忘れた。
しかし花の香が消え、血臭が漂うとはっとしたように惚けた意識が覚醒する。走った、鼻緒が切れるまで。力の限り。
足が動かなくなるまで。罪人の行き着く先はどうせ地獄だ。裁きは、近い。彼はきっと、自分を地獄へ導く冥界の死者だったのだ。
そうでなければ、こうもぽっかりと何かを失くしたような気になるはずがない。心を持って行かれた気になるなんて。


追われている。

それは違う。今はきっと。



―――追い詰められている

逃げ場など、どこにもない・・・・・。





続物第一弾。アニーさん名前が出てきません。
一応序章的な扱いなので短いです。次回はカーマインと
屋敷の外でばったり出会ったり、ウェインとかオスカーとかハンスとか
ガムラン(何で)とかが出てくる予定です〜。

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