今まで、自分のために生きてきた。 祈りなど無力なもの。 力だけがものを言う世界。 流した血は重く、奪ったものは果てしない。 そんな俺でも、思う事がある。 ―――君のためなら死んでもいい、と・・・。 君がため 不思議と、昔から虫の報せというものをよく聞く。嫌な事や悪い事が起きる前にはそれとなく予感がある。 便利といえば、便利だろう。心構えが出来るという点に於いては。今もふと、訓練の最中に小さな悲鳴のような音が 聞こえた。一瞬、気を取られて身体の動きが鈍る。鼻先を、訓練生の刃先が掠めていく。視界の端に、自分の 前髪が切られたのが見えた。 「・・・っぶね」 寸でのところで何とか避けたものの、危ないところだった。訓練をつけてやる側が一本取られてたんじゃ様にならねえ。 同席しているルーファスの視線が痛い。気を抜くな、という事だろう。訓練とはいえほんの少しの油断が命取りに なる事は重々承知している。これを機に嘗められたんじゃ世話ねえ。大尉としてスレイヤーとして軍の指導者として 一度たりとも敗北は許されない、それくらいは言われずとも分かる。威信の問題だ。どんなに優秀でどんなに輝かしい 実績を持つ人間でも、カリスマがなければ指揮者としては、不適格だろう。 「・・・!」 「足元への注意が足んねえぞ!」 態勢を立て直して、隙のある足元に払いを掛けてやれば、一瞬だけ押していたはずの訓練生が崩れる。 そのまま、武器を弾き上げ、喉元に斧の刃先を突きつけてやれば、降参の声が上がった。 「剣士といえど、体術の訓練を怠るな」 「は、はい」 「それからお前は剣筋が読みやすい。 もっと素振りの練習を積んでスピードを上げておけ」 組み合ってみて感じた癖や欠点を一人一人に教えるというのは、結構センスが要求される事らしい。 俺の場合、勘が頗るいいらしく、そんなに困る事はないが、他の士官は割りと苦労しているようだ。訓練場の隅に 用意されたタオルで汗を拭っていると、他から回されてきたのか、欠点やら改善点を聞きにくる奴らに群がられる。 面倒だとは思うが、この積み重ねが戦力強化に繋がるならと根気よく返していれば、先ほどの失態に対する お小言でも言いに来たのか、ルーファスまで寄って来た。 「ギャリック」 「・・・・何だよ」 「何だよ、じゃありません。何ですか先ほどのは」 「集中を乱したのは悪かったよ、次からは気をつける」 「そうして下さい。我々は兵の模範とならねばならぬ存在。如何なる時も気を抜いてはなりません」 特に戦いに於いては、と予想通り釘を刺される。ここで虫の報せがあったなどと言っても言い訳するなと キレられるのが落ちだろう。そこまで俺も学習能力がないわけじゃない。毎日のように鞭で殴られてりゃあ、多少の 取り繕いくらいは出来る。慣れというのは恐ろしいもんだ。 「んで、お小言はそれで終いか?」 「・・・・怒られたいんですか?」 「いいや、全然。少し考えてえ事がある。ここ任してもいいか?」 先ほどの悲鳴のような声が、よくよく考えてみると『誰か』の声によく似ていた気がする。 思い過ごしであればいい。だが、この手の予感で外した事は今のところない。嫌な、予感がする。 居ても立ってもいられないような。そんな緊張感が伝わったのか、ルーファスは怪訝そうながらも頷き。 「・・・構いませんが、珍しいですね」 「俺だって考え事くらいする」 「いえ、そうではなくて。貴方が訓練を後回しにするなんて珍しいですね」 「・・・・・そう、かもな」 そう言われてみれば、今までこうして訓練を後にした事などないかもしれない。いざという時、戦えない兵ほど 役に立たねえものはない。そんな事態を引き起こさぬよう、兵の管理は徹底してきたつもりだ。そして管理する者として 反面教師なんかにならねえように気はつけてきた。どんなに体調が悪くとも訓練に参加しなかった日はない。 自分の中で、優先順位が変わってきている。それを痛感してしまう。 「・・・この世に変わらないものなんて、何一つない・・・か・・・」 「え・・・?」 「何でもねえ、じゃあ任せたぞ」 変わってゆく事はいい事なんだろうか。自分にとって一番大切だったのは・・・国だった。この国に住まう者たちの 営みを守りたいと、友の背を仲間の背を守りたいと。そのために、生きてきた。人の命を奪ってでも、守ってきたのは、 生きてきたのは、そのためのはずだったのに。いつしか、変わり始めている。自分にとって一番大切なもの。 弱いくせに助けもろくに求められない、一人きりで足掻いている、変な奴。目を離すとすぐに何処かに消えてしまいそうな 危うさが、見てて痛々しい存在。そのくせ、幸せそうに微笑うその顔は、暖かい陽だまりの中にいるような気にさせて。 ずっと、笑っていればいいと・・・笑っていられるようにしてやれればいいのになんて、ガラにもない事を思わせる。 道端に咲く小さな花のように、ともすれば気づかず通り過ぎてしまいそうになるのに、一度気づいてしまうと目が離せなく なってしまう不思議な存在感を放つ、やっぱり変な奴。 「ま、それを好きな俺も十分変わり者か」 一番大切なものが変わってしまうと、自分自身まで変わってしまう。国の事が一番だった時の俺は、自分自身の 望みのためだけに、誰を待つ事もなく駆けていた。でも今は、ふとその速度を落とす事がある。後ろを振り返る事がある。 自分の後ろをついて歩いてきている奴が追いつくのを待つ事がある。転んでいたらすぐ手を差し出せるように、 道に迷っていたら教えてやれるように、呼ばれたらすぐ近づけるように、待っている。 誰かにヤサシクするという自分は、正直らしくないとは思う。それでも、時々だったら・・・らしくない自分をやってみるのも 悪くはないかもしれない。それでアイツは笑うから。馬鹿みたいに慕ってくるから。ヤサシクしてやろうという気になる。 踏みつけられないように、風に飛ばされてしまわないように、散ってしまわないように、盾になってやろうと・・・そう思う。 その末に、自分の命を失う事になっても多分後悔はしない。悔いは、ない。一番大切なもののためなら、きっと。 自分が変わってしまっても、死んでしまっても、その生き様を誰かに笑われても。 ―――後悔は、しない。 「・・・・で、どうすっかな」 あの予感が本物なら、放っておく事は出来ないだろう。小さな小さな悲鳴のようなあの音は、声を成さずとも 助けを請うているようだった。他の誰でもない、この俺に。俺個人に出来る事はほんの少ししかなくて、自分は救った つもりでも相手からしたら却って追い詰めるだけかもしれないけれど、それでもその声が俺を呼ぶなら、俺は――― 「・・・・俺は、」 言葉にするより先に、身体が勝手に動いていた。 ◆◇◇◆ 宵が訪れる時間、空の彼方には丸い月が昇っている。闇の中を駆ける奴に手を差し伸べるように。ぼんやりと、 けれど道を見失わないように、地面を照らす。全てに於いて優しいのか、全てに於いて無関心なのか、ただ照らす。 綺麗だと感じる程度には感性を持ち合わせている。遠いと思う程度には自分の存在の小ささを知っている。 それでも、そんな小さな存在にでも、ささやかながらに出来る事がある事を知っている。 だから俺は、こうして馬鹿みたいに駆けているのだろう。取り越し苦労かもしれない。分かっていても、駆けるのだろう。 見失ってからでは遅い事を、この身体は知っている。守りたかったものを、守れなかった痛みを知っている。 守りたいものを守れた時の言い知れぬ喜びを知っている。だから息を切らして駆けるのだろう。月の照らす道を辿り。 大地が枯渇し、丸見えとなった岩肌が連なる・・・出来ればあまり行きたくない場所へと。 「・・・・門前払いとか、されねえだろうな」 公務以外でグランゲイル軍が足を踏み入れるのをよしとしていない風情が、平和維持軍にはある。もちろん それは俺たちの側にもあるのだから、当然かもしれねえが。流石に行ってすぐ追い出されるなんて御免だ。 いざとなりゃ、無理にでも押し入るか。しかしそれでは国際問題にもなりかねない。非常に、非常に納得いかんが 最終手段は・・・頭を下げるしかねえか。全く以って遺憾でしかないが。俺が勝手をすれば、国に迷惑が掛かるだろう。 それにアイツにも皺寄せが行きかねない。 「・・・チッ」 力押しで全てが解決出来るわけじゃないのは分かってはいるが、出来る事なら維持軍には頭を下げたくはない。 もう、意地に近いがどうしても奴らに対する反発心はいつまで経っても拭えない。特にクライアスは生理的に受つけねえ ところがある。顔を見るだけで何故だか知らんが嫌悪感が込み上げてくる。特別何かされたわけではないが、 言動が一々癪に障る。同族嫌悪というのとはまた違う・・・むしろ考え方の相違、か?とにかく奴だけは気にいらねえ。 単にアイツのすぐ傍で守ってやれる距離にいるくせに、それをしないためか。本当なら、アイツをあんな奴の傍に 置いておくのも鼻持ちならねえが、下手に口出してアイツの居場所をなくさせるような事もしたくない。 もっと、器用に生きられればよかった。もっと上手く立ち回れれば、よかった。俺に出来る事はあまりにも限られていて、 歯噛みするばかりで、何が正しくて何が間違ってるのかも、ちゃんと分かってはいない。思いのままに動いているだけ。 失敗の数だけ成長するなんて言われたって、取り返しのつかない失敗をしちまったらどうすればいいのか。 何も分からないけど、だからって足を止める事も出来ない。そういう性分に生まれついちまったのが運の尽きか。 息が上がる。走った分だけ星が後ろに流れていく。どれだけの距離を走ったのか、汗が止め処なく頬を伝い始めた頃、 漸く目的地へと辿り着いた。途中まではキャリィを乗り継いでは来たが、随分と疲れた。少し、体力が落ちてるのかも しれない。戻ったらもっと鍛錬しようと心に決め、息を整えてから門番に取次ぎを頼む。 「・・・・夜分に悪いが・・・ゼオンシルト=エレイはいるか?」 「これはこれはギャリック大尉殿。ゼオンシルトさんならリオレー村に滞在してると伺っております」 「リオレー?何でまたそんなところに・・・」 「それは知りませんが・・・そういえば何処か浮かない顔をされてはいましたけどね」 声をかけた門番は、意外と気さくなのか俺の姿を見ても特に気にした風もなく、割と丁寧に返してくる。 しかし、気になる事が一つ。アイツが浮かない顔をしていた、という点。やはり何かあったか。 「とにかく、リオレーにいるんだな、アイツは」 「はい・・・私でよければ言伝を承りますが?」 「いや、これから直接リオレーに行く。必要ない」 「今からですか?夜間の移動は危ないですよ」 「・・・・自分の力量と分が分からねえほど、愚かじゃない」 皮肉のつもりの言葉にも、門番の兵は嫌な顔一つせず。 「それは失礼致しました。ですがどうぞお気をつけて」 「・・・・ああ。要らぬ心配だが・・・気にかけてくれた事には礼を言おう」 「いいえ。やり方は違くとも、貴方も平和のために戦っていらっしゃる戦士に変わりありませんから」 「・・・・・・・・・・・・・・」 妙な事を言う。だがその何処か柔和な雰囲気はアイツに似ている気もする。不思議と、悪い気分ではなかった。 しかし、のんびり話している暇があるわけでもなく、その足でアイツがいるというリオレー村を目指す。 剥き出しになった大地に囲まれた維持軍基地を更に北西に進んだ先にあるその村は、緑が茂っているというのに どうにも物悲しさが漂っている。近くに刑務所があるせいだろうか。活気というものが一切感じられない。 「・・・辛気臭い村だな・・・」 夜だからか余計に、そう思う。宿と病院以外、何もめぼしいものがない村。砂に埋もれたザーランバよりも 寂しく見える村。こんなところにいたら、つられて気分が滅入ってしまいそうだ。ただでさえ、基地を出る時に 浮かない顔をしていたらしいのに、一人でここにいるとしたら・・・アイツは大丈夫なんだろうか。心配になる。 とにかくこの村にいるというのなら宿の中を探せば見つかるだろう。薄ぼんやりとした照明の取り付けられた扉を開く。 外観通り、寂れた雰囲気が漂っている室内。カウンターでじっとこっちを見ている店主に歩み寄る。 「すまんが・・・ゼオンシルト=エレイという客は来てるか?」 「ああ・・・二、三日前に彼なら部屋を取りに来たが・・・荷物を置いたきり戻って来てないよ」 「戻って来てない・・・・?」 不審な話に、自然と眉間に皺が寄る。 「前金を払ってもらってるから構わないが・・・少し心配だね。確か、刑務所に行くとか言ってたよ」 「刑務所って・・・そこのベルシェイド刑務所だよな」 「ここら辺に刑務所はそこしかないから、そうだろうね。そのうち帰ってくると思うから部屋で待つかい?」 「いや・・・心配だしな、自分で見に行く」 多少は休みたいという気持ちもあったが、言葉通り心配だったのでそう告げてやると、店主は人当たりのいい笑みで 頷いた後、少し言いづらそうに続ける。 「・・・だが、そこは維持軍の管轄だし・・・兄さん見たところグランゲイル軍の人だろう。 中に入れてもらえるとは思えないけどなあ」 「だったら出てくるまで待つ。問題ない」 「そうかい。アンタがそう言うなら止めないが・・・外は冷えるからね。気をつけな」 「ああ・・・・」 まあ、確かに刑務所に部外者は通してくれないだろう。そうなれば待てばいい話だ。看守に呼んで来てもらう事だって 可能だろう。今はとにかく、元気がないというアイツの事が心配だ。行ったきり戻って来ないというのも妙な話だ。 「・・・・・・・・・・」 リオレーから少し歩いたところにある刑務所に着くと前を通りがかっただけで止められた。怪訝に思いながらも 中にいるだろう探し人を呼び出せば、看守の一人が呼びに行く。見上げた夜空の星が騒めく。風にそよぐ木々の葉擦れが ささやかなはずなのに煩い。扉の前の松明が、酷く煽られ、嫌な気分になる。何かが消えてしまいそう、な・・・。 その感覚が間違いではなかったと知るのは、看守に連れられ出てきたアイツの姿を見た時だった。 ギィ・・・ 重い音を立てて、扉が開かれると空いた隙間から僅かに中の青白い光が零れ出す。更にその奥から人影が現れ、 見慣れた全身赤が出てくる。俯き気味の顔色は決して良くない。宿に戻らなかった間、ろくに寝てなかったのか。 顔が、上がる。長い前髪に隠された表情が、少しずつ見えてきて・・・・完全にそれが目に入ると愕然とした。 浮かない、どころではない。もっと、絶望的な・・・表情。笑っているのに、笑っていない、死んだ表情。 いつもの陽だまりのような笑みには程遠い、見ていて痛々しい表情。そんな顔は今まで見た事がなかった。 いっそ、泣いてくれた方がマシだと思えるほどに・・・。 「・・・ゼオン・・・どうし・・・・!?」 明らかに様子がおかしくて、名を呼ぶといつかのようにその痩身は倒れた。気力の限界だったのか。 抱き留めた身体はぴくりとも動かず冷たい。まるで死人のように。看守が近寄ってきて手を伸ばすが、振り払う。 こんな状態になるまで放っておいた奴らが信用出来なかった。意識のない身体を肩に担ぎ上げる。 「・・・コイツは俺が預かる。お前らは自分の仕事でもしてりゃいいだろ」 「しかし・・・」 「いいから、触るなっ!」 再び伸びてきた手を、払う。 「お前らは・・・こんなに近くにいて聞こえねえのかよ・・・・」 「・・・・?」 「煩いくらい、聞こえてくるんだ・・・・コイツの悲鳴が・・・・・泣き声が・・・。 それが分からねえ奴らにコイツの事を任せられるか!」 返事を待たずに来た道を戻る。抱え上げた身体は以前よりもずっと細く、軽くなっていた気がした・・・。 ◆◇◇◆ それから、もうとっくに診療時間の過ぎた病院に担ぎ込み、夜が明けた頃、点滴を受けていたゼオンシルトが 目を覚ました。気を失う直前に見せた死んだような笑みを浮かべて。何があるとそんな表情をするんだろう。 痛いのに、笑ってるせいか。笑える状態じゃないのに笑っているせいか。胸を、抉られるような笑み。 笑顔ってのは本来、喜びを示す表情なのに今のコイツの浮かべる笑みは絶望感が漂っている。 「・・・どうしたんだ、お前・・・・」 「・・・・・・ぇ・・・・」 「俺に、会いたくなかったか?」 だからそんな表情をするのかと問えば、弱った身体で激しい否定が返ってくる。その事に多少は安堵しつつ、 いつまでも首を振り続ける頭をそっと押し留め、顔を上げさせればまた微妙な顔をしてきた。喜んでいるとは到底思えない、 何と言うか複雑な表情。主人に擦り寄る犬のような素直さがそこに感じられない。まるで別人を相手にしている気になる。 弱っているからじゃ、ない。人を寄せ付けない、雰囲気がある。拒絶にも似た。 「・・・何があった」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 「今更、隠すなよ。ちゃんと、聞いてやるから」 そのために、わざわざここまで来たんだから。少しは俺の意図も汲んで欲しいもんだ。 「隠さなくても、俺はもうお前が弱っちいのも、甘えたなのも、頼りねえのも、鈍くさいのも知ってる」 「・・・・・・ッ」 「それでも・・・分かってても、お前が好きだっつってんだ。今更何を隠す必要があんだ」 「・・・・・・でも、・・・・」 ここまで言ってやんのに、なおも言い淀む様子に流石に腹が立ってきて、泣きそうな面して泣かないのが癪に障って、 頬を強く抓る。左右に摘まれた頬は餅のようによく伸びた。 「〜〜〜〜〜ッ」 「はっきり言えっ。それから、泣きたいならさっさと泣け」 「いひゃい〜〜〜っ」 「当たり前だ、泣かす気で抓ってんだからな」 「〜〜ギャリックのいじめっこ〜〜」 「あー、そうだよ。いじめっ子だよ俺ゃあ。いいからもう・・・泣いとけ」 言葉にする勇気がないなら、泣けばいい。それで気が晴れるなら、俺を悪者にしてもいいから泣けばいい。 泣いて泣いて泣き疲れて、気を張れなくなったらいい。いつもの弱っちいお前が姿を見せればいい。 意地張って距離を置いてくるお前より、煩わしくなるほど泣いて甘えて懐いてくるお前の方が・・・俺は、いい。 「・・・・で、結局どうしたんだよ」 「・・・ほっぺた痛い」 「・・・・・・・・・・悪かったよ、ほら見せてみろ」 涙が収まりかけた頃、再度問えば強く抓りすぎたのか、少し赤くなった頬をゼオンシルトは恨めしげに指差してくる。 仕方なく、擦っている手を退けて様子を見てやると、僅かだが腫れていて・・・。 「あー・・・こりゃ確かに痛いわな。悪かった」 優しく撫でてやれば、不満げに尖らせていた唇が小さな吐息を零す。図体だけはでかい、子供みたいな奴だ。 でも、そんなコイツに癒されている自分も確かにいて。感謝と謝罪を込めて腫れた箇所に唇を寄せれば、より赤くなる頬。 いつも振り回されてんだから、これくらいの意趣返しくらいしたっていいだろう。悪戯に笑んでやると、照れていたはずの ゼオンシルトの頭突きを胸に食らった。 「うごっ・・・・・〜〜〜ッ、元気じゃねえかテメ・・・」 「だ、だってギャリックが笑うから」 「は?」 「わ、笑った顔が、綺麗だからっ」 「・・・・・・熱でもあんのか?」 突然変な事を言い出すものだから、額に手を当ててみるが、冷たくとも熱くはない。気が動転でもしてるんだろうか。 未だかつて笑顔が綺麗などと言われた事がない。相変わらず、変な奴だ。 「・・・・馬鹿言ってねえで、どうしたんだよ結局」 「・・・呆れない?」 「いいから、言ってみろ」 「・・・・・・・・・・それ、が・・・」 ずっと口篭っていたが、漸く何があったのか話し出したゼオンシルト。その内容を聞いていて・・・またかと思う。 どうしていつもコイツが犠牲になるんだろうか。反抗しないからか?否を唱えない奴は、いつだって使われる運命 なんだろうか。優しいというのは、どうしてこう損になりがちなんだろうか。ただ、自然に自分自身であるだけなのに・・・。 溜息が、零れた。瞬間、何故かゼオンシルトがびくりと身を震わす。呆れられたと、思ったのか。馬鹿な、奴。 「・・・・お前って奴は本当・・・損な性分だな」 「え・・・・?」 「嫌な事は嫌って言ってやれ。いつも『うん』って言ってりゃ相手もつけ上がるだろうが」 「別に・・・クライアスはつけ上がってるわけじゃないと思うけど・・・」 「はぁぁ・・・おっ前・・・だからお前はこき使われるんだよ。 敵を作りたくねえのは分かるが・・・、そのままじゃ敵作る前に自分で自分を殺す事になるぜ」 頼まれた事を断れねえって奴は大抵他人に嫌われたくないと思って何でも引き受けがちだ。そういう奴は、利用される。 人類性悪説なんてもんがあるように、人間ってのは基本的には利己的だ。他人を利用し、自分は楽して生きたがる。 利己的な人間にとって、嫌われる事を恐れている人間ってのは絶好のカモだろう。頼みを、断れないのが分かってるんだ。 利用して利用して・・・使えなくなったら捨てるんだろう。いとも容易く、まるで廃棄物のように。 「いいのかよ、お前は・・・『誰か』のために自分の大切なもの踏み躙られて、それでいいのか?」 「・・・・・・・・・・・・」 「俺だったら、御免だぜ。亡くした肉親の腹掻っ捌かれるなんざ」 「でも、・・・俺と同じような思いした人が救われるかもしれない・・・それでも、いいの?」 我侭を言って、と続いた言葉はあまりに痛い。それの何処が我侭になるんだろうか。何を教えられて、生きてきたんだろう。 誰かのためなら自分を犠牲にしなさい、とかそんな事だろうか。全く地に足着かぬ、奇麗事だけを聞かされてきたのか。 美しい言葉だけを聞かされて育った子供は、大概が世界で浮く。語り聞かされてきた理想と、現実とのあまりの相違ぶりに ついて行けず、上手く生きていけない。実際とは全く違う地図を渡されて迷う幼子のように。置いて、行かれる。 何処の世界に行っても、奇麗事だけでは生きてはいけないのに。 「・・・お前は、世間知らずにも程がある。『誰か』がどう思うかじゃねえ、偶には自分のためだけに考えろ」 「自分のため・・・だけ・・・?」 「他人の事考えて生きるなんて、もっと余裕のある奴がするもんだ。お前に余裕なんてねえだろ」 「・・・・・・うん」 頷く声は酷く弱い。まあ、すぐに考え方を変えられるわけもねえだろう。それは仕方のない事だ。そう簡単に 変えられるものなら、誰も苦労はしない。それでも、言葉は無意味じゃないだろう。だから、続ける。 「・・・自分勝手は決してイイコトなんかじゃねえよ、そりゃ。 でも、『誰か』のためだけに生きる事なんて誰にも出来ねえ。感情が、あるからな」 「・・・・・・・・」 「頭で、こうした方がいいと分かっていても、それを口に出来ないのは、感情が邪魔するからだ。 お前の感情は、何だ。母親を傷つけられたくない、違うか?」 肯定が、返る。 「・・・・大事な者が傷つけられるのは、苦しいだろ。例えその身が痛みを感じる事が出来なくても・・・。 肉親である、お前が痛いだろう?刃を突き立てられる度、お前の心が傷つくだろう?」 「・・・うん、うん。考えるだけで、息が、出来ない・・・。お母さ・・・可哀、そ・・・」 「そうだな。哀れだな。死後も使われる、というのは。だがこのまま・・・維持軍の管理下に置いておけば、 クライアスは諦めても・・・同じ事をしようとする奴は現れるぞ」 恐らく。いや、クライアスの言う事はまだ納得は出来る程度の話だが、もっとロクでもない使い方をしようとする奴は いるだろう。何人も冒してはならないはずの死人の平穏を奪おうというものは。そもそも、遺体を保存しておくというのが 間違っている。実験のサンプルだかなんだか知らねえが、死人は弔ってやらなきゃ、救われねえものだろう。 火で浄化し、土に返してやらねば、肉体という器に閉じ込められ、魂は天にいつまでも昇る事が出来ない・・・。 「・・・・もし、お前がクライアスの提案を断ったとしても・・・どちらにしろお前の母親の身体は刑務所に 安置されたままなんだろう?それで、いいのか。死人は弔ってやるのが、残された者の努めじゃねえのか?」 「それは、そう・・・だけど・・・俺の勝手でどうこう出来る事じゃないし・・・」 「だが、今後悪用されないとも限らない・・・。今のうちに手を打つべきじゃねえのか?」 「どう・・・やって・・・?」 縋るような紅い瞳が一心に俺を見つめてくる。純粋なその眼差しを正面に受けると、自分がどれだけ染まってしまったか 痛感してしまう。これから俺がコイツに告げる事は非常に酷な事かもしれない。コイツのように穢れを知らないタイプには。 それでも・・・・。 「・・・・簡単な、事だ。遺体を盗めばいい」 「!?」 「話し合いで、どうにか出来る事じゃねえ・・・多分。お前じゃ言い包められて終わりだ」 「でも、だって・・・それは・・・」 「ああ、これはワルイコトだ。露見すれば、お前は維持軍を追われるかもしれねえ。 だが・・・そうなった時は、お前の事は俺が面倒見てやる。俺がお前を守ってやる、必ず」 その覚悟が、ある。もう変わってしまったから。俺にとって一番大切なものは何か。それを守るためなら、 自らの命も賭ける覚悟がある。例え誰かに後ろ指指されようが、誰かに生き様を否定されようが、それでも。 「お前が、望まないなら、止める。お前の心からの決断なら、文句は言わねえ。 ただ、偶には後先も何も考えねえで、思うが侭に行動するのも悪くねえんじゃねえか?」 「俺、は・・・・」 「他人の事なんて考えなくていい。俺はお前の本心が聞きたい」 いつもいつも、言葉を飲み込むコイツの、本心が聞きたい。推測するだけじゃ、駄目なんだ。本当の声を聞かなけりゃ、 どうする事も出来ない。偉そうに説教してたって、明確な言葉を聞かなきゃ、俺も動けない。不完全な存在。 そんな俺でも、コイツのために何かしてやりたい。コイツのためなら、死んだっていい、そう思うから。 「ゼオン、お前はどうしたい?」 願わくは・・・この不器用にしか生きられない純粋な生き物に、自由を――― 思いは届いたのか、伸ばした手に震える細い指先が、重ねられた。 「―――決まりだ」 掴んだ手を、離す事なく、夜明けの森の中へと駆けた。 ◆◇◇◆ 「いいか、とにかくお前は姿を見られるわけにはいかねえ。だから俺が中に入る」 「でも、それじゃギャリックが・・・」 「少なくともお前よりは裏工作やらに慣れてる。それにいざとなれば・・・奴らの研究を公表すると脅す。 ま、それをやっちまえば平和維持軍自体が存続出来なくなるだろうが、な・・・」 瀕死の人間にしか行わなかったといっても、本人の了承なしに勝手に身体を弄った挙句、維持軍の野望のために 罪人の命を奪い、その罪を被験者に負わせた。そんな事が世間に露呈すれば、それらを行ったのがもういない アイザックだとしても平和維持軍に対する風当たりは強くなる事だろう。漸く新しい道を歩み始めたところに 水を差すようで悪いが・・・俺にとって維持軍は、どうでもいいものだ。本来そんなものがなくとも、自国の問題は 自国で解決すべきだ。奴らがどうなろうと知った事ではない。そう思うのは、俺が優しくないからだろうか。 「・・・・・・・・・・」 優先順位というものは恐ろしいものだ。あれば、有事の際に迷わずに済む。だが、最優先すべきものが 決まっている場合、それ以外に対し怖いくらいに冷たくなってしまう。維持軍の連中にだってそれぞれの生活があって、 それぞれに守りたいものもあるだろうし、志だってあるだろう。それでも、一番を決めてしまった俺にとって それらは本当にどうでもいいものだ。気にする事も、ない。 「・・・・嫌な奴だな、俺は・・・」 「え、何か言った?」 「いや・・・スリープを看守に掛けてくれ。なるべく騒ぎは起こしたくねえからな」 まあ、無理だろうが。それに・・・ 「とにかく、頼んだ」 「うん、分かった」 素直に言う事を聞くコイツが何だか物悲しい。そういう性格なのか、維持軍管轄の村で育ったが故にそういう風に 育てられちまったのか・・・。とにかくコイツの望みを叶えた上で、コイツに詮議が掛からないようにしなければならない。 そのために、自分の耳に付いている片方だけになってしまったピアスをゼオンシルトに悟られないよう、外す。 「・・・・・・・・・・行くぞ」 促し、ゼオンシルトの魔法の発動を待つ。射程圏内に捉えられた入り口の看守が術に掛かり、崩折れる。 それを確認し、重いドアを開ける。石畳で作られた床は思いの外、足音が響く。中に誰がいるかも分からないため 出来うる限り抑えるが、やはり多少は響いてしまう。牢の中に罪人がいないのが救いだった。ロミナの遺体を 運び出すまでは騒がれるわけには行かない。 「・・・・こっち、か?」 ゼオンシルトに教えられた道順を辿り、奥の方にある機械を弄れば隠し扉が開いた。中に入る。そこにはガラスの ケースが幾つも敷き詰められていた。そしてその中央に一つだけ、人が入っているものがある。これが、ロミナ。 ゼオンシルトの母親。近づいて顔を拝めば、目を閉じているとはいえ、その顔はゼオンシルトに良く似ていた。 柔和な、少女の顔。他人のために、若くしてその命を差し出した勇敢で自己犠牲的な女性。今にも起き出しそうな・・・。 「これを解剖しようってのか・・・悪趣味なこって」 それが、誰かのためになる事であっても・・・許しがたい事。何よりアイツが泣くだろう。そんな事は許せない。 ガラスに触れる。水圧に耐えうる分厚い造り。だが、言い知れぬ怒りに満ちた拳の前にそれはあまりに無力で。 力の限り殴りつけてやれば、ガラスに亀裂が入り、そこから中の水が溢れ出す。そして、その圧力に屈したそれは 激しい音を立てて割れた。安置されていたロミナの身体が水に押し出され腕の中に納まる。冷たい身体だ。 表情はまるで眠っているようなのに。触れてみれば、熱はなく、見た目以上に硬い。死人の、それ。 「もうすぐ、解放してやるから・・・」 聞こえはしないだろうが、耳元にささやき抱え直す。それから、予め外しておいたピアスを保存ケースの前に落とす。 これで恐らく疑いの目は俺に行くだろう。アイツではなく。そしたらアイツは居場所を失わずに、済む。 「・・・アンタの子は、必ず守るから・・・・安心して成仏しろよ」 死体に語りかけても返事なんてあるはずがない。それでも、何も言わずにはいられず、言葉にしていた。 NEXT 嗚呼・・・前後編のつもりが中編に・・・・(予定外) これを書いていてもう、キャラクター視点で書くのは止めようという気になってきました。 長えよ!(笑)ギャリさんたら色々考えすぎだよ、そういうキャラだったっけ?(違うよ) でもギャリさんは所謂筋肉馬鹿ではないのですよね。筋肉馬鹿だったらあの歳で大尉なんて なれないでしょうし。色々難しい人です。好きですが。後編はがっくり短そうです(コノヤロウ) |
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