茨姫の棺








あまりにも優しく微笑う人だから。

いつもその白い面には翳りが帯びているから。

だから。

この人は独りにしてはいけないんだって思った。

独りきりにしたら、悲しい事も悲しいと言う相手もいない。

嬉しい事があってもそれを伝える事も出来ない。

そんなのは、寂しいから、悲しいから。

だから。

アタシが側にいてあげなくちゃ、ならないの。




それは。

本当の気持ちを隠した言い訳にしか過ぎないけど―――







Act5:優しすぎる夢







雨が降る。視界も利かぬほど激しく。それは全てを見えなくするかのように。
止む気配もない豪雨の中、淡いオレンジの光がふわふわと漂う。眼を凝らせばその光の中心には小さな人影があり、
雨粒に強かに打たれながらも懸命に空を飛んでいる。桃色の短い髪は濡れて重みを増し、羽も雨による打撃でよれよれに
なってしまっていたが、それでも留まる事を知らないかのように、ただひたすら前を目指していた。

「あ〜、もうやんなっちゃう!こんな目に遭ってまで会いに行くんだから、一発ぐらい蹴らせなさいよ〜!」

頬を伝う大きな雫を拭いながら小さな人影はやや傲慢ともいえる言葉を吐き出す。しかしその顔つきはどこか弱く、
不安に飲み込まれてしまいそうで。その様はあたかも強がっていなければ折れてしまいそうなそんな危うさを髣髴とさせる。
更に雨足が強くなり、流石にこれ以上の強行軍は無理かと小さな身体は付近に生い茂る木々の隙間に身を置いた。
はあ、と凍えた手のひらに息を吹きかける。何度繰り返しても身体の冷えは取れなかったが。

「・・・・・何やってんだろうなアタシ」

小さく呟く。腰掛けた木の枝の上でぷらりと幼い子供のように足を揺らめかせた。実際彼女は生まれて半年も経たぬ
幼子同然ではあるけれど。周りは視界が利かないがそれでもただまっすぐに目的地へと蒼い大きな瞳を向ける。そこには
強い意志と、それと真逆の怯えが浮かんでいた。細い眉に皺が寄る。小さな肢体が寒さだけでなく震えた。

「・・・・アタシを置いてくなんて、いい度胸じゃない・・・・馬鹿カーマイン・・・!」

本人が耳にすれば流石に眉間を顰めそうな台詞を吐く。しかし、小さな顔に浮かぶ表情は儚げで痛ましげで、そしてどこか
切なさが付き纏うから、きっとあの青年ならば、カーマインならば翳りを帯びた笑みを浮かべて許してしまうのだろう。
そんな事を思いながら小さな人影、ティピは溜息を吐く。

「・・・・・早く会いたいような、会いたくないような・・・・変な気持ちぃ・・・・」

おかしいね、カーマイン。自嘲気味に紡がれた最後の弱々しい声音は、轟々と地面を弾く雨音に掻き消された。






◆◇◆◇






「・・・・・・・・・・・?」

赫絨毯の敷き詰められた豪奢な回廊を歩く黒髪が不意に振り返る。金と銀、相反する輝きを封じた両眼が大きく見開かれた。
彼の前を歩いていた男も不思議に思い、立ち止まる。白銀の髪に、それと同じくらい白く不健康な顔色、そして血よりも深い
緋色の瞳。それが自分に背を向けて後方を見遣っている黒髪へとまっすぐに向けられた。

「どうした、カーマイン・・・?」
「・・・・・・・・いや、何でもない」

名を呼ばれてカーマインは前を向く。少々、呆然とした表情を浮かべていたものの、一つ瞬きをすればすぐに元の毅然とした
顔つきに戻る。脇に抱えた書類を抱え直し、振り返った際に乱れた前髪を手櫛で整え、小さく笑う。

「何か、聴こえた気がしたが・・・・気のせいだったようだ」
「・・・・・・そろそろ、向こうが恋しくなったのではないか?」
「・・・・・・・・アーネスト」

揶揄るような言葉を吐くアーネストへカーマインは咎めるような視線を送る。それにアーネストは愉快そうな笑みを返す。
更にカーマインの眉間へ皺が寄ったが、アーネストは特に気にした様子もなく、クルリと踵を返し、元より目指した方向へ
足を踏み出した。翻る紅蓮の長い服の裾を目に留めたカーマインも続いて歩き出す。

「・・・・・帰りたければ、帰ってもいいんだぞ?」
「・・・・帰れるわけがないだろう。いや、帰ったところで俺は・・・・俺の身体はもう・・・・・」
「皆まで言うな。ただ、お前を試したかっただけだ・・・・自虐の言葉は、要らない」

振り返る事なく、前を行く足を留める事なく、アーネストは言う。抑揚の一つも付かぬ、ともすれば無機質に響く声。
それでも彼の本質を知っているカーマインは微笑って受け入れた。しかしその笑い声に不意に不自然な噎せ返りが混じる。
カーマインは咳き込むと前屈みに胸を押さえた。

「・・・・・ッ、カーマイン!?」

咳による体動に揺れる背に、アーネストの手が添えられる。労わるように背を擦った。それと同時、普段はそう顔色さえ
変えぬ仏頂面が大きく顰められる。それも当然。カーマインの身体を蝕むものの事を既に耳にしていたから。

「・・・・お前、まさか・・・・っ」
「・・・・ッ、・・・・違、う。風邪を引いただけ、だ・・・・」
「・・・・・・・・・本当だろうな!?」

未だに咳を交えつつ話すカーマインにアーネストは荒く問う。カーマインは笑顔で自分の死期が近い事を告げるような人間だから。
どんなに穏やかな微笑を湛えていても、普段と変わらぬ表情でも、誰かを気遣いながらならばカーマインは自虐の言葉を紡げる。
嘘を吐く事が出来る。だから心配になる。今紡いでいる言葉も嘘なのではないかと。

「・・・・・少し、休めばすぐ・・・よくなる。だから、へ・・・きだ」
「・・・・・・・・・・・嘘だったら、承知せんぞ」
「・・・・疑り深いな。君は・・・・俺を信じると言ってくれただろうに」

ふわ、と微笑みカーマインはうっすらと浮いた額の汗を拭うと、支えるアーネストの腕から身を離す。
一度離れてからは、カーマインの咳は収まり姿勢も芯が貫いたようにまっすぐなものとなる。その様からはついさっきまで
咳き込んで苦しそうにしていた痕跡は見受けられなかった。

「もう、平気だ」
「・・・・・休んでいろ」
「もうよくなった、必要ない」
「必要ないわけがあるか、風邪なのだろう?」

拒むカーマインの腕をぐいと引っ張るとアーネストは今来た道を引き返す。手を離そうと足掻く細い腕を逃さないように
力強く握り締めた。交互に差し出す足は幾分カーマインに合わせて歩幅が抑えられていたがそれでもかなりの早足。
カーマインは引き寄せる強さに半ば引き摺られるようにしてアーネストの後を付いていった。







◆◇◆◇







「寝ていろ」

ぽいと数日前に与えられた城内の自室の寝具にカーマインは投げられる。反抗される前に厚手の毛布を覆い被せ、
身体を押さえつけるとアーネストはカーマインが小脇に抱えていた書類を奪って部屋から出て行こうとした。

「待て、アーネスト!」
「・・・・・・・大人しくしていろ。今は平気でも・・・・あの件もあるんだ。用心に越した事はない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

あの件、自分の身体と合わない創造主の波長の関係で身体機能が悉く狂い始めているという事を出されるとカーマインも
強くは出れない。確かに、無理をすればただでさえ短い生命が更に縮む可能性もある。そうなれば、もし命を縮めた時、
いくら狂った時は手に掛けてくれると確約したアーネストも無理をするカーマインを止められなかった事で自分を酷く責めるだろう。
それを分かっているからこそ、カーマインはアーネストに従わざるを得なかった。

「・・・・・・・後で様子を見に来る」
「気にしなくていい・・・・大した事はないんだから」

言ってカーマインは軽く目を閉じる。それを確認してからアーネストはドアノブを開いて外へと出て行った。
アーネストの足音が遠ざかるのを聞き取ってから、カーマインは閉じた瞼を引き上げる。ついで糸が切れたかのように
額から汗が噴出した。咳が出る。表情には苦悶の色が濃厚に落ちていた。

「・・・・・・っは、・・・・まさか・・・こんなに早いとは・・・・・」

室内にいるのが自分だけだから吐ける言葉。カーマインは息を弾ませ、なるべく咳が外へ漏れぬようシーツに唇を押し付ける。
毛布も頭から被り、込み上げてくるものを懸命に堪えた。そしてアーネストの目の前でこうならなくて良かったと内心で呟く。
非常に危ないところではあったが・・・・・。

「・・・・・・くっ・・・・・やはり、ルイセが歯止め・・・・だったか・・・・」

自分の予想以上に病み始める身体。その理由がルイセから離れたからだとカーマインは理解していた。否、正確に告げるなら
グローシアンから離れたからだ。ルイセの強大なグローシュは常にゲヴェルの波動を遮断していた。そのおかげでカーマインは
有害な主の気から逃れられ、身体を蝕む拒絶反応もとても緩やかなもので済んでいたのだ。しかし今ここにはグローシアンは
いない。しかも主との距離が狭まっている。身体に取り込む波動は以前の数倍以上だろう。だから、急速に身体が病んでいく。
今、止まらぬ咳も風邪から来るものなどではない。その証拠にトプと口の端から赫い雫が一筋軌道を描いた。

「・・・・・内臓まで・・・・やられたか」

とてもじゃないがこんな事はアーネストには『言えない』。いつか死ぬだろうとは知っていてもそれがもう一月持つか持たないかの
瀬戸際だと知れたら心配性な彼は何をするか分からないから。だから、彼の前ではカーマインはひたすら平気な振りをする。
笑顔を貼り付け、汗を押さえ込み、咳を飲み込み、背筋をシャンと張って「大丈夫だ」と嘘を吐き続ける。無駄な足掻きだと誰かが
笑うかもしれない。それでもいいとカーマインは思う。ただ、彼を苦しめる事だけはしたくない。だから一人きりになるまで
気を張り続ける。ボロを出さぬようにと。そこまで思考を巡らせ、カーマインは不意に眠りに誘われた。それは眠りというよりは
気絶に近い形ではあったが―――






◆◇◆◇







こつこつと。遠くで小さな音がし、カーマインは沈んだ意識を引き上げた。
初めはアーネストが戻ってきたのかと思ったが、それにしては音の発生源はドアでなく、窓だ。不思議に思ってカーマインは
ゆるりとそちらを見遣る。外は雨が降っていた。そしてその雨の中、小さな淡い光が窓に体当たりをしている。カーマインの
色違いの双眸は大きく見開かれた。

「―――ティピ!」

弱った身体をベッドから跳ね上げたカーマインは窓辺に寄り、小さな身体を室内に招き入れる。すぐさま、濡れた
身体はカーマインの胸へ一直線に飛び込んできた。それを受け止めつつカーマインは酷く困惑した表情を浮かべるが、
先にティピの身体を拭くのが先かとハンカチをポケットから取り出し、髪や身体を拭いていく。

「・・・・・何でお前がこんなところに・・・・」
「何でって、そりゃ・・・アンタを一発蹴る為でしょ!」
「・・・・・・・・・・・・・・そう、か」

ティピの身体は拭き終えたが、服は濡れている。しかし、相手は小さいとはいえ女の子である為服を脱がすわけにもいかない。
カーマインは先ほどとは違う困惑に眉根を寄せた。それに気づいたティピは「いい」とだけ言って、取り敢えずハンカチの濡れて
いない部分を探り出してマントのように羽織る。

「・・・・・蹴りに来たならさっさと蹴るなりして帰れ」
「・・・・・・・邪険にしてくれるけど、アタシかれこれ一週間は空飛びっぱなしな上、びしょ濡れなんだけどぉ!?」

それでも追い返す気!?とカーマインはティピにキツく睨まれる。ティピは小さくて顔も愛らしいが怒ると結構迫力のある
顔になる。雰囲気も威圧的でにじり寄るかのよう。カーマインは調子を崩され、どうしたものかと押し黙った。

「・・・・・なら休んで、雨が止んだら帰れ」
「レディに向かって言う台詞がたったそれだけなワケ?」
「レディとして扱って欲しいのなら少しはおてんばを直せ、じゃじゃ馬が」

言って、ティピの濡れて質量の増した髪を指先で撫でる。カーマインは出来うる限り、仲間を裏切った手前周りの者に冷たく
接しようと思っていたのだが、どうもティピ相手だとそれも上手くいかない。小さいながらに彼女がいつだって一生懸命だから
なのだろうけれど。

「・・・・・アンタ、何でアタシを置いてったのよ」

ぽつっと彼女らしくなく小さな声音で紡がれた言葉が意外でカーマインは瞠目する。普通なら「何で裏切った」と訊くだろうに。
その言い方ではまるで裏切った事に対して怒っているわけではないのだと言っているように聴こえる。カーマインは首を
目に見えて大きく傾げた。

「・・・・・変な事を聞くな・・・?」
「べ、別に変じゃないわよ!アタシとアンタはいつも一緒にいなくちゃなんないんだから!!」
「それは母さんの言いつけだろう。無理して守らなくても・・・・」
「違う!マスターに言われたからじゃない!!アタシは、アタシの・・・・っぅ!!」

急にティピが口篭もる。ぷいとそっぽを向いた。益々珍しい。彼女は口から生まれたのではないかと失礼な事を思ってしまうくらい
口が達者なのに。こんな簡単に押し黙ってしまうなどと初めてではないかとカーマインは思う。そんな彼の視線に気づいて
ティピはばつが悪そうに先ほどとは違う言葉を続けた。

「それより!訊いてないわよ!何でアタシを置いていったの!」
「・・・・それは、お前が・・・・お前まで裏切り者呼ばわり、させられは・・・しないだろう」

本当ならばここは「お前が邪魔だから」などと冷徹な台詞で切り返すべきだった。頭では分かっているのにカーマインは素直に
答えてしまい、そんな自分に酷く戸惑う。体内で狂っていく感覚が思考を奪う。正しい判断が出来ない。息が、乱れる。
再び込み上げてくる吐血感にカーマインは口元に手を当てて押し込もうとした。

「・・・・・カーマイン?」
「・・・何でも・・な・・ぐっ、・・・・湯を、用意するから・・・・身体を温めるなりなんなり、しろ」
「ちょ、アンタ何て顔色してんのよ!そんなのいいから寝てなさいよ!」

カーマインを見上げながらティピは大声を出した。それを咎めるようにカーマインは小さな少女の口元へ指先を持っていった。
しっ、と一言口にして、湯を用意しに踵を返す。その態度は一見すれば自分の蒼醒めた顔をティピの目から隠すようで。
ティピは得体の知れない不安に駆られた。

「・・・・・・アンタ、まさか・・・・病気、なの・・・・?」
「・・・・・・・・・・・違う」

言い差し、いっそ病気ならばよかったとカーマインは思った。病気ならば進行を遅らせる薬もあるし、上手くすれば治る可能性も
あるから。しかし自分の身を孕んでいるものは、もう例えグローシアンに主の気を遮断してもらっても抑えられない。もちろん薬など
あるはずもない。待ち構えているのは、自由を束縛された人形のような終わりだけ。自嘲が漏れた。それでも手の動きを
留めない。カーマインがしきりに身体を動かしたがるのはそうでもしないと身体が凝固してしまうような気がしていたから。
常に動かしていないと、予定より早く身体機能が停止してしまう危機感があるから。だから、体調が悪くとも仕事を抱え込もうとし、
やらなくても良い事をしようとする。それで逆に命をすり減らしている事に薄々勘付きながら・・・・・。

「・・・・ほら、洗面器に湯を張ったから・・・・こっちは死角になるから、身体を温めろ」
「ちょっと待ちなさいよ。病気じゃないのにそんな顔色・・・・変よ」
「・・・・・・・・お前には、関係ないだろう」

俺がどうなろうが、とカーマインが言った瞬間、ティピは差し出されたカーマインの指先に思いっきり噛み付いた。
カーマインが若干眉を顰める。しかし怒り出しはしなかった。ただ、静かに彼女の様子を眺めている。

「・・・・・気は済んだか。もっと強く噛んだっていいぞ」
「・・・・・・・何で、怒んないの。何で・・・・こんな血が出てるのに」
「・・・・・俺を許せないなら指を噛み切ったっていい。どうせ、差して必要もない」
「何言って・・・・・!」

再び覗き込んだカーマインの綺麗な顔はいっそ醜いほど歪んでいた。痛ましげに眉根を顰め、しかしその痛みの表情は決して
指先の傷から来るものではない。精神的な、痛みの現れの表情。ティピは二の句が継げずにいた。

「・・・・・お前、ちゃんと帰れよ。お前が帰らないとルイセとか・・・・心配するだろうから」
「アンタの事だって、皆心配してるよ!」
「・・・・・・・知ってる。連中はお人好しばかりだ。こんな俺でも・・・心配する事くらい判るよ」
「・・・・だったら、何で帰らないの!」
「帰らないんじゃない、帰れないんだ。今更、戻っても彼らを苦しめるだけだ」

間もなく死ぬ人間・・・・いや、化け物を側においておくなんてあのお人好し連中が胸を痛めない筈がない。いつも笑顔で楽しそうな
彼らが好きだから、こんな自分でも心配してくれる彼らだから好きだけど、それ故に彼らを苦しめたくはない。だから、離れた。
それにもし自分が狂った時に、自分を止められる実力がある者は残念ながら彼らの中にはいない。少し前まではジュリアンや
リーヴスが互角の相手だったが、今は違う。主の気をダイレクトに受け力が高まった。だからリーヴスたちは相手にならない。
最早自分の首を落とすだけの実力があるのは、アーネストとリシャールくらいのものだった。この事実もまた、カーマインが
仲間の元へ帰れない理由だった。

「アンタ、それ・・・どういう・・・・」
「お前の大好きな彼らを死なせたくないなら・・・・俺を連れ戻そうなどと考えるな。・・・・死人が出るぞ」
「・・・・・・・・・・嫌だ!」
「・・・・・・・・・・・ティピ」

カーマインは溜息を吐く。これだけ言っても否定の言葉が返ってくるとは、と。対するティピは身体を震わし、目に涙を湛えながら
今も尚、血の滴るカーマインの指へと縋った。

「だって、アタシルイセちゃんたち大好きだもん!ルイセちゃん、アンタがいなくてどれだけ寂しいか知ってる!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ウォレスさんだって、アンタが怪我させたリーヴスさんだって皆アンタの帰りを待ってるんだよ?」
「・・・・・・・悪いが俺は何を言われても帰るつもりはない」

軽くあしらうように告げたカーマインにティピはぼろぼろと大粒の涙を零した。カーマインは無関心を装いつつ、内心では泣かせて
しまった事に酷く胸を潰す思いだった。居た堪れなくて、ここで優しさを見せるのは命取りになる事が分かっていて、ティピの
涙をそっと指先で拭う。次いで小さな頬に優しく口付けた。その頬はとても冷たいのに、涙だけが熱くて、更に罪悪感が募る。

「・・・・・・カーマイン・・・・・?」
「もう、お帰り。ここにいてもお前が傷つくだけだ」
「・・・・・・嫌だ、だって、嘘だもん」
「・・・・・・・・・・・・・何が」

カーマインは首を傾ぐ。ティピは迷いながらも何かを決心したように言葉を続ける。

「全部、嘘。ルイセちゃんたちがアンタを待ってるってのは本当だけど、でも・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
「本当は・・・・アタシが、アンタと離れたくなかっただけなの。だから、皆の気持ちを利用・・・したの」
「・・・・・・・・・・ティピ」
「だから、帰れなんて言わないでよ。もう、こんな・・・・嘘吐いて皆のところに帰れるわけが、ないよ」

思考が鈍っている。カーマインはここでティピを帰さねば、後で自分が後悔するのを分かっているのに、何故かそう言う事が
出来ない。呪縛されたかのように動きを止める。そして悪いタイミングでまた、咽喉元が競りあがった。今度は抑えきれない。
ティピが凝視している目の前でカーマインは身体を前のめりにして先ほど以上の血を吐き出した。

「―――カーマイン!?」
「う、ぐ・・・・・・は、ぁ・・・・・」

堪えきれず、地に膝を着く。ティピはただ信じられないものを見るかのように瞳を見開いた。何か言いたいのに、声は咽喉が
潰されたかのように音を成さない。

「・・・・・・くそ、何だって・・・・こんな、時に・・・・・・」
「あ、アンタ・・・・その、血・・・・・??」
「・・・・・・見られたからには、お前を帰す事は出来なく・・・・なった。ここに、いろティピ」
「・・・・・・・・・・・・・ッ」
「た、だし約束しろ。もう、俺が死ぬまで向こうには行くな。それから・・・この、事をアーネストには・・・・言うな」

息も切れ切れに言ったカーマインの言葉にティピはただ呆然とする事しか出来ないで。そしてゆっくりと判断力をなくしたティピは
頷いた。それを見遣って、張り詰めた表情をしていたカーマインは微笑む。

「・・・・・・いい子だ、ティピ。俺たちは、ずっと一緒だ」
「馬鹿、馬鹿馬鹿馬鹿・・・・!カーマインの馬鹿!!」

血を拭っているカーマインの手に抱きついてティピは幼子のように泣き続けた。その細い咽喉が、枯れるまで―――





◆◇◆◇






「・・・・・・カーマイン?」

ノックをして、アーネストが室内に入ってきた。手には水とグラスと薬、それに果物を乗せたトレイを持っている。
カーマインが風邪だと思っているのだからそれは当然の事だったかもしれないが。大人しくベッドに収まっているカーマインへと
ズカズカと歩み寄る。そしてふとカーマインの傍らで健やかな寝息を立てる見慣れないものを見つけた。眉間に皺を寄せる。

「・・・・・・何でソレがいるんだ」
「・・・・ティピは俺のお目付け役だから、だ」
「自分の立場を益々危うくするだけだぞ」

ふうと呆れるように息を吐いて、アーネストはカーマインの身体を起こさせると薬と水を差し出す。カーマインは所謂仮病を
使ったわけでどうしたものかと一瞬逡巡したが、どうせこのボロボロの身体に薬を飲み込んだところで何の影響もないだろうと
素直に受け取り、口に含んだ。そして一応の感謝を目の前の男に告げる。

「有難う、アーネスト」
「・・・・・・どういう気か知らんが、そいつを連れてていいのか?」
「妬いてるのか、アーネスト・・・・?」
「ば、違う!俺はただ・・・・・!!」

カーマインの、話題を逸らす為の戯言にアーネストは見事に嵌まり狼狽する。ここを深く追求されると自分の先ほどの状態を
アーネストに知られる事になる。だから思ってもいない事で揺さぶる。

「・・・・・知っている。君はただ、俺を心配してくれてるだけだ。分かってるから、そんな情けない顔をするな」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「有難う、アーネスト。でも心配要らない。ティピの事も身体の事も。だから君は君のやるべき事に専念してくれ」
「ならば、お前を看ている。仕事は終えた。だから、これが俺のしたい事でやるべき事だ」
「・・・・・・・・・・有難う」

騙している、罪悪感はある。しかし今はこの優しさに甘えていたいと思う。いつか、この身が終わる瞬間まで。この穏やかな時も
そう長くはない事を知っているけれど。カーマインは瞳を伏せ、ティピとアーネスト。双方の優しさを自分に刻み付けるかのように
身を委ね、本当に嬉しそうな微笑を浮かべていた・・・・・。







溺れるような優しさの中に身を浸して。

幸福を噛み締めるけれど、本当は誰より未来に怯えている。

花は艶やかに微笑んで、内部の腐りを押し隠す。

それを知る小さな従者は夢の中。

従者が目覚めたその時に、花はどんな顔をするだろう。

何も知らない優しい騎士は真実を知ればどんな顔をするだろう。

今はまだ、誰も知らない。

誰もが優しい夢の中。


―――目覚めた時、世界はどれだけ歪むだろう・・・?







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ティピ編という訳ですが、何故かアーネストが出張っています。アレ・・・?
そして今後はアーネストVSティピになりそうなヨカーン!何でこんな事に。
時期的にはカーマインがいなくなって九日後。アーネストがカーマインの秘密を知って二日後。
たった二日で話が急激に動いてます。ちなみにこの時期にオスカーたちは話し合いをしてます。
要するに次に話が動くのは翌日。カーマインが姿を消して十日後の事です。ああ、分かりづらい(殴)

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