鉄錆びに混じるは甘き花香







―――揺れている。


想いは潮騒のように。
寄せては引いて、荒々しく静謐で。
何度も何度も移り変わる。
当てもなく、唯、唯・・・・・。






◆◇◆◇





酷く、虚ろな瞳をしていた。
白銀の髪が、檻の外の回廊から漏れ差す松明の炎に照らされ薄紅く照らし出される。
岩煉瓦を連ねた厚い壁に力なく寄り掛かりながら、牢獄へ身を置かされた男は小さく息を吐いた。腹と脚には決して充分とは
言えない粗末な手当ての跡。しかし斬首がほぼ確定している身の上には、それでも大分手厚い措置であると言えるであろうが。
少しでも動けば傷口が開いてしまいそうで。ただ大人しく座り続けているのはある意味利口だったかもしれない。

「アーネスト」

不意に牢の外から声が掛けられ、アーネストはそちらを見遣る。初めは看守の声かと思ったが、違う。そこに立っているのは
数ヶ月前まで同僚だった男。黒子装束に黒篭手、手には珍しい鎖鎌。城内で表立って将軍を守っていたのがアーネストなら、
彼は裏で城に仕えていた隠密機動、いわゆる忍者部隊の一員で。表と影の近衛筆頭同士である彼らは親友同士でもあった。
そんな意外な人物の姿にアーネストは控えめに眉間に皺を寄せる。

「・・・・・オスカー、何故ここにいる」

眉間は顰めたままにアーネストはなるべく声を殺しつつ問う。それにオスカーは僅かに上体を屈めて答える。
目線は看守の出入りする戸口へと注いだまま、口早く且つ内容を出来うる限り要約して話し出した。

「・・・・君が捕まったと聞いて・・・・・逃がしに来た」
「・・・・・・・・・な、正気か!?」
「だって君は悪くないじゃないか。君があの時、リシャール様を手討ちにしなければ・・・・我が国は滅ぶところだった」
「・・・・・・いや、俺はあの方を手に掛けた上に、自身に放たれた刺客を数え切れぬほど斬った。極刑で当然だ」

緩く首を振りながらアーネストはオスカーの申し出を断る。瞳には迷いがない。本当に数多の命を散らした事を後悔している
様は酷く弱々しく、そして虚ろだった。オスカーは未だ嘗て見た事のない友のその表情に目を瞠った。何事かを言おうにも、
今のアーネストにはそれを受ける気力が見られない。そんな調子では脱獄も到底出来そうになく、オスカーは困ったように
俯きかけるが、その瞬間にもう喋りはしないだろうと思われたアーネストが先に口を開いた。

「・・・・オスカー、ここに侵入したという事は脱出経路も当然確保しているな」
「ああ、そうでなければ君を逃がす事なんて出来やしないだろう?」
「・・・・・・・ならば、これを・・・・・持って・・・・ある人物へと返して欲しい」

言って、アーネストは身に纏っている羽織をゆっくりと脱いだ。そして丁寧に愛しむように折畳んでいく。それは、彼が投獄
される直前に名家の当主、カーマインから譲り受けたもの。藍染の上質な生地で作られたそれは肌触り良く、丈夫であり、
とても高価なものだと素人目でも分かる。そんなものを自分のような得体の知れぬ人間に寄越す彼の気が知れなかったが、
受け取るのを拒否した際の彼の悲しげな表情がとても見ていられず、つい受け取ってしまった。一度受け取った以上、大事に
しようと思っていたが、自分はもう囚われの身。おまけに斬首は免れないだろう。生き延びるという約束を果たせないのならば
せめてこの着物を汚さないという約束だけでも守らなければ、と。アーネストはそんな事を思いつつ、畳んだ羽織をオスカーへ
差し出す。それを受け取ろうとした際にオスカーはふと気づく。

「・・・・・・これ、は・・・・・」
「・・・・・・・・・何だ?」
「・・・・これ、僕が作った羽織じゃないか」
「・・・・・お前が?・・・・・・何故・・・・・ああ、そうか。お前は実家が呉服屋だったな」
「そう、隠密機動の身を隠す為の副業でね。ま、副業の方が今じゃ本職みたいになってるけど」

皮肉な話さ、と笑うオスカーは一度手にした羽織をアーネストへと突き返す。その行動が予想外でアーネストは緋色の
瞳を不審気に細めた。オスカーはただ緩く首を振りながら、どこか遠くを見つめながら、言う。

「・・・・・これは、君が持っていた方がいい。僕は、あの子の想いを踏み躙れない」
「あの子?・・・・・・・知っているのか、カーマインを」
「知ってるよ、と言うか彼を知らない人間の方が稀有だろうね。あんなに目立つんだから」

突き返された羽織を手持ちぶたさに手にしながらもアーネストは、訝しむようにオスカーを見遣る。しかし、オスカーは
アーネストの視線を避けるように立ち上がった。くるりと後ろを向く。表情が窺えない。何を考えているのか計りかねて
自然、深く目尻に皺が寄った。

「おい、オスカー・・・・」
「君はそれを彼から受け取ったんだろう?なら死ぬ瞬間までそれをずっと纏っているべきだ」
「しかし俺には約束が・・・・」
「君の都合なんて聞いてない。僕は唯、彼が悲しむところを・・・・見たくないだけだよ」

だって彼は君を・・・・、と言い残しオスカーはどうやら初めに侵入した際にも使ったらしい天井裏の抜け道へ向かって
壁を蹴り上げ跳ね上がる。そうして天井へと上ると最後にアーネストを一瞥し、僅かに逡巡しながらも口を開く。

「今はまだ、君にその意思がないようだから・・・僕は一度戻るけれど・・・・よく考えるんだね、自分の身の振り様を」
「・・・・・・・・・・・オスカー」
「生きるか死ぬかは君が決めればいい。唯一つだけ、言うなら。君が死んだらあの子は酷く悲しむだろうね」

それで君は満足かい?、皮肉気に哂ってオスカーは天井の蓋を閉め姿を消した。冷たい監獄の中に一人取り残された
アーネストは唯、手元の羽織に視線を落とした。とても上等なそれ。仄かに、あの青年の花香が残るそれ。自身から香る
血臭を押さえ込むようなそれは、気を静める一方で、胸を騒つかせる。漫ろに寄せては引く、潮騒にも似た・・・・。

心に騒めきがあるという事は即ち、迷いがあるという事。死を、受け入れていた筈なのにと、拳を憤りの侭に床に叩きつける。
薄皮が破けてじんわり紅が滲んだ。また、血が香る。何をしていても血の匂いが付き纏う自分が、高嶺の花に手を伸ばす事が
どれ程、罪深い事か。伸ばした手で汚してしまうかも知れぬという事がどれ程畏れ多い事か。判らぬ程、子供じゃない。
だから、自分は裁かれ彼との関わりを一切絶ってしまうべきなのだ、と。そう、知っているのに羽織をきつく握り締めるこの手は
一体なんなのか、アーネストは自嘲を漏らすと一息、吐いた。全て、諦めたように。

「・・・・・・ここまで来たら、どこまで堕ちようと変わらんか」

呟いた彼の瞳に滲んでいた虚ろは彼方へ遠ざかり、そこに在るのは煌々とした強い焔の色彩だった。
アーネスト=ライエル、刑執行まで残り二日―――





◆◇◆◇





「お兄ちゃーん」

ぱたぱた、回廊から桃色髪の少女が駆けてくる。しかし、慌てすぎたのか小紋の裾を踏んでぐらりと上体が傾いだ。
それを正面から男にしては白く細い腕をした青年が難なく受け止める。それはこの兄妹の間では日常茶飯事な出来事で。
柔らかに受け止めた肢体を離しながら青年は「どうした」と問うた。

「お兄ちゃん宛に文が届いてたから、はい」

言って手に持っていた白い封を少女は目前の秀麗な兄に差し出す。差出人の名前がない、どこか不審な文。
しかし少女は純真ゆえかそれに気づかずに青年へと手渡したようだ。しかし、わざわざそれを口にして無駄に不安を
煽るような事を言う必要もないだろうと、青年は笑って受け流す。

「・・・・・有難う、ルイセ」
「ううん、それよりお兄ちゃん、何か元気ないね。どうしたの?」
「・・・・・・・・そうか?気のせいだろう。それより、俺はまた少し出てくる」
「えー、今日はどこ行くのぉ?」

私も行きたい〜、と駄々を捏ね始めたルイセに青年はやや困った顔をして。

「・・・・・出掛けると言っても、遊びに行くわけじゃないよ」
「じゃあ、どこに行くの?」
「勘定奉行所、行きたいのか?」
「・・・・・・うぅ、・・・・・やっぱりいい」

畏まった場に流石に付き添うのは肩が凝るのかルイセは随分と聞き分けよく諦めた。内心青年は安堵する。もし、それでも
付いてくると言われたら困った事になる。この、今手渡された手紙は、数度見覚えがあった。これは勘定奉行所の例の代官が
時折寄越してくる文だ。こうして文を送ってくるという事は中身を見ずともこの間の件の答えを催促しているに違いない。
二日と経っていないのに催促してくるという事はもう、向こうは待つ気がないという事。引き延ばす事は出来ない。青年は
諦めた風に息を吐く。妹に気づかれぬよう密やかに。そして見送るルイセを通り過ぎたところで思い出したように彼女に
呼び止められた。

「あ、お兄ちゃん」
「・・・・・・・・・・・?」
「そういえば知ってる?何か昨日ね、大捕り物があったらしいよ〜」
「・・・・・・捕り物・・・・・・・」

俄かに嫌な予感が青年の脳裏を過ぎる。そしてその予感を違える事ないルイセの言葉が続く。

「お城の将軍様を手討ちにしたっていうお侍さんが捕まったんだって」

将軍、手討ち、侍。聞き覚えのあるフレーズに青年の表情は強張る。恐る恐る口を開いた。

「・・・・・その罪人、ひょっとしてアーネスト=ライエルと言わないか?」
「あー、そんな名前だったかも。詳しく知りたいなら、外にお触書が出てたと思うけど?」
「・・・・・・・・・いや、いい。それからルイセ、俺は大分帰りが遅くなると思うから・・・・・・・待っていなくていい」
「・・・・・・?遅いってどのくらい?」
「さあ、な。とにかく遅くなるから、先に寝ていなさい」

そんな事を言って、恐らくもう二度とこの家に帰る事はないだろうと、青年は一瞬酷く歪んだ表情を面に浮かべる。
それは彼の背後に立つ少女には伺えはしないが。青年は一度だけ振り返ると極上な微笑を最愛の妹へと捧げ。

「行って来ます」
「・・・・・・?うん、行ってらっしゃいお兄ちゃん。気をつけて」

最後の挨拶は、普段と変わらぬ穏やかなものであった。





◆◇◆◇





「・・・・・・で、どちらかそろそろ決まったかい?」
「・・・・・・・・・お前、よくそんなにちょろちょろと侵入してこれるな」
「だってこういう牢なんて見張りは扉のところにしかいないじゃないか」
「それは俺が怪我をしているからだと思うが」

逃げられやしないだろう、と高を括られているだけだ。アーネストは檻の外に立つオスカーへと一瞥もくれずに言う。
その緋色の瞳には昨日の虚ろで暗い思念は感じ取れない。オスカーは口の端を軽く上げる。

「・・・・・ふぅん?身の振り方はもう決まったみたいだね」
「・・・・・・・・・・どうせなら、堕ちるところまで堕ちようと思ってな。約束もある事だし」
「そう。ねえ、とことん堕ちる気なら一つ聞いて欲しい話があるんだけど?」
「・・・・・・・・・・・・・・・?」

がちゃがちゃとどうやら看守から奪ってきたらしい鍵で檻を開けつつオスカーは言う。話の内容にさっぱり予想のつかない
アーネストは当然ながら首を傾いだ。檻が開く。傷を庇いながらもアーネストはそこから出て、オスカーへと漸く視線を寄越した。

「君は大事な人を助ける為に人を斬れるかい?」
「・・・・・・・・・何を今更」
「・・・・そう睨まないで。まあ、僕が助けてもいいんだけど、君が助けてあげた方が喜ぶだろうし」
「一体、誰の・・・・・・・・」
「町一の、いや国一の美人の話さ」

含みのある言い方、身に纏った羽織に向けられる翡翠の瞳。どんなに鈍い人間でもそれだけされたら分かる。
美人、というのはアーネストに羽織を寄越した青年の事だ。男に対し、美人と言う言葉を使うのはどうかとも思ったが、まあ
事実ならば致し方のない事かと納得してアーネストはじっとオスカーを見遣る。彼を助けるというのは一体どういう事かと
目だけで問うていた。

「・・・・・知ってるかい?美人っていうのは悪−い奴に好かれ易い生き物なのさ」
「成る程。俺やお前に好かれてる時点で相当なものだな」
「ちょっと、何でそこに僕が出てくんの。僕は清く正しく生きてるのに」
「事実だろう・・・・?罪人を逃がす時点でお前も罪人だ」
「・・・・・・・・まあ、そう言われればそうか。っと話が逸れた。ねえ、悪い奴って言えば何を浮かべる?」
「・・・・・・・お前」
「死にたいのかい、アーネスト?」
「・・・・・・冗談だ。まあ、大体予想はついた。悪い奴の定番といえば悪代官だろう?」
「はい、正解」

そして美人は大抵、悪い奴に捕らわれるものだ。安い三文小説のような内容に思わず二人は失笑する。が、すぐに
アーネストは顔を引き締めて。

「もう、捕まっているのか?」
「捕まってる、というよりは。自分で彼は向かってるだろうね。妹君を盾に取られてるようだし」
「・・・・・・何でそんな事まで知ってるんだ、お前は」
「さあ、何ででしょう?」
「・・・・・・・・・・・ああ、そうか。お前、ストーカー・・・・」
「牢屋に入れ戻すよ、アーネスト」
「いや、じょうだ・・・・」
「煩いぞ、一体何をしている・・・!」

ばたん
戸が開き、看守が入り込んできた。

「「あ」」
「あ、ライエル貴様何故檻から出てるー!!そしてお前は誰だ!??」
「もう、アーネストが要らんボケかますから見つかっちゃったじゃん!」
「喧しい、婉曲な物言いばかりで本題を切り出さんお前が悪い!」

互いに責任を押し付けあってる間に大声で応援を呼ぼうとしている看守を二人掛かりで蹴倒して、アーネストは昏倒した
看守の腰に帯びた刀を奪う。オスカーは懐から自分の獲物である鎖鎌を取り出す。

「ああっ!?何だこいつ、門番のくせにこんな鈍らしか持っとらんのか!俺の不知火と虎徹を返せー!!」
「げげぇ、不知火と虎徹って・・・・超名刀じゃないか。贅沢しすぎだよアーネスト」
「煩い、刀は男の嗜みなんだ!」
「そんなの初めて聞いたよ、ってか君が大声出すから人集まって来てるじゃないか」

オスカーの言う通り、門衛やら武装した剣客が漫ろに集っていた。狭い室内の唯一の出入り口を固められ、
敵を倒さぬ限りは脱出は不可能。ともすればこの場で打ち首も免れない。もう、笑うしかない状況に、二人は本当に
笑っていた。それはそれは不敵に。

「あ〜あ、むさ苦しい連中に囲まれちゃったなあ、女の子ならともかく野郎に囲まれても嬉しくないね」
「確かに、鬱陶しい事この上ない。こうなったら本当にとことん堕ちるしかなさそうだ」

すらりと刀身を鞘から抜き放って、かちりと刃を回す。斬りかかって来た門衛の男を先ずはアーネストが峰打ちにする。
オスカーはといえばアーネストの背後でぺたぺたと壁を弄っていた。

「おい、オスカー貴様何をやってる!?」
「えー、だって僕の獲物じゃ殺っちゃうじゃないかー。だからこうして後方援護をだねぇ」
「や、役立たず!」
「役立たずとは失礼な・・・・っと、あったあった。アーネストー、ちょっとこっちに下がって来てー」
「簡単に言ってくれるな。こっちは何人相手にしてると・・・・ええい、鬱陶しい!」

峰打ちを諦めて、柄で兵の一人の鳩尾を強かに打つち、弾き飛ばせば狭い戸口に一列に並んだ兵は面白いように
将棋倒しになっていく。その隙にオスカーの言う通りにアーネストが下がればオスカーは壁の一部を強く押した。
そこは隠し通路の在り処だったようで、壁際の二人は反転した壁に押し出されるように、壁の向こう側へと移動する。

「・・・・・何だ、カラクリ戸だったのか」
「ふふーん、こういう牢屋ってのはどこにでも隠し通路ってのがあるもんさ〜」
「・・・・・・・・一応お前も本当に隠密機動の一員だったんだな・・・・・」
「どういう意味さ!っと、こうしちゃられない。早くしないと彼を助けてあげられないじゃないか」
「あ、ああ・・・。そういえば、結局何でお前そんなに事情通なんだ・・・・?」

隠し通路を駆けながら、アーネストが先程の話を蒸し返せば、オスカーは少しきまり悪そうに。

「・・・・彼が前に店に来た時、様子がおかしかったから後をついて行って聞いたんだよ」
「・・・・・・・尾行の上に盗み聞き・・・・・やはり貴様ストーカーではないか。この犯罪者め」
「事実犯罪者の君に言われたくないよー!」

暢気な口論を続けながらも二人は唯無心に駆けていた―――





◆◇◆◇





何もかも、醜悪だ。
目前に立つ男は目つきも、笑い方も、邪な視線も、伸ばしてこようとする手の動きも、目的の為なら手段を選ばぬ心も何もかも。
母屋の座敷に通された青年は、黒い噂の絶えぬ代官、ガムランをキツく睨みつけ、余所を向く。ぎりと柔らかな唇を噛み締めた。
何故、自分はこんな最も嫌う男の元へと来なければならぬのか。最も嫌う卑劣な遣り様に乗らなければならぬのか。唯、
側に立っているだけで、同じ空気を吸うだけでそこから自分が穢れていくような吐き気にも似た不快感が込み上げてくる。

「そう、露骨に顔を顰めるんじゃないよ。綺麗な顔が歪んでしまうではないか」
「歪んだ心をした男に言われたくはないな」
「今日はまた、えらく強気だな。カーマイン=フォルスマイヤー卿?」
「・・・・・・妹を盾に取り、己の私欲の為だけに悪行の応酬・・・・そんな男に払う敬意などあると思うか」

ここに来ただけでも良しとしてもらわねば道理に合わぬ、とカーマインはガムランが伸ばしてきた手を扇子で払い除ける。
触れるのも嫌悪するかのような仕種に、常人ならば気を悪くするところだろうが、ガムランは唯、愉快そうに笑った。

「・・・・・これはこれは随分と生意気な・・・・いや気高い子爵だ。しかし、自分の立場というものを忘れていないか?」
「貴様こそ、立場ある人間がこのような悪行の数々、露呈すれば只では済むまい」
「そうだな、露見すれば私も捕まるだろうが・・・・、知っているか?立場ある人間というのは皆一様に金に弱い」

言って懐から束ねられた小判をちらつかせる。

「・・・・・・・・買収か。尽々卑しい奴だ」
「お褒めに預かり光栄と言っておこう。それよりも、そろそろ観念したらどうだ若君?」
「観念・・・・?私・・・・いや、俺は貴様などに屈従する気は毛頭ない!」
「ほう?では何故ここに来た。妹君はどうなってもいいのか?」

ガムランの追い詰めるような言葉にカーマインは冷たい視線を寄越す。

「妹には・・・・ルイセには指一本と触れさせるものか」
「だったら・・・・・お前が私を満足させてみろ」
「俺に遊女の真似事なんぞさせずとも、遊郭に行けば幾らでも相手をする者がいるだろう」
「分かっていないな。寄って来る者を相手にしたってつまらぬ。お前のように美しく、嫌がる者を好きにするのが愉快なんだ」
「・・・・・・・・この下衆が・・・・・・ッ!?」

ぐらりとカーマインの視界が揺らぐ。気づけば、一度払った筈のガムランの腕がカーマインの細い腕を掴んで、
地へと押し付けていた。先程以上に近くにある顔。背けたくとも、床に押し倒されていては上手くいかない。

「くっ、離せ・・・・!俺に触るな!」
「本当に威勢だけはいいなぁ、若君。愉しませてくれそうだ」
「・・・・・・貴様のような奴に好きにされるくらいならば・・・・・・」

必死に抵抗しながらも、押し退ける事が出来ずにいるカーマインは悔しげに呟くと、自らの舌を噛んで自害しようとするが
それよりも一瞬早く、ガムランがカーマインの着物を引き裂き、破れた布を紅い口腔へと押し込んだ。無理やり口の中に
詰め物をされ、舌を噛むどころか呼吸も侭ならず、カーマインの色違いの瞳には生理的な涙が浮かんだ。

「・・・・そう簡単に死なせはしない。玩具は大人しく弄ばれていればいい」
「・・・・・・・・・んー・・・・・っ!」

着物の袷を乱雑に開かれ、白く細い首筋を卑しく蛇のような長く滑った舌先になぞられ、組み敷かれた肢体は、嫌悪感に
涙し、身を震わせる。腕は押さえられて使えないものだから、せめて脚だけでもと抵抗の色を見せるが、気色の悪い感触に
身体が上手く動かせず、カーマインは結局ろくな抵抗が出来ない。何度となく、唸っても口に入った異物が邪魔するし、
声を出せたところでここはガムランの私邸。助けなど来る筈もない。抵抗も無駄にし続けても体力を消耗するだけだ。
ここは諦めた振りをして、油断したところをつくしかないのではと、白み始める頭の隅で考えるものの、それよりも先に
気が狂ってしまいそうでカーマインはどうしたものかと考える。ガムランに何をされようと、嫌いな男からの愛撫では、気分が
悪くなっても悦くなる事などない。それがせめてもの救いだった。こんな男に浅ましく縋りたくなどない。情事の最中とはいえ
冷え切った思考にカーマインは内心安堵していた。

「・・・・・・・本当に、強情な奴だな。口に詰め物をしているとはいえ、喘ぎ一つ上げぬとは」

広げられた服の袷から下賎な手のひらが、カーマインの胸元を弄るが、かちりと硬いものを感じ取って、ガムランは
眉根を寄せる。そして手に掴んだものを引っ張り出してみれば、それはまだ使われた事もないであろう、小型の刀であった。
何故、こんなものが子爵の懐にしまわれていたのか。少し考えればすぐに分かる。

「成る程、ここに来たのは抱かれる為でなく、隙を見て私を殺すつもりだったか」
「・・・・・・・・・・!」
「こんな小さな刀に、お前のような穢れも知らぬ坊ちゃんに私が殺せると思うか?」

酷薄に、細い身体の上に跨った男は哂う。そしてカーマインから奪った小刀を口に挟み、鞘から刀身を引き抜く。
それを片手に持つと、びりびりと着物を切り裂いていく。組み敷かれている青年は恐怖に竦んだ。ぼろぼろと大粒の涙を
零し、内心で必死に助けを求めた。誰が来る筈もない。分かっているけれど、恐ろしくて。不意に脳裏に今頃、牢獄で死刑を
言い渡されるのを待っているであろう罪人の姿が浮かんだ。銀髪に緋眼、常に血の香る男の姿。ルイセに彼が捕まったと
聞いてカーマインは一つの決心がついた。

初めはガムランの言いなりになろうかと思っていた。妾であろうと男娼であろうと惨めでも生きていれば、彼に会えるかも
しれないと思っていたから。けれど、彼は捕らえられ数日の間に殺される。二度と会えない。
ならば、生きていても仕方ない。だから、ガムランを殺めて、自分もその後自害しようと思っていた。
それなのに、それすらも出来ない。唯、泣いた。悔しくて仕方なくて。そうこうしてる間に、下賎な手が袴の腰紐にまで伸びて
きた。カーマインはぎゅっと目を瞑る。そして強く思う。助けてと。心の内で必死にアーネストの名を叫んだ。その瞬間。

ばあん

凄まじい音を立てて母屋を閉めきる襖が蹴破られた。当然、部屋の真ん中に陣取っている二人の視線はそちらに行く。
双方とも開け放たれた空間に有り得ぬ姿を認め、両眼を見開く。特にカーマインは零れそうになるまで瞳をこじ開けた。
涙が伝い、次いで服を剥ぎ取られ、男に組み敷かれるなどというあられもない姿である事を思い出し、恥ずかしさに頬を
朱に染め上げる。ガムランがのそりと上体を引き上げれば、余計に恥ずかしい姿を晒すはめになり、カーマインは破かれた
衣を集めて肢体を覆い、自分の腕で抱きしめた。少しでも露になった上半身を隠すように。それを今襖を蹴破って侵入して
来た男は、無言でズカズカと歩み寄ってくる。

「・・・・・貴様、一体どうやって入って来た。しかもお前は先日捕らわれた極囚ではないか!」

立ち上がりガムランが叫べば、その極囚たる男、アーネストは鼻で笑った。

「貴公にそのような事を言われるのは心外だな。姦通罪に値するのではないか?」
「喧しい。貴様こそここにいるという事は牢破りをしたのだろう。罪に罪を重ねる大罪人が、何を言う」

言い争ったところで意味はない。ガムランは自身の私邸ならば有利なのは自分だと、手を打ち合わせ「出合えー」と
兵や部下を呼び寄せるが、アーネストは表情を全く変えない。それどころかガムランさえ無視して床に蹲るカーマインへと
近寄ろうとする。

「待たぬか、何をする気だ貴様。それより何故兵が出てこない・・・!?」
「貴公の手駒ならば今頃、奴にやられているだろうな」
「奴、だと」
「・・・・・・・俺の連れだ。腕だけは立つ、な」
「なっ!?」

驚きも露にうろたえる男に蹴りをくれてやる。傷に障ったがアーネストは気にしない。ガムランは突如訪れた予想だにしない
強い力になすすべもなく弾き飛ばされ、壁に強かに打ちつけられた。その横を掻い潜るとアーネストはふわりと、カーマインより
預かった羽織を彼へと被せて、口に詰められた布を取り出してやる。

「あ、アーネスト!?」
「・・・・・・すまないな。もう少し早く来れていればこんな目に遭わせる前に助け出せたというのに」

囁いて、細い身体を抱き上げる。まるで人攫いのように、軽々と。歩きながらも、先程の蹴りでどうやら開いたらしい傷口から
止め処なく血が滴るがやはり気にしない。また強く血が香る。カーマインは抱き上げられより強く感じ取るその香に安堵すら
覚えていた。不思議な感覚。自分で自分がよく分からない。しかし、この腕の中はガムランに押さえつけられていた時と打って
変わってとても心地よい。安心してまた涙が零れた。

「・・・・・・何を泣いている」
「・・・・だって・・・安心、して・・・。それより、何故ここにいる。捕まったんじゃないのか」
「ああ、そうだ。だが、脱獄した。どうせ極刑は決まっていたんだ。脱獄したって罪の重さはそう変わらない」
「でも、だったらどうして逃げずにこんなところに・・・・」
「俺を脱獄させたおせっかいな奴が教えてくれたんだよ。お前がそこの代官に目を付けられていると」

もう奴の方も片付いているだろうとアーネストは言う。

「奴って誰?」
「お前も知っているだろうが・・・・オスカーという普段は呉服屋をやってる忍びだ」
「忍び・・・・呉服屋ってあの、オスカーが!?」
「驚くのも無理ないが。隠密機動の者はその素性を隠す為に別の姿を持っている事が多い」

だから、別にお前を騙したわけではないと一応にフォローを入れつつ、壁に頭を打ったのか、気を失っているガムランを
一瞥する。緋色の瞳が穢れたものでも見るかのように鋭く細められた。

「・・・・・全くろくでもない奴だ。こんなにも人に殺意が沸くのは初めてだ。・・・・・が、裁くのは俺ではない」
「・・・・・・・・・?」
「こいつは今までろくな事をしてない。証拠はオスカーが持っている。
それを奉行所にでも突き出せば、すぐさま上様が裁いて下さるであろう。多少腹の虫が好かんが・・・まあよしとしよう」
「・・・・・・・・それはいいけれど。何故、アーネストは俺を助けに来たんだ。そんな事をせず、逃げればよかったのに」

アーネストの肩の上でカーマインが問えば、アーネストは酷く不服そうに。

「俺が助けに来ちゃ悪いのか?」
「・・・・・・そんな事ない!凄く・・・・嬉しいけど・・・・でも理由が分からない」
「嫌いな奴や何とも思っていない者をわざわざ危険を冒してまで助けに来るほど俺はお人好しじゃない」
「・・・・・・・・・・・え?」

あまりに淡々とした口調で言われてカーマインは言われた言葉をそのままの意味に受ける事が出来ない。しかし尚も
アーネストの言葉は続く。

「俺は、お前の名しか知らない。お前の事は・・・・何一つ分からない。それでも愛しいと思う。だから、助けた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・ッ」
「男が命を懸ける時は、誇りの為か、愛しい者を守る時だけだ。覚えておけ」

やはり抑揚もつけず、サラリと言われカーマインは唯、瞳を見開く事しか出来ない。そんな彼に焦れたのかアーネストは歩みながらも
カーマインを見遣り、催促するように問う。

「返事は何もないのか」
「・・・・・・・・・・・え」
「お前は、俺を何とも思っていないのか?」
「な、違う・・・。俺は・・・・・・」

何事かを口にしようとするが何度も口篭もる。そうこうしてる間に、どうやら向かってくる兵を倒したのか黒装束のオスカーが
疲れきった顔をしつつ寄ってきた。

「全く、面倒な事押し付けて・・・・・・」
「煩い、こんな怪我をしてるんだ。少しは労われ」
「あ、カーマイン・・・・また凄い格好だけど・・・・まさか間に合わなかった、何て事はない?」
「あ・・・・オスカー。忍びって本当だったんだ。えっと君がアーネストを呼んでくれたんだってね、有難う」

我が身を労わるように心配してくれるオスカーにカーマインは微笑んで返すが、内心はアーネストの言った言葉に囚われている。
愛しいと言ってくれた。名前しか知らないような自分を。追われる身なのに、大怪我をしているのに助けに来てくれた。それだけで
胸が一杯になる。返事なんて聞かれても何から答えればいいのか分からない。上手く口に出来そうにない想いを、ぎゅうと
彼の身体を抱き返す事で示せば、ふわりと小さくアーネストが微笑む。当然、カーマインの頬は上気する。

「ちょっと、僕を無視して世界作らないでよ」
「・・・・・・お前、少しは気を利かせろ」
「何ー。僕がいなかったらカーマインの危険すら知らなかったくせに!」
「いいから、お前はさっさとそこの男を連行するなりしろ。俺がするわけには行かないんだ」
「はいはい、大罪人のアーネスト=ライエルさん」

しっしとオスカーを払いつつアーネストはカーマインに問う。

「お前はこれからどうするつもりだ。家に帰るのか・・・・?」
「いや、初めは・・・・死のうと思っていたから。そんな書置きもしてきたし、帰れない」
「・・・・・・・・・・ならば、俺と共に来るか?追われる身ではあるがな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・いいのか?」

まさかそんな話が出るとは思わず、カーマインは目を丸くした。対するアーネストも実は半分冗談のつもりで言ったので、
乗り気な青年に驚いていた。

「お前、俺といては命を狙われる事もあるのだぞ?それに以前の生活は出来よう筈もない」
「いい、それでも。例え日常に戻っても、遠い貴方を想ってばかりの日々はとても辛いから」
「・・・・・・・・・・・・・お前」
「初めて会った日から、ずっと貴方に逢いたいと思っていた。
逢えない日々は辛いとしか言いようがなかった。再会出来てとても嬉しい」
「・・・・・・・・・・・・・俺もだ」

ぎゅうと強く抱きしめあう二人の背後で、床に伸びたガムランを縄でこれでもか!というほど縛り上げ、黒装束も脱ぎ、
中に来ていた着物姿になったオスカーは引っ立てる準備をしつつ低く漏らす。

「まったく・・・・そういうのは誰もいない時にやってもらいたいものだね」

腹いせに今縛り上げた男に蹴りを入れつつも、オスカーは後ろの別世界に耳を傾けぬよう、視界に入れぬよう奮闘した。
その後結局、アーネストはカーマインを連れて国外へと姿を晦ませる事に決め、オスカーはガムランの今まで立場をフルに活用し
如何に国に泥を塗る行為をしてきたかを奉行所に告発した。当然、ガムランは厳罰に処され、その後オスカーはまた呉服屋に戻る。
フォルスマイヤー家は大いに荒れたが、兄の書置きに家を任せると告げられた妹のルイセが仕事尽くめで滅多に家に戻らぬ
母と協力し何とかきり盛って行く。皆が皆、日常に戻りつつある頃、遥か遠い地では、緋色の志士と、漆黒の美人が仲良く
連れ立って旅をしているとか。嘘か真か分からぬ風の便りだけが、平穏な世界に流れ着いていた。




花が香り、血が香る。
それはとても皮肉な組み合わせ。
けれど、極端だからこそ惹かれあう香りは。
いざ触れ合えば、意外なほどに絡み合い。

香り、香る。風に流れてどこまでも。
潮騒のように揺れ動く心を抱え。
空気に微かな甘さを残してどこまでも―――





fin



終わり方微妙ー!そしてガムランさんが意外と弱っちかった(笑)
いえ、本当はもう少し彼も活躍させたかったですし、終わりももう少し
纏めたかったのですが・・・・・もう疲れたんです(コノヤロウ)
アー→主←オスな場合を書く事があれば今度はちゃんとプロットを
したいと思います(是非そうしてくれ)

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