鉄錆びに混じるは甘き花香 ―――血が、薫る。 しかし嫌な感じはせず、それに恐れもない。 紅く濡れたその人の瞳は、研ぎ澄まされた刃のようにまっすぐだったから。 澱みもなく、毅然とした姿が何故か忘れられない・・・・・・。 ◆◇◆◇ 月が、煌々と輝いている。流れる紫雲を目で追っていれば、いつの間にか夜が来る度、こうして庭に出て屋根の上を仰ぐ 習慣が出来てしまった事に気づく。初めは純粋に外の空気を吸いたかったとか、夜空の星々に魅せられていたというだけで あったのに。今では、この色違いの眼はたった一つの色を探している。まるで血のような、深い緋色。生きている、色。 きっと触れればじんわりと暖かいであろうそれを、ずっと求めて。否、あの人を探して。たった一度だけ出会った孤高の志士を。 瞼を閉じれば鮮明に甦る、記憶。月光を背に木枝に佇むその人は、雪色の髪に肌、そして椿のような紅蓮の瞳をしていて。 瑠璃色の羽織を瞳と同じく赫で濡らしているというのに、血臭を漂わせているというのに、野蛮な雰囲気などなく、むしろ 高潔で美しいとすら思わせるほどで。目を、奪われた。 「・・・・・・せめて、名前くらい聞いておけばよかったかな」 今更言っても仕方のない事だけど。諦めにも似た吐息が漏れた。首が痛くなるほど振り仰いでも、自身の瞳に映るのは 夜空と何もない屋根瓦、誰もいない、樹木。当然の事だけれど。大体彼と出会ってから今日で幾度目の夜になる事か。 彼とて、ここに来たのはきっと偶然だったのだろう。意図もせず、偶々通りがかっただけなのだ。そこに俺に声を掛けられ、 少しだけ愚痴にも似た世間話に付き合わされただけ。彼にとってはいい迷惑だったろう。現に彼は自分の身に媚びりついた 血を気にしているようだったし。 「・・・・・・・・・女々しいぞ、カーマイン」 呟いて踵を返す。カコン、と獅子脅しの音が静まり返った空間にやけに大きく響いた。風に煽られ木々の梢が騒ぎ立てる。 追い立てるようなそれに、俺は逆らう事も出来ず、以前のように草履を脱ぐと縁側へと上がり込む。足袋が、冷たい木床を 滑る。きしりと小さく軋んだ。なるべく音を立てぬよう、静かに回廊を歩み、部屋へと戻る、。そして最後に一度だけ未練 がましく背後を振り返った。そこには障子の隙間から覗く、望月以外に何かを見受けられる事はなかった――― ◆◇◆◇ 「・・・・・少し、出てくる」 カタリと引き戸を開ける。背後に佇んでいる縹色の小紋を纏った妹へと、一声かければ「いってらっしゃいお兄ちゃん」と いつものように小さく手を振って応えた。それへ頷き返し、足を踏み出す。しかしそこで草鞋が水を感じ取り、思い留まる。 上空を見上げれば、曇天。パラパラと軽い雨が降っていた。整備の行き届いた砂利道には水溜り。波紋を築いては 消え、築いては消えをひたすら繰り返している。一体いつから雨など降っていたのだろうか。少なくとも朝起床した時は 晴れていたのだが、そんな事を考えつつ踵を返せば、妹のルイセが小首を傾いだ。 「どうしたの、お兄ちゃん?」 「・・・・・いや、雨が降っているから」 「え、雨降ってるの・・・・?今、傘取ってくるねぇ」 「ああ、すまないな」 ぱたぱた、軽い足音を立ててルイセが玄関から番傘を取ってくるとそれを手厚く渡してくれる。微笑んで礼を言う。 そうすれば結い上げた髪を揺らして彼女は嬉しそうに笑う。可愛いものだ。昔は今の自分の腰にも及ばぬ背丈だった というのに、今ではもう鎖骨の辺りまで背がある。それでもやはり可愛い事に代わりはない。結局兄馬鹿、なのかも。 くしゃりと桃色の髪を撫でて、傘を開き再び家を出た。特に用事があるわけでもない。単に、気が向いただけだった。 雨粒が傘を打つ心地よい音が響く。それはまるで何かの歌のようで何だか楽しい気分になってしまう。そうして雨音を 愉しみながら、贔屓にしている呉服屋へと顔を出す事にした。十字路を左折する。藍染の暖簾をひらりと手繰り、 敷居をまたげば馴染みの年若い店主が気さくな笑みを浮かべてきた。 「やあ、いらっしゃいカーマイン」 「ああ・・・・久しぶりオスカー」 「今日はなんだい?また服を仕立てに来たのかな」 だったら君に似合いのいい生地があるよ、と両手に広げた藤色の白花をあしらった綺麗な布地を見せてくれる。 確かにとてもいい生地だけれど、今日は別に服を作りに来たわけではない。先も述べた通り気が向いたから顔を出して みただけなのだ。だから、どうしたものかと曖昧に微笑み返せば「あれ、違った?」とオスカーは持っていた布をしまう。 「こんな雨降りの中わざわざ来るんだから、用があるのかと思ったけど・・・?」 「いや、別に取り立てた用はない。通りかかったからせっかくなら君の顔を見て行こうかと思って」 「へえ・・・・それは殺し文句じゃないか。嬉しいねぇ」 にこにこ、本当に嬉しそうに笑いながら、オスカーは一度倉庫の方へと足を運ぶと先ほどとは違う布地を幾つか 持って出てきた。何をするのだろうと、碧眼を見上げればちょいちょいと呼び寄せられる。それに抗う事なく近づけば 密やかな声で告げられた。 「好きな生地を選んで。嬉しい事を言ってもらったお礼に一着作ってあげるよ」 「は!?いや、いいよそんな。手間も掛かるし、赤字になるだろう?」 「でも君はお得意様だし。それに僕が君のために服を作りたいんだよ・・・・・ダメ?」 「ダメって・・・・、あ、待て、だったら一つ作って欲しいものがある」 でも、それは俺のじゃないからお代は支払うよと付け足せばオスカーは微妙な表情をする。しかし仕事の話を 持ってこられれば商人としてはそれを優先する他なく。仕方なさそうに息をついて「ご注文は?」と注文取り用の帳簿と 筆を取り出す。さらさらと手早く、且つ綺麗な文字を綴っていく。 「ああ、えっと・・・色はあまり派手じゃない方がいいから・・・・藍染で、無地の・・俺のより一回り大きな羽織を一つ」 「藍染の無地の羽織、っと。一体誰が着るんだいそれ」 「え゛・・・・誰って、いいだろうそんな、事・・・・・」 「・・・・・・・・・・まあ、女性への贈り物でないのなら、良しとしておきますか」 言って、大きさを問う為に幾つかの試作品を手に取らされ、その中で自分の記憶と照らし合わせながらも大体の推測で このくらい、と渡された中でも大き目の羽織に手を掛ける。見本用とあって、生地は少し製品よりも劣るものの、それでも 老舗である事を忘れさせぬほど見事な出来。これを店主であるオスカーがほぼ一人で作っているというのだから、 感嘆に値するだろう。大きさの確認は済んだので丁寧に折りたたんでそれをオスカーへと返す。それを受け取ると オスカーは定規と型紙を取り出し、またさらさらと筆で大きさを綴っていく。 「じゃあ、完成は三日ほど待って」 「・・・・随分と早くないか?」 「大事なお得意様の注文だからね、手早く仕上げるさ」 常ならば一週間は掛かる仕事を、三日で仕上げるなど無理をさせてしまうのではないだろうか。いや、彼の腕ならば 一着を作るのに半日掛からないだろうけれど、他にも色んな人からの注文が入っているから、それらと折り合いをつけながら となればやはり一週間は必要な筈。それを思うと何だか申し訳なくなってしまう。大体、ここには本当にさっきまで仕立てを 頼む気などなかったのだ。けれど無料で作らせて手間もお金も掛けさせてしまうくらいなら、自分から仕事を持ち出して せめて金銭面での彼の負担を取り除いてやりたかった。それは馴染みとして随分と親しくなった彼への精一杯の気遣い。 しかしそんな自分の思考を見透かしたのかオスカーは嫌な顔一つせずやんわりと微笑む。 「そんな顔をしないでも。僕が言い出した事だ。君が気にしなくていい」 「いや、しかし・・・・・」 「僕は、僕が作ったものをお客様に喜んでもらえればそれだけで幸せだよ・・・?」 そう告げる彼の顔は本当に喜色が滲んでいるから、何も言えなくなってしまう。黙っていると、不意に彼が問うてくる。 「そういえば。誰とまでは聞かないけど、どんな人に贈るの、これ」 「え、どんなって・・・いや贈る、かどうかも・・・・・」 「・・・・・?自分のものじゃなければ、誰かに贈るものだと思うけど違うのかい?」 「・・・・・・・・・贈ろうにも、その人が何処にいるかも知らないし・・・・」 それ以前に「誰」かも分からない相手。だから、その羽織はもしも再び「彼」に出会えたならその時に渡そうと思っていた。 贈り物というよりは持っている事でこれをいつか渡せるかもしれない、という希望を形にしたかっただけなのだ。 「・・・・・?名前も住所も知らない人に作るのかい?」 「ああ、改めて聞くと・・・・おかしいな」 「・・・・そんな事はないと思うけど・・・・。ああ、何だったらその人の特徴を言ってくれれば僕が分かるかもしれない」 これでも結構顔は広いんだよ、と言われ暫し逡巡する。名を、知りたいとは思う。何処の誰か分かれば、会えるかもしれない。 けれど、彼は自分で名乗らなかった。此方が名乗ったのに。つまりはきっと自分の事を知られたくはないのだ。それに何か 訳アリのようだったし、余計な真似をして、困らせたくはない。だから、有難い申し出に緩く首を振った。 「いや、いい。それからどうせ会えるか分からない相手だ、急ぐ必要もないよ」 「・・・・・・・そう。じゃあ、いつも通り、一週間後にしようか」 「ああ、そうしてくれ。いつもすまないな」 「いいや、他ならぬ君のためですから」 何処か含みのある科白に首を傾ぐが、曖昧に微笑んで誤魔化された。注文も取り付けたし、あまり長居しても迷惑な だけだろうと思い、軽く会釈して暖簾を潜る。オスカーが店先まで見送ってくれた。それに小さく手を振って店を出たその時。 威勢のいい掛け声と、荒々しく駆ける足音がした。思わず、振り返る。 「・・・・・・あっ」 血が香る。 雨独特の燻るような土の匂いと共に、鉄錆びによく似た香りが風のように通り過ぎていく。傘で相手の顔は見えはしなかった ものの、何か確信めいたものがあった。慌てて傘を傾けて通り過ぎていった人影を目で追う。そこには後姿しか見えなかったが 確かにあの日見かけた色素の薄い髪色が曇天の下でもくっきりと見て取れる。彼だと、脳で理解すると、反射的に身体が その背を追おうとしてしまう。しかしそれは実行する事は叶わない。どうやら彼を追っていたらしい岡引に引き止められたからだ。 「そこの御仁、今銀髪の男がこちらに来なかったですか?」 「・・・・・・・・・え?」 引き止められるままに振り返れば、自分より僅かに年少な少年が二人立っている。一人は黒髪の、幼さが隠れもせずに 残った、俺と身長が殆ど変わらない少年。もう一人はその彼よりも少し背の低いこれから成長期を迎えるであろう、頬に 雀斑の浮いた元気そうな赤髪の少年。二人とも岡引にしては若すぎるような気がしたが、捕り物をするには彼らのような 素早い者が必要なのだろうと何とか納得する。いや、それよりも彼らは今何と言った?銀髪の、男―――? 「・・・・・何方か、お探しですか?」 「ええ、ちょっと。アーネスト=ライエルという罪人ですが、ご存知ありませんか?」 「お触書にも出てるんっすけど〜、何か知らないっすか?」 「・・・・あ、いえ。あまり外には出ないのでよくは・・・・・」 何とか言葉を濁す。嘘はついてない。彼が罪人であるのだろう事は推察出来てはいたが、何処の誰だかは知らないし 彼が何をしたのかも分からない。それがどこか寂しいけれど、致し方のない事。とにかく今はここで彼らに話を聞いて 時間を稼ぐべきだろうか。そんな事をしても彼が知る由もないだろうし、喜びもしないであろうけど・・・。 「あの、その彼・・・・アーネストとやらは何をしたのですか?」 「は?えぇと、彼はある城の家臣で忠義も厚く剣の腕前に長けた人物だったのですが・・・主君を殺めた為今では罪人です」 「・・・・・・・何故、忠義に厚いその人が主を殺害などと・・・・」 「大きな声では言えませんが、そこの主は妙な術にかどわかされ、発狂したとか・・・。それを止める為に彼は・・・・」 それでも罪人である事には変わりがありません、と緩く首を振られて何も言えなくなってしまう。 「懸賞金も掛かってるんで、もし見つけたらご一報下さいっす〜。じゃ、師匠早く行こうよ」 「あ、ああハンス。それでは、わざわざ引き止めてすみませんでした」 「・・・・・いいえ。お役に立てず申し訳ない」 頭を軽く下げれば、岡引の少年たちは、アーネストが駆けて行った方角へと元気よく走り去って行った。その背を見送り ながらも心の奥底ではアーネスト=ライエルが捕まらない事を願っていた。彼が、追っ手から逃げる為に恐らく多くの人を 殺めたのであろう事も容易く読み取れるし、そうでなくとも主君の殺害という大罪を既に犯している事も分かっているけれど。 罪人というにはあまりにまっすぐで強い瞳をしていたから。だから、どうか生きていて欲しいとそう・・・思う。 雨音が、どこか遠い。 微かに空気に残る血臭が、何故かとても甘くて。 狂った感覚に、自嘲を零す余裕すらなく、ただ瞼を伏せた。 ◆◇◆◇ 「毎度あり」 「いい出来だ、いつも有難う」 あの雨の日から一週間経ち、呉服屋に頼んでいた羽織を受け取れば、相変わらずの見事な出来に吐息が漏れた。 決して渡す事など出来ぬものだけれど。それでも持っているだけでほんの微かな、希望を持つ事が出来る。この、羽織を もし再会が叶えば彼に、アーネスト=ライエルに手渡したいと。彼から香る血の匂いも決して嫌いではないけれど、 出来る事ならそんなものはない方がいい。だから、血に濡れた羽織を新しくすればいいなどと、実に幼稚な事を思いつき、 思わずこうしてその思いを形にしてしまったのだ。何て情けのない・・・・。 「カーマイン?顔色悪いよ・・・・?」 「あ、いや・・・・・何でもない。また、入用なものがあれば頼みに来るから・・・その時は宜しく」 「はいはい。楽しみに待っているよ」 「・・・・・・じゃあ」 手厚く手渡された羽織を胸に抱えて、暖簾を潜る。一週間前は、ここで彼とすれ違ったのだ。向こうは気づいていない ようではあったが。まあ、追われていればそれも当然。むしろ、彼は自分を覚えていないかもしれない。何せたった一度しか 会っていないし、ろくに会話もしていない。それではよほどの事がない限り、相手を覚えるなどという事はないだろう。 何もかも、一方的だ。ぎゅうと手にした羽織を握り締める。そして無意識に。以前すれ違った時に彼が目指していた方向へ 足を向けていた。ふらふら、当てもなく道端を歩いていれば、背後より声を掛けられる。それは自分が最も苦手とする男の、声。 「・・・・ほう、最近ずっと姿を拝んでいないと思えば、こんなところにいたのか若君」 「・・・・・・・・・ッ!ガムラン・・・・・・」 「ガムラン様、だろう?幾ら君が華族のお坊ちゃんと言えどな」 「・・・・・・・・・・・・・・申し訳、ありません・・・・・・ガムラン様」 歯噛みするように、告げる。金色の髪に碧眼、この世界では割と多く見られる身体的特徴の男。しかし、その瞳はとても 卑しく、笑った顔はまるで蛇のようにねっとりとし、薄気味が悪い。この男の方がよほど罪人のような目つきをしている。これで 勘定奉行の代官だというのだから始末が悪い。そして、何故か彼は事ある毎に俺に絡んでくる。まあ、俺というよりは フォルスマイヤー家の当主に用があるのだろうけど。こうして顔を合わせる度に執拗に迫ってくるこの男が嫌いだ。 早く逃げたい。しかし、そうは思えど相手の立場上、そして自分の位を考えればそう無碍な態度を取るわけにもいかず。 なるべく不快感を表に出さず、尚且つ自然な流れでこの場を去らなければと思考を巡らせる。 「・・・・・ところで、貴方こそ此方で何をしておいでか。代官様。お仕事があるのではないですか?」 「そう、この辺りには商売長屋が多いからなぁ。視察も楽なもんじゃない」 「なら、私に構わず職務に戻られるが良いでしょう。私にも用事がありますし」 私、と言うのは当主としての当然のけじめ。そして彼にとっても代官と言うのはけじめになりうるものの筈。職務中なら 尚の事。彼の背後には取り巻きもいる。これだけ言えば、何とか逃げられるだろう。そう思い、一瞬眉根の力を抜けば、 対面する卑しく笑う男は更に口元に邪悪さを上乗せ、酷薄な笑みを履いた。 「・・・・なに、そう急かなくてもいいだろう・・・?それと前の件の答えも聞きたいしなぁ」 「・・・・・・前の件、というのは私に貴方の妾になれなどという・・・・戯言ですか」 「戯言とは失敬だね。私は本気なのだが?まあ、君が嫌だというのなら妹君でも構わんが」 「・・・・・・・・・なっ」 「私はフォルスマイヤーの家名が欲しい。それに加えて君が手に入るのなら言う事はないが・・・・?」 妹を盾に取られては、承諾せざるを得ないか。しかしやはり自分の父が、赤の他人である自分に家を継がせてくれたのだ。 とても大事な家を。だから、そう簡単に手放すわけには行かない。養子である自分を見込んでくれた父の思いに報いなければ。 それに、いくらなんでも自分にも自尊心というものがある。女の身なれば政略結婚も渋々ながらもまだ頷けたろうが、 自分は男だ。男娼の真似事をしろなど、拷問に近いものがある。何とか、言い逃れなければ。そう思いつつも中々言葉が 浮かんでこない。早くしなければ、この男の思うツボであろう。眉間に深い縦皺が刻まれる。 「・・・・・もう少し、考えさせてくれ」 結局、何も浮かばず先延ばしする事しか出来ない。それが分かっていたのかガムランは先ほどと全く変わらぬ表情で こちらを見ていた。見透かされているようでいい気がしない。 「・・・・いい返事が聞ける事を愉しみにさせてもらおう。ああ、妹君によろしく」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ッ」 じゃりと土を擦って踵を返す男の言葉は明らかに警告だ。自分が断ろうものなら、ルイセに手を掛けると。そんな事、許せる 筈がない。例え家を乗っ取られようと。逃れられない。どうしようもない事なのだろうか。こんな時、世間と言うものに疎い 自分自身が嫌になる。自分は酷く無力だ。拳を強く握り締めた。しかし、いつまでもこうして佇んでいるわけにはいかない。 拳を解いて、慰めるように羽織を抱きしめ、とぼとぼと歩き出すがまっすぐ家に帰る気にはならず、先ほど目指していた 方角に足を進めた。こちらの方にはあまり来た事がない。故に見るもの全てが新鮮に見える。何とはなしに、周りの景観を 楽しみながら当てもなく歩む。ふと、足元に目をやれば、血痕が続いていて。それを見た瞬間、胸が高鳴った。脳裏に、 彼の姿が思い浮かんで。気づけば、その血痕を辿っていく自分がいた。彼だとは限らないのに。しかし、何か不思議な予感があった。 根拠も何もないのに、彼の気がしてならなかった。そうして段々と大きくなっていく血痕を追っていけば、人気のない 廃屋へと辿り着く。誰も住まってはいないようなので、悪いとは思いつつ、塀の隙間を掻い潜って中へと忍び込む。 「・・・・・・・誰か、いるのか?」 念のため、気を緩めず垣根を越えて敷地内を散策していれば、草木に紛れてまた血痕を見つけた。視線を上げれば、 潜むように垣根に囲まれた巨木にぐったりと横たわる人影が映りこむ。立てられた膝と片手で押さえ込まれた脇腹から 血をボタボタと滴らせているその人物は、自分が探していた彼で。苦しげに息を吐きながら、怪我による発熱に浮かされている らしい彼にそっと近寄る。彼の目の前に膝を付き手を伸ばそうとした瞬間、ぴたりと首筋に銀の刀身が当てられた。 「・・・・・・・ッ!」 「・・・・・・何・・・や、つ・・・・」 「・・・・・アーネスト・・・・?」 ぼうっとした瞳で此方を睨みつけながら、先ほどまで苦しそうにしていたアーネストがいつの間にか抜いたのか、刀を俺に 向けて突きつけていた。あまりに迅い動きについていけず、微動だにも出来なかった。たらりと首筋を冷や汗が伝う。 どうやら彼には今物の分別がつかぬのだろう。このままでは斬られるかと思ったが、いつまで経っても彼は動かない。 どうした事かともう一度声を掛ける。 「・・・・・アーネスト?」 「・・・・・・・お前、カーマインか・・・・?何故、俺の名を知って、いる・・・・」 「・・・・・この前、君を追っているらしい岡引の子から聞いて・・・・・」 「ならば、俺が何をしたか・・・・知ってる、だろう・・・。退け。でなければ・・・・お前も仲間と思われる」 逃亡中に負ったと思われる傷口を押さえながら、アーネストはそっぽを向く。次いで力の入らぬ身体を奮い起こして 立ち上がろうとしたのでとっさに俺は彼の刀を握る手を掴んだ。 「・・・・・なに、を」 「待て、そんな傷で・・・・。君は死ぬ気か」 「だとしたら、なんだ。お前に関係・・・ないだろう・・・。それより、汚れるぞ手を離せ」 「・・・・せめて・・・・傷の手当てをしてくれ。そのままじゃ、本当に・・・・・」 死んでしまうぞ、とは言えなかった。彼が自分を見る目があまりに強くて。そのまま、何も言えずにただ手を握り続けて いれば、彼は小さく息を吐き、もう一度地面に座ってくれた。多分、手当てをしなければ俺が手を離さないと思ったのだろう。 きっと彼ならば本気を出せば俺の手など簡単に振り払えるのであろうが、それをしないでくれた事が嬉しい。単に傷口に 響くからしなかっただけかもしれないが。 「・・・・・・判った。手当てはする。だから・・・・離せ」 「・・・・・・・・・・・・」 言われてゆっくりと手を離せば、彼は血に濡れた自身の羽織を引き裂くと破れた布で止血を始めた。鬱血するのではないか、 と思ってしまうほどきつく心臓側を縛り付ける。痛そう、と無意識に傷口に触れようとすると寸前で手を掴まれた。 「・・・・・・汚れると言ってるだろう。俺は、平気だ」 「でも・・・・・だったら、これを。その羽織はもう使い物にならないだろう?」 「・・・・・・・それは?」 「俺が、君にと思って作った物だ。受け取ってくれ・・・・・・・・」 手に抱きしめていた藍染の羽織を彼に向けて差し出すが、彼は受け取ろうとしない。それでもずいと腕を突き出す。 絶対に退かないと目に力を込めて。暫くそうしていても一向に彼は動こうとしないから、よほど迷惑かと眉根を寄せる。 大体、先ほど言われた通り俺は彼とは何の関係もない。そんな相手から服を渡されても戸惑うだけだ。そう思って謝罪を 告げようとするとゆっくりと彼が手を伸ばした。 「・・・・・受け取る。受け取るから・・・・そんな表情をするんじゃない」 「・・・・・・・・・えっ?」 「これはなるべく汚さないようにする。が、確約は出来ない。それでいいか」 「あ、ああ・・・・・有難う」 受け取ってくれた事へ礼を言えば「礼を言うのは此方だろう」と溜息を吐かれた。次いで彼はゆるりと緩慢な動作で 手渡された羽織の裾を通す。どちらかといえば緋色の方が似合うが藍色も中々似合う。凛とした白皙の面に映えて 綺麗だと、そう思う。思わず微笑んだ。 「・・・・・何を笑っている。それよりも、早く帰れ。俺といるのを見られればお前もただじゃ済まんだろう」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「俺は罪人で、お前は良家の当主だ。守るべきは何か、よく判るだろう。だから、帰れ」 何も言い返せない。確かに彼は罪人だけれど、けれど好き好んでその立場にあるわけじゃない。主を救うために主を 斬ったのだ。しかし、この世ではそれは通らない。過程でなく結果だけが人の目に留まる。だから彼は罪人以外の何者でも ないのだ。幾ら自分の目の前の彼が罪人とは程遠い人格であろうとも。 「・・・・・騒がせてすまない。確かに君の言う通りだ。帰るよ・・・・・・」 「ああ、そうしてくれ」 「・・・・・・ただ、死なないでくれ。出来るなら、遠くに、逃げて・・・・・・」 その傷で遠くに逃げられよう筈もないのに可笑しな事を言っていると、その自覚はある。でも、願わずにはいられない。 何故そんな事を願うのかも分からないけれど。生きていて欲しい。無茶な望みでも。しかし。 「・・・・・・・承知した・・・・・と、言ってもやはり確約は出来んがな」 去りかけた背にそんな言葉を投げかけられて、足が止まる。一度だけ振り返ってみれば、巨木に身を預けた彼は 不敵に笑っていた。例え虚勢であっても、随分と堂々とした瞳。それがとても眩しくて、嬉しくて小さく微笑む。 「ありがと」 呟いてその場を後にする。彼の無事を祈って。それは不可能に近い祈りであっても。自分にはそれしか出来ないから。 無力だから。それを痛感してしまうから、もう二度と振り返る事は出来なかった。そうして自分が彼から目を背け、 遠ざかっていく中で、その限りなく不可能に近い願いが見事に潰えたと知るのにそう時間は掛からなかった。 そう、その翌日だった。 アーネスト=ライエルが捕らえられたという一報が町中に報じられたのは。 第二弾。話が訳分からん方向に。 まあ、言える事はアー主です(説明になってないよ) ところで華族制度って明治初期に制定なんですよね。と言う事は これは明治初期のお話なんですかね・・・。それともそういう細かい設定なし なんでしょうか。それ以前に訊くなよ。そしてガムランのキャラがよく分からん(涙) ガムランは次回も当然ながら出てきます。ウザイです(コラコラ) ≪BACK TOP NEXT≫ |