CAUTION

この作品は過去の再録+αです。
また若干パラレル要素、暴力的な要素を
終盤で含みますのでお気をつけ下さいませ。






―――もしも、この夜がなければ。
全てが変わっていた。
そう、何もかもが・・・革命と始まりの夜。




十六夜の記憶




リーン・・・ゴーン
リーン・・・ゴーン

鐘が背後で鳴り響いている。
何処か、耳障りな。
月のない漆黒の空が視界を掠める。
何かの意図すら感じるほどの印象的な夜。

「――――――」

その中で何者かが言の葉を紡いだ。
深々と二度と忘れられない強さでそれは脳に刻まれていく。

まるで呪いのようだと。
紅い双眸を長い灰色掛かった睫で覆い隠しながら男は思った。
そしてそれを機に段々と男の意識は白いで行く。抗う事も出来ずにただゆっくりと。
身体が落ちていくような感覚に飲まれる。

妙な不安に駆られた。
それでもどうする事も出来ず。ぷつりと思考の全てが止まる。
いつしか僅かに余韻を残しながらも、不愉快な鐘の音も止んでいた。




◇◆◆◇ 


ローランディア王国の王都、ローザリアの更に西の奥に木々に囲まれた美しい街がある。
花が香り、穏やかな時が流れる平和な街『シア』には、その美しい街並みと、美術館や劇場など
娯楽施設が多い事が相まって観光客も少なくない。中でも他国からも数多くの人間が出入りするというのに、
良い治安を保ち続けているという点が人々の間で贔屓にされる大きな理由であった。

それもこれも領主の名君ぶりの賜物と言える。
このシアという街では、本当に争い事もなく、毎日のように平和な日々が繰り返されていた。
しかし。その平穏に一つの変化が訪れた。

「カーマイン様、大変でございます!」

街の北奥にある一際華美で豪奢な佇まいの屋敷の扉を憲兵が激しく叩けば、中から一人の青年が現れた。
この屋敷の主であり、領主である彼は、パチパチと金と銀の色違いの双眸を軽く瞬きながら、
息を切らして敬礼をしている兵と視線を合わせる。

「・・・・どうした?」

容姿だけならば、中世的で人並み外れた魔性と言える美貌に、線の細い体つきをしているために女性と
間違われる事も度々あるカーマインだったが、流石に声は男性らしくやや低めで耳に心地良い。
そんな思わず腰に響く美声で聞き返されてしまったら幾ら無骨な兵士と言えど平静ではいられない。
よって先ほど以上に慌てた様子で次の言葉を吐く。

「じ、実はその、少し困った事に・・・・」
「・・・だから、それが何かを聞いている」
「え、えぇっとその・・・・」

根気よく憲兵の説明を待っているカーマインではあるが、あまり要領を得ない目前の人物に対し、
多少困惑した様子で眉間に皺を寄せた。けれど慌てている憲兵にはその表情が不興を買ったように見え、
益々落ち着きを失う。結局口頭では上手く説明出来ないと思ったのか、彼は声を張り上げた。

「とにかく、此方にいらして下さい!」

そう言って駆け出していくその背を仕方なしにカーマインは追った。
状況は全く掴めなかったが、まあ見た方が早いだろうと苦笑して。



     ■ □ ■ 



「此方でございます」

そう言われて案内された場所は兵士たちの宿舎であった。一体何があったというのか、と
カーマインは首を捻る。すると先ほどとは違う憲兵がカーマインの前へと歩み出て来た。

「ご足労頂き申し訳ございません、領主殿」
「・・・いや、それは構わないが何があった?」

状況が飲み込めない旨を伝えれば憲兵は奥の部屋を指差した。

「実は行き倒れの者を保護しまして・・・」
「・・・・行き倒れ?」

この平和な街で。
珍しい、とカーマインは思わず口調に忍ばせる。

「はい、街と王都を繋ぐ街道で倒れていまして・・・それだけなら此方で預かれば済む話なのですが」
「何か問題でも?」
「はい、実はその者、どうやら記憶障害を引き起こしているようなのです」
「記憶・・・障害・・・・」

ぽつりと反芻する。

「自分の名前や、生活していくのに必要な知識は覚えているようですが、
何処の出身で何をしていたのかという点は全く覚えていないようなのです」

ほとほと困っていると憲兵は硬い表情に滲ませた。

「それは、大変だな。医者には診せたのか?」
「ええ、軍医に診せたところ一時的なものだろうとは言われたのですが・・・・」
「一時的、という事は治る可能性があるのか」

ふむ、とカーマインは口元に手を当て、呟く。

「何かきっかけさえあれば、すぐに記憶を取り戻すだろうとの事ですが」
「・・・とにかく、その人に会ってみたい。構わないか?」
「は、ではご案内致します」

憲兵は踵を返すと、奥の部屋へと歩を進める。その後ろをカーマインはついて歩いた。
四度ノックをし、声を掛ける。

「入るぞ」

憲兵はドアを開くと後ろにいたカーマインを促す。

「どうぞ」

カーマインはその言葉に素直に従い、部屋の中へと足を踏み入れる。
一瞬、鼻をツンと鉄錆の匂いが突付いた。

・・・・怪我をしているのか?

憲兵は何も言っていなかったが、そうでもなければ血の匂いなどするはずもない。
カーマインは不審気に眉を寄せる。

「・・・・すまない、起きているか?」

窓際で膨らんでいるベッドに向けて声を掛ければ、そろりと寝ていた人物が身を起こし振り返った。

「・・・・・ッ」

振り返った人物を見て、カーマインは一瞬色違いの瞳を瞠った。
滅多に見る事のない、希少なアルビノ。カーマインは今までこんなにはっきりと深紅の瞳をした人間を
見た事がなかった。白銀の髪と、瞳に全ての色素を持っていかれたかのように生白い肌が
よりそれを際立たせている。

同様にアルビノの男もカーマインを見て息を呑んだ。それも当然。アルビノ以上にカーマインの金と銀の瞳、
ヘテロクロミアは稀有で。この世界にただ一人と言われている。そのただ一人が目前にいれば誰だって
驚くだろう。だが、恐らくそれだけではない。男が驚いたのはカーマインの瞳の色だけでなく、
その人外を思わせる整いすぎた容姿のせいもあるだろう。

女性でも滅多に見ることのない、白磁の肌に三重の瞼、色違いの瞳を縁取る睫は頬に影を落とすほど長く、
唇は桜色で、さらりと揺れる濡れ羽色の黒髪が妖の彩をより際立たせている。
その美しさは男女問わず見惚れてもおかしくない。現に緋目の男は言葉を失くしていた。
二人して互いの瞳を凝視したまま暫く時が流れる。けれども。

「・・・あ、すまない」

先に気がついたカーマインは詫びを入れると、更に一歩ベッドへと近寄る。

「・・・貴方は王都への街道の途中で倒れていたそうだが、それは確かか?」

相手を刺激しないように気をつけながらカーマインは慎重に言葉を継ぐ。
それに対し男は小さく頷いた。

「そう、記憶がないと聞いたけれど・・・それはどの程度?
名前、故郷、年齢、職業、何処に行こうとして、どうして倒れていたか・・どれか分かる事は?」

矢継ぎ早な質問を受けて男は少し困惑しながらもよく通る低い声で応えを返した。

「・・・名前は・・・アーネスト・・・。下の名は覚えていない。年は二十二・・・だと思うが」
「他には?」
「・・・・・さあ。何処に向かっていたのかも自分が何者なのかも分からん」

返答を聞いて、確かにこれは困りものだとカーマインは思った。一つ溜息を漏らす。

「・・・そうか。そういえば、ここに入ってくる時血の匂いがしたんだが、何処か怪我でも?」

カーマインのその言葉にアーネストと名乗った男はそっと腕を彼の眼前へと突き出した。

「・・・・左腕か。利き手は?」
「・・・・両利きだ」
「そうか、ならそんなには不便ではないか。動けるか?」

それにはアーネストは意味がよく分からなかったのか首を傾いだ。

「ああ、悪い。起き上がって歩く事は出来る?」
「・・・まだ少しだるいが・・・問題はない」

アーネストの淡々とした返事を聞くと、カーマインはにっこりと笑った。

「よし、なら行こうか」
「・・・・は?」
「ここは兵士がいて落ち着かないだろう?俺の屋敷に来るといい。身の安全は保障しよう」

カーマインがそう言えば、ドアの前で見張っていた憲兵が声を荒げた。

「領主殿、このような得体の知れぬ者をお連れになるのですか!?」
「・・・失礼だぞ。アーネスト、気にする事はない。彼に悪気はないんだ。許してやってくれ」

アーネストを振り返りながらカーマインは言う。
対するアーネストはただ混迷に顔を顰めた。

「・・・・この街にいる限り、俺が面倒見よう。それが俺の仕事だ。君も分かったね?」

言葉尻は不服そうな憲兵に向ける。
しかしそれでも納得行かないようで、言い募る。

「しかし、領主殿っ!貴方にもしもの事があれば・・・」

心配そうな声で言う彼にカーマインはそっと耳打つ。

「大丈夫だ。それにもし、彼が不審な者であったなら
尚更俺の目が届くところに置いておいた方がいいだろう」

ふわりと間近で微笑まれてしまえば、二の句が告げない。
結局兵士はカーマインに丸め込まれてしまった。

「分かりました。けれど、何かありましたらすぐにご連絡を」
「理解感謝する。アーネスト、話はついた。一緒に行こう」

再びアーネストへ視線を送り、カーマインはそっと細い腕を彼に向けて伸ばした。

「心配しなくてもいい。悪いようにはしない。記憶が戻るまでは俺が君の身の周りの世話をする」

おいでと更に手を差し出せば、アーネストは戸惑いながらもその手に自分の手を重ねた。

「よろしく、アーネスト」
 
屈託なく笑うカーマインに、微かに警戒していたアーネストもほんの少し
気を許したかのように眉間の皺を解いた。



     ■ □ ■ 



「ここが君の部屋だ」
 

引き摺るように連れてきたアーネストにカーマインは言う。

「本当はゲストルームの方がいいかと思ったんだけど、
慣れないうちは俺の部屋が近い方がいいだろう?何かあったらすぐ俺を呼べるし」

ちょっと手狭になるけど、と漏らしてはいるが先ほどまで兵士の宿舎の一室で寝かされていた
アーネストからすればその部屋はあまりに豪奢で、手狭と言うにはあまりに広すぎた。

「・・・・充分だ」

むしろ充分すぎる。
そんな物思いを言葉に滲ませながらアーネストは呟いた。

「そうか、じゃあ休んでいてくれ。まだ少しだるいんだろう?」
「・・・・・待て」
「ん?」

踵を返そうとするカーマインにアーネストは呼びかける。
カーマインは小さく首を傾けながら振り返った。

「お前は誰だ」
「え?」
「兵士に領主と呼ばれていたが、俺はお前が何者なのか・・・名前すら知らん。
そんな相手のところで休めと言われても落ち着かない」

アーネストの不審を露にした言い様にカーマインは合点が言ったように頷いた。

「ああ、そうか。そういえば名乗ってなかったか。悪い、もう名乗ったつもりでいた」

やはり屈託なく笑いながらカーマインは言った。

「俺はカーマイン=フォルスマイヤー。この街・・・シアの領主だ。カーマインと呼んでくれて構わない」
「領主を呼び捨てられるか」
「ん?堅い事を言うな。君だって忘れてるだけで本当は何処かの領主かもしれないだろう」
「そんなはずが・・・」
「ないとは言い切れないだろう?記憶がないんだから」

ねっ、と顔を寄せるカーマインにアーネストは絶句する。そして思う。
きっと自分は口ではこの、どうやら年下の青年に敵いそうもないと。

「・・・疲れた」
「ああ、だから言ったろう。休んでいた方がいい」

しれっと言われてアーネストは片眉を吊り上げた。
誰が疲れさせていると思っているのか。全く以って悪気がないのは見て取れるが。
ふっとアーネストは諦めたように吐息を漏らし、宛がわれた室内に戻る。

「暫くしたら何か食事を持っていくから。休んでてくれ」

付け加えられて、アーネストは了承の意と称して片手を挙げた。



◇◆◆◇



「リゾットは食べられる?」

トレイに茸と香草のリゾットとティーセット一式を持ってカーマインが入ってきた。
窓の外を半ば惚けながら見ていたアーネストは小さく頷く。

「よかった、食べられないって言われたらどうしようかと思ってた」

トレイをアーネストの膝上に乗せるとカーマインはそのままベッド際に椅子を引き寄せて腰掛けた。

「・・・・・・・・・・」
「ん?傍で見られてたら食べ辛い?」
「・・・・まあ、な。お前、いや貴公の食事は?」

頬杖をついて此方を見ているカーマインはもう食事を済ませたのか尋ねれば、当の本人は苦笑して。

「お前、で構わない。敬語も使わないで、気疲れするから。食事はまだだけど、何で?」
「・・・領主なのだろう。俺などに構っている時間はないのではないか?」
「そんな事、気にしないで。それに領主と言っても俺でなくてもいい仕事は管理の者に任せてるから」

少し青い顔で言われても説得力がない、と思いながらもアーネストは出された食事に口を付ける。
よい香りがするリゾットは、一口運ぶと少し元気になるような気がした。塩加減も丁度よく、
シンプルながらに美味い。

「・・・・味はどう?」
「ああ、悪くない。良い者を雇っているな」
「あ、それ俺が作ったんだ」
「は?」

こんな大きな屋敷に住んでいるくらいだ。
てっきり料理人や使用人がいるものだと思っていたアーネストは瞠目する。

「使用人さんもいるんだけど、ね。食事は自分で作るようにしてるんだ。色々と問題があって」
「・・・・・毒殺でも警戒してるのか?」

領主、というくらいならば。命を狙われる事もあるだろう。
使用人として刺客が潜り込んでくる可能性も否めない。だとしたら食事が一番危険を伴う。
それを防ぐには自分で用意するのが一番安全と言える。そんな考えの元にアーネストは横目で
カーマインの様子を窺えばカーマインは微笑んでアーネストを見つめていた。

「・・・・それもある。でも一番はね、自分の下で働く人を疑いたくないから自分で作るんだよ」
「・・・逆じゃないのか?」
「疑ってるから、自分で作るんじゃないのかって?その方が自然な考えだろうけど。
いつも誰かを疑っているのが嫌だから。自分で作っていれば誰かを疑っていないで済む。
でも、そうだな。それじゃ初めから彼らを信じていないように映るよな・・・」

寂しげに吐かれた言葉に、アーネストは口元に運んでいたスプーンを持つ手を止める。

「・・・・言ってやればいい。そんな顔をしてそんな事を言う奴を誰も咎められはしない」
「・・・・・・・・・」
「・・・疑う事もお前の立場なら仕方のない事だ。気にする必要はないんじゃないのか」

そこまで言ってアーネストは食事を再開する。

「・・・君は優しいんだな」

しみじみと揶揄した風もなく言われた言葉に動揺し、アーネストは喉を詰まらせた。

「・・・・・〜〜ッ」
「え、どうした?大丈夫か?」

急に咽だしたアーネストを気遣ってカーマインは前のめりに咳をしている大きな背を擦る。

「みょ、妙な事を言うなっ!」
「妙な事って何だ?」

非難するかのような緋色の視線を受けて、カーマインは本気で分からないとばかりに
頭上に疑問符を浮かべている。その様を見て、アーネストは半ば呆れた。

「お前・・・・いや、いい。無意識なら仕方ない」
「何が?」
「いいと言ってるだろう」
「よくない。俺が気になるだろう」

真剣な目をして言われてしまえば脱力せざるを得ない。アーネストは大きな溜息を吐き出す。

「・・・・・よくそんなんでやっていけるな」
「だから、何が?」

しつこく尋ねられて、面倒になってきたアーネストはどうしたらいいのか考える。
嫌いなタイプではないが、こうも構われるのはどうにも慣れない。記憶はないが、身体が覚えている。
自分は人と付き合うのを苦手としていたと。いっそ、追い返してしまえればいいのだろうが、それも
出来ない。構われる事自体は慣れないだけで嫌ではないし、青年自身も嫌いではない。それどころか
屈託のない態度は何処か安心する。どうしたものかとカーマインに気づかれぬよう気を巡らせていた
アーネストだったが、次の瞬間思わぬ出来事にすっかり頭が固まってしまった。

「あ、アーネスト、ここ付いてる」

何が、と問う暇もなくカーマインの指が伸び、アーネストの口元をスッと拭う。
白魚のような細く繊細な指先にはリゾットが媚り付いていた。

「・・・・・なっ」

まるで子供のように扱われた事に気づいたアーネストは不健康そうな肌色にうっすらと血の気を帯びる。
次いで、カーマインの顔も見れずに余所を向いた。

「・・・・・どうかしたのか?」

具合でも悪い?とカーマインは事もあろうに顔を寄せると余所を向いていたアーネストの顔の向きを
自分へと向けさせ、コツリと短い前髪で剥き出しになっているアーネストの額へと自分のそれを当てた。

「〜〜〜〜ッ!?」
「熱はない、か。でも病みあがりだしな。早めに休んだ方が・・・って聞いてるのか、アーネスト」
「・・・・・・・・・・」

すっかり黙り込んでしまったアーネストをカーマインは幼子のような瞳で覗き込む。

「・・・・大丈夫か?」

本当に心配そうな声音。
今日会ったばかりの人間に、そこまで気をやるかと疑問に思うほどに。

「・・・・・大丈夫だ」

カーマインの美貌に悲しげな色が乗るのが、何処か耐えがたくアーネストは
意識するでもなくそう口にしていた。

「無理しないで休んでくれ」

そっと、カーマインはアーネストの額に手を当てて枕へと頭を軽く押す。

「・・・大丈夫だと言っている」

未だに押さえつけてくる細い腕を掴んで外させながらアーネストは言うものの、取りあっては貰えず。

「大丈夫でも、今日一日くらいは寝てた方がいい。
自分が思ってる以上に身体が疲れてるはずだ。その前に・・・左腕の包帯を換えないとな」

腕を出すように言われ、アーネストは渋々言われた通りにする。
カーマインは差し出された腕を受け取ると古い包帯を丁寧に解いていった。

「・・・割と傷、深いな。痛むだろう」
「・・・・・・別に」

包帯の下から現れた裂傷に眉を顰めながら、カーマインは消毒を行い、ガーゼを当て、新しい包帯に
巻き換える。途中のアーネストの強がりにこっそりと笑みを零しながら。

「・・・記憶、戻るといいな」
「・・・・・・・・・」

カーマインのその言葉にアーネストは一瞬、何故か強い反発を覚えた。

(・・・・・何だ、今の感覚は。まるで記憶を取り戻したくないかのような気になった)

その理由は不明だが、確かに一瞬記憶を取り戻す事に抵抗があった事がどうにも腑に落ちず、
表情の乏しい青白い顔には、珍しく不可解な色が浮き上がっていた。

「・・・痛むのか?」

まだ、アーネストの事を把握しかねているカーマインの目には、彼が苦痛に顔を歪めたように
映ったらしい。バツが悪そうに細められた緋色の瞳をじっと見つめていた。

「・・・違う。少し、一人になりたい。悪いが出て行ってくれないか」

これ以上、カーマインに心配を掛けるのが悪い気がして、そう告げれば、
言われたカーマインは酷く悲しげな顔をして笑った。

「ごめん、気が利かなくて・・・・」

消え入りそうな声で囁くと彼はそのままアーネストに背を向けて部屋を出て行ってしまった。

「・・・・・・・・・・」

遠ざかる華奢な背を紅い視線は密やかに追う。

(・・・・もっと違う言い方があったろうに)

心配させないつもりが、逆に傷つけてしまったような気がして、アーネストは誰にでもなく苛立ちを
露にして深紅の双眸を灰色掛かった長い睫できつく閉ざした。



◇◆◆◇



遠くで、何か聞こえる。
何処か耳障りな、断続する音。
いつか聞いた響き。

それは何だったろうと思い返せばフッと脳裏に何もない空と
不協和音のような鐘の音が鳴っていた景色が過ぎる。そして何者かの蠢く口元。
何を言っているのか読み取ろうとすれば急速に意識が浮上していく。

何故、と思うのは僅かな間。すぐにこれは夢なのだと気づいた男は、
耳障りな鐘の音から逃れようと必死に浮上しかけた意識に集中し、夢から覚めようとする。
そしてその望み通り夢の縁から現実に帰ろうとしたその瞬間、聞き覚えのある声が脳に直接響いた。

『・・・残り、十五・・・・』

意味の分からない言葉。
誰のものだか思い出せない声。
気持ちが悪い。
吐き気すら催す不快感に苛まれながら、男は目を覚ました。

「・・・・・・何だ、今の夢は・・・?」

呟いた声が掠れている。額をつぅ、と嫌な汗が流れた。アーネストは綺麗に整えられていたはずの
シーツを掻き乱して身を起こすと、未だに残る不快感に何度も深呼吸を繰り返す。

「何だって言うんだ・・・」

夢から覚めたというのに、耳にはあの不快な鐘の音が媚り付いていた。

「・・・・俺の記憶と何か関係あるのか・・・?」

呟きながらも、そっと微かに開いた窓を見遣る。そこには真っ暗な空にほんの僅か、
爪の先ほどに細い月が浮かんでいる。

「・・・月・・・・鐘・・・・・」

それらが、自分の記憶に何か関連しているのであろう事は本能で分かる。
一歩、記憶を取り戻すための道のりに近づいたのだとはっきりと自覚する。
しかし、一方でそれを厭う自分がいる事にもアーネストは気づいていた。
眠りに着く前に、カーマインの一言を聞いて記憶を取り戻したくないと思ってしまったのだから。

一体、何故。

考えても答えは纏まらない。
仕方なく、アーネストは汗を拭うと再び寝床に身を寄せる。
眠気は飛んだが、疲れはある。眠れなくても横になった方がいいだろうと判断して。

「これではあいつの言う通りではないか・・・・」

ぽつりと漏らして、『あいつ』の事を思い出したのか苦痛に歪んでいた表情には、
うっすらと笑みが滲んでいた。



◇◆◆◇



朝日が薄く空いたカーテンから差し込んでくる。
紅い眼差しは眩しげに睫を瞬いた。

「あ、起きたか。早いな」

不意に頭上から落ちてきた声に、アーネストの寝惚けた頭も一気に覚める。
「・・・・・ッ!」

驚きのままに飛び起きれば、怪我をしている事も忘れていたのか、
うっかり左腕に体重を掛けてしまったため、腕を突き抜ける激痛にアーネストは呻いた。

「・・・だ、大丈夫か?」

自分が驚かしてしまったのだろうか、とやや慌てた様子で漆黒の髪の青年は言う。

「すまない、驚かせてしまったか?」
「・・・・いや、お前が悪いわけでは・・・。怪我の事を忘れていた俺が抜けていただけだ」

本当に、不覚を露にした苦い声にカーマインはクッと小さく笑む。

「・・・・笑うな」

それに返ってくるのは、アーネストの寝起き故に少しだけ掠れた恨みがましそうな呟き。
あんまり真剣に言うものだから余計におかしいとカーマインは口角を更に持ち上げた。

「・・・悪い、なんかおかしくて」
「多分に失礼な奴だ」
「だから、謝ってるだろう?そんな事より、目が覚めたなら朝食にしよう。
用意が出来たから呼びに来たんだ。・・・・今まで忘れてたけど」

最後の一言を小さく舌を出して告げた青年は、容姿が大人びている分、余計に愛らしく映る。
それはとてもこの街の領主とは思えぬほどに。

(・・・意識してやっているのではないだろうな)

ついついそんな事を考えてしまうのは、同性であるはずなのに、
不思議なくらい容易く心を奪われてしまいそうになっているからだろう。
自身が一部だけとはいえ、記憶喪失になっているという大変な事態さえ忘れかけているアーネストは、
しっかりしろと自らに言い聞かせる。大して効き目はなかったが。

(調子が狂う)

てきぱきと着替えを用意しているカーマインを横目に見ながらアーネストは思った。
昨日はとても弱々しい声を出していたと言うのに、今ではすっかり何事もなかったかのように
振舞う彼を見ていれば尚更に。一体どれだけの面を持っているのだろうと気になってしまう。
それは他人に構われる事は煩わしいと思っていたはずのアーネストにとっては酷く稀有な事だった。

(本当にどうしたんだ、俺は・・・・)

そんな事を考えていれば、いつの間にか用意を終えたらしいカーマインがアーネストに向けて
替えのシャツと履物を差し出す。

「とりあえず、これに着替えて。
 俺の服じゃ、君には小さいと思うから・・・使用人さんに支給してる服になるけど」
「・・・・充分だ」
「それにしても・・・随分寝汗を掻いてるな。何か悪い夢でも見たのか?」

小さなタオルでアーネストの額にまだうっすらと残る汗を拭ってやりながらカーマインは口を開く。

「食事より先にシャワーでも浴びた方がいいか。ああ、でも傷に障るか・・・」

ぶつぶつと呟き数秒悩んだ結果、本人に問う事にしたらしく、
どうする?とアーネストの顔を覗き込んだ。

「・・・・・シャワーを」
「分かった、じゃあ着替えは脱衣所に置いておく。あ、俺手伝った方がいい?」
「要らん」
「遠慮しなくてもいいのに」
「要らん」

クスクス笑いながら言うカーマインにアーネストは憮然と返す。相も変わらず、眉間に縦皺を浮かべて。
まだ会って間もないけれども、カーマインは何となくアーネストの性格が分かってきたようで。
隙あらばからかいを混じえて話す。緊張を解してあげようという気遣いもそこにはあるのかもしれない。
そのおかげか、アーネストもすっかり馴染みのある相手とのようにカーマインに打ち解けている。

(・・・・・全く、人心を取り込むのが巧いというかなんというか)

呆れているのか感心しているのか自分でもよく分からないままに、アーネストは脱衣所で服を
脱ぎ始める。その際、傷が痛んで顔を顰めつつ包帯の巻かれた腕を見た。瞬間、視界に何か黒いものが
映り、改めてじっとそれを見る。腕の付け根に白と黒の蛇が絡み合いながら互いの尾を喰らおうとしている
様子を描いたタトゥーが刻まれていて。

「・・・・何だ、これは?」

はっきり言って自分の趣味とは思えない。とても不気味な・・・。
ファッションというよりは何かの所属を表すシンボルマークのように見える。
では、それは何だろう。考えてみるが、分からない。

「・・・・・・・・・・・・・・・」

アーネストは不意に記憶がない事が酷く恐ろしくなった。
自分は一体、何をしていたのか。正体が、掴めない。それが不気味で、吐き気にも似た
嫌悪が込み上げてくる。ぐらりと足元が揺れて後ろに倒れこみそうになると丁度よくと言うべきか
仕切りを開けてカーマインが顔を出した。

「アーネスト、着が・・・わっ」

着替えを抱えた腕に更にアーネストという重みを加えて。つられて倒れそうになるのを何とか
踏ん張りながらカーマインは自分よりも一回り以上大きなアーネストの肢体を受け止めた。

「ちょ、大丈夫か?!」
「・・・・・すまん。少し気分が悪くなって」
「まだ本調子じゃないんじゃないか。無理はよくな・・・・あれ?」

先ほどアーネストがそうしたように、カーマインもアーネストの腕の付け根にある奇怪なタトゥーへ
目を留める。何か不審なものでも見るかのように眉を顰めて。

「・・・・それは?」
「いや、俺にもよくは・・・・」
「あ、ああ・・・そうだったな。悪い。何だか君には似合わないものだったから」

つい・・・と苦笑を漏らし、カーマインは着替えをアーネストの胸に押し付け。

「はい、着替え」
「・・・・すまないな」
「お礼は『ありがとう』、ね」

じっと金銀の瞳が見上げてきて、アーネストは目を瞠る。

「・・・若いのに親みたいな事を言うんだなお前は」
「礼儀は幾つになっても払わなきゃならないんだぞ?」
「そうだな。・・・有難う、カーマイン」
「どう致しまして。まだ気分悪いようなら本当に俺が手伝うけど?」
「・・・・・・平気だ。あまり子供扱いするな」

俺は年上だぞ、と言いながら拒絶にならない程度に軽くカーマインの肩を押す。
まあ、確かに誰かに見られながら風呂に入るのは気が重いというか、安らげないだろう。
少しは一人にしてあげる必要があるかとカーマインはじゃあ何かあったら呼んで、と口にして
仕切りのカーテンを閉める。アーネストが浴室のドアを閉めたのを確認し、ぽつりと漏らす。

「・・・・・あのタトゥー、残念な事に見覚え、あるんだよなぁ」

ぐしゃりと黒髪を掻き混ぜて、辛そうに吐息を吐くとやがて何かを諦めるように
やんわりと瞳を閉じた。



◇◆◆◇



「アーネスト、大丈夫だったか?」

湯上り後、まだ何処かふらついた様子のアーネストにカーマインは声を掛ける。
濡れた後ろ髪から滴る水滴を指で弾きながら少し青白いアーネストの頬へと触れた。

「・・・・顔色があまりよくないな。やっぱりもう少し寝てるか?」
「いや、大丈夫だ」
「無理して後で困るのは自分だぞ?記憶を失くすというのは思っている以上に
 精神に負担を掛けるものだ。心と体のバランスを崩しかねない。用心するに越した事はないよ」

親身に囁いて湯冷めしかけているアーネストにカーマインはカップに注いだ温かいスープを
差し出す。アーネストがシャワーを浴びている内に新たに作ったらしい。
本当によくやるなと感心しながらアーネストは有難くそれを受け取った。正直、あまり食欲は
なかったがスープなら比較的すんなり喉を通る。身体の中を熱が通り抜け、幾分か温まった。

「何だか悪いな。何から何までしてもらって・・・・」
「そんな事、気にするな。言ったろう、身の安全は保障すると」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どうかしたか・・・?」

カーマインの言い様が、まるで義務のように聞こえてアーネストは若干口の端を曲げた。
本人も自覚がないままに。気づいたカーマインに問われて困惑気に眉間に皺寄せる。
ふるふると首を振り、仕方なしに寝直す事にした。

「何でもない。お前の言う通りかもしれない。もう少し休んだ方がよさそうだ」
「そう?そういえば悪い夢、見たんだっけ。よく眠れるようにリラックス出来る香を焚いてあげよう」
「あ、ああ・・・有難う」

かちゃかちゃと戸棚から香を取り出して、カーマインはアーネストの腕を引く。
本当に、迷い子を世話する親みたいでアーネストは複雑な気持ちになる。彼がここまで親切なのは
性格によるものが大きな要因だろうが、領主という責任ある立場にある事も影響しているのだろう。
きっとこの街の者全ての面倒を見る事が自分の責務だと感じているに違いない。
それはよい心がけなのだろうが、寂しく感じるのは、変なのだろうか。アーネストは内心で首を傾ぐ。
心の何処かで、もしかしたらアーネストはカーマインに特別に思って欲しかったのかもしれない。

「・・・・何を贅沢な事を言ってるんだか・・・・・・」
「え?」

ぼそりと漏らしたぼやきにカーマインが振り返り、アーネストは慌てた。

「あ、いや何でもない」
「本当に?アーネストはすぐ遠慮するからなぁ、何でも言ってくれていいよ」
「・・・・気持ちだけ、貰っておく」

誤魔化すように曖昧に苦笑して寝室へと踵を返す。そんなアーネストの後をカーマインは腑に
落ちないながらも追った。パタパタと駆け足でアーネストより先にドアを開け、ベッドのシーツを直す。
もう、領主とか言う以前に、ここまで甲斐甲斐しいと妻のようだとすら思える。そんな事を考えた
アーネストは自分に対して頭痛を覚えた。

(ひょっとして俺は頭でも打ったんじゃないのか?)

ここまで変な事を考えるくらいだ、正気とは思えない。額に手を当てて瞼を閉じる。
その間に準備を整えたらしいカーマインがアーネストの目前に立っていた。気配を感じ取り
目を開けば、黒髪の美貌が迫っていて。驚きのあまり一歩後ろに下がる。

「支度出来たよ?」
「あ、ああ何度もすまないな」
「いいよ。ここにはお客さんなんて滅多に来ないし、結構嬉しいんだよ?」

君が来て。さらっとした風でありながらも聞き様によっては、とんでもない科白にアーネストは
咽そうになった。どうやらこの年若い領主殿は無意識なタラシらしい。自分でも知らず知らずの内に
あらゆる者の心を奪い惹きつけてしまう。まるで魔性のような存在。にこにこと人当たりよく
微笑んでいればそれは尚更の事。

(―――勘弁してくれ)

大きな手のひらが、己の顔を覆い隠す。俯いた頬は若干赤らんでいるように見える。
しかしそんなアーネストに気がつかないのか、もてなす事に夢中なのかカーマインは毛布を
丁度良いくらいに捲り、アーネストを呼び寄せる。

「ほら、アーネスト。おいで、おいで」
「犬か俺は」

文句を言いつつ、言うことを聞かないと煩そうだと判断したのかアーネストは言われるままに
ベッドに横になる。それと同時にカーマインが持ち上げていた毛布を下ろす。
ぽんぽんと二回ほど軽く膨れた羽毛を叩いてから用意してあったらしい香を焚き始めた。
瑞々しい花の香。それが何の花の匂いなのかはアーネストには分からなかったが、気分は安らいでいく。
少しずつ自分の中へと浸透し、満たすかのようなそれは全身から余計な力を奪っていき、眠気を誘う。
やがてアーネストは深い眠りの縁へと誘われていった。



◇◆◆◇



聞こえる。
あの、不愉快な鐘の音。
またか、と思う。
夢とは思えない、夢。

何もない空。
何事かを口にする男。
苦痛に胸を押さえて蹲っていく自分自身。
音のない声が、呪いの言葉を告げる。

聞きたくない。
けれど、耳は塞げず、瞳も逸らせず。
唇の動きがゆっくりと、鮮やかに網膜に焼きつく。

『思い出せ、月がお前を待っている』

待っている、月が・・・・?
どういう事かと白んでいく脳裏に構わず思考を廻らせると、逆光に照らし出され
黒く映る男の指先が何もない空へと掲げられる。そう、何もない空。
月すらも・・・・・。

『思い出せ、そして―――を――――せ』

不鮮明な言葉に苛立ちを覚える。
その一方でもし、この言葉を完全に思い出してしまったら
自分は何かを失う気がする―――

思い出してはいけない、思い出しては・・・・

強い拒絶が夢の世界にノイズを走らせる。
ぶつりと回路が切れるようにして男は夢の世界から切り離された。



◇◆◆◇



ばっと瞼を押し上げれば薄明かりの中、心配そうに自分の事を見下ろしている青年の姿がある。
手には濡れたタオル。どうやら汗の浮く額を拭っていてくれたらしい。

「・・・・あ?」
「あ、起きたか。魘されていたけど、また悪い夢見てた?」
「・・・・・ああ」

寝起きのせいか、それとも魘されていた為か声が掠れる。それを気にしてアーネストは自分の喉を
軽く押さえた。カーマインのほっそりとした冷たい指先がその上に添えられる。

「・・・喉痛い?」
「いや、声が変だろう・・・」
「水、持ってこようか」

言うなり返事も聞かずにカーマインは立ち上がり、水差しとグラスを取りにいく。
まさかとは思うがずっと付いていたのだろうか。いや、領主にそんな暇はないだろうと
アーネストは首を振った。時間が経つにつれ、贅沢になってきている自分に嫌気が差しながら
先ほどの夢を思い出す。いや、夢ではないのかもしれない。夢にしては、自分の何かを
騒めかせる。では何かという話になる。きっと・・・・

「記憶・・・・」

それを失う直前の。
自分は鐘の鳴り響く月のない夜、何者かと会い、そしてそこで記憶を失ったのだろう。
どくどくと血が騒いでいる。何かを恐れて。

「・・・何を恐れる必要がある」

自分の記憶なのに。覚えていない事が恐ろしい。けれど思い出すのも恐ろしい。
では一体どうしたいというのか。何も分からない。ふと、カタンという物音がして伏せっていた
顔を上げる。水を取りに行ったカーマインが戻ってきたところだった。

「・・・・どうかした?」
「いや・・・・そういえば今一体何時なんだ?」
「ああ。結構長く寝ていたからね。今は・・・十時くらいかな、夜の」
「じゅ・・・そんなに寝ていたのか?!」

二度寝したのは朝だというのに。殆ど一日寝ていたという事になる。

「うん、途中で起こそうかと思ったんだけど・・・。
 魘される前までは気持ち良さそうに寝てたから・・・ごめんな?」
「いや、お前が悪いわけでは・・・」
「本当にごめん。仕事があって、ずっと見ているわけにもいかなかったし・・・」

これじゃ夜寝れないな、と申し訳なさそうに口にしながらカーマインはアーネストに水の注がれた
グラスを渡す。ひんやりと冷えたそれを受け取るとアーネストは小さく礼を言い、喉の奥に流し込む。
喉が渇いていたのか、ただの水がとても甘く感じる。一息吐いてから軽く手を振り笑う。

「いい、気にするな。どうせ夢見が悪くて眠れんだろうしな」
「そんなに悪い夢なのか?」
「・・・・・いや、恐ろしい夢ではない。少なくとも俺以外の者からしたら、な」

それは逆に自分にとっては恐ろしい夢という事になるのではないか。
口に出してしまってから気づいたアーネストは細い眉根を困惑したように寄せる。

「とにかく、お前が気にするような夢ではない」
「・・・・それは俺には話せないって事なのかな?」
「違う、そうではなくて・・・話すほど深刻な夢ではないというか・・・」
「・・・・まあ、どっちでもいいや。話したくなったら、言って。
 俺はまだ仕事があるから席を外すけど、何かあったらすぐ呼んでくれていいから」

にっこりと笑って空になったグラスをアーネストから回収するとカーマインはそっと部屋から
出て行く。その華奢な後姿を見送っていた紅い瞳は厚いドアにそれを隔てられると寂しげに伏せ、
それから何の気なしに窓の外へと移す。微かに仄白く細く切り取られた月を見遣り、
複雑そうに視線を外す。

『月がお前を待っている』

夢の中のフレーズが不意に脳裏を過ぎった。
その言葉は何かの合図なのかもしれない。そういえば初日に見た夢では残り十五と言っていた。
それはもしかすると月の満ち欠けについて告げているのかもしれない。
月が待っている、つまり満月の夜に何かが起こる。そう言いたいのかもしれない。

「・・・・頼むから、何も起きないでくれ」

今はただ、この平穏な時をゆっくりと過ごしていたい。
切実な望み。けれど、その望みは決して叶えられる事はない。

十六夜の夜。
それは必ず訪れ、彼を苦しめる。
神を呪いたくなるほど、深く深く・・・。

二日目の夜が静かに終わろうとしている。
言い知れぬ不安を煽りながら―――



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以前途中までUPしていたものの再録です。
最早ピー!年前の作品なので読み直すのがとても辛いのですorz
そして無駄に長くてすみません。全四話です、多分。

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