十六夜の記憶 今日も変わらず穏やかな朝はやって来た。 カーテンの隙間より光の帯が室内に差込み、うっすらと開いた窓の外からは小鳥の囀りが聞こえる。 きらきらと木々の葉が陽光を受けて輝く。それはとても平和でありふれた一日の始まりを告げている。 「・・・・・・朝か」 結局、あの後アーネストは一睡も出来なかった。 昼に寝すぎたのだから当然といえば当然か。眠れぬ間はずっとここの家主の事ばかり考えていた。 そうでもなければ自分に対する疑念に押し潰されてしまいそうだったから。 しかし、ここで一つ疑問が生じる。 それは何故自分の事を考えないようにするために、カーマインの事ばかり考えていたのか。 思考を別のもので埋めるにしても、もっと他の事を考えればいいのに。 何故―――答えは簡単で、愚鈍だ。 (・・・・・好きだとでも?) ハッと鼻で笑いながらアーネストは自身を侮蔑する。 記憶を失くし、居候の身で何を言うかと思えば。そんな立場でも場合でもないだろう。 自分が何者かも分かっていないのに。もしこの感情が恋慕だとして。自分ですら自分の事が分からないのに 一体どうやって相手に理解してもらおうとしているのか。愛し、愛されるという事は互いを理解し、赦すという事だ。 そして赦す事が出来なくなると愛情は憎しみへと変わる。それが人の心理。少なくともアーネストはそう信じている。 (愛される筈もないのに好きになってどうする) 思いが伝わらないという事は記憶を失くす事よりよほどつらいとアーネストは思う。 大体、相手は同性でしかもまだ出会って今日で三日目。何が分かるというのだろう。自分の事も相手の事も。 ふとアーネストは思い立って、では自分が彼――カーマインを好きだと思う根拠を挙げてみようと頭を捻った。 カーマイン。彼はとても綺麗な青年だ。雪やオーロラのように人間の手では作れない自然の美しさ、それが彼にはある。 この世の四季を全て凝縮したかのような。見ているだけで心が和み浄化されてしまう。 無意識に触れたいという欲求を引き起こす。それは人間の性。人の手は届かないと知っていても欲すればそれに 向けて伸ばしてしまう本能がある。例えば空を流れる雲、夜空を彩る星々。決して掴めない風、旋律――心。 彼を見ているとその本能が止められなくなってしまいそうになる事があり、アーネストを戸惑わせている。 (触れたくなる本能=恋情・・・?果たしてそうだろうか) 確かに、嫌いな相手やどうでもいい相手に触れたいとは思わないだろう。触れたいと思うからにはそれなりに 相手に対する好意が存在する筈だ。けれどその好意がそのまま恋情に値するかといえば・・・違う気もする。 雨に打たれて震えている子犬を見つけた時だって人によりはするが、手を伸ばしてしまうものだろう。 恋情以外の感情でもそういう欲求は生じる。つまりは触れたいと思うだけでは恋慕の理由にならない。 せめてもう一つ理由があれば。なければきっとこれは自分の勘違いなのだ。自らにそう言い聞かせ、アーネストは 目を閉じた。途端に浮かんでくるのはくるくるとよく動き回り、表情を変えるカーマイン。厄介事が目の前にあるというのに そんな事は微塵も感じさせず世話をしてくれる。笑顔が綺麗で、言動が可愛くて、瞳を耳を心を引き込まれてしまう。 これ以上近寄ってはならない、そんな思いもあるのに傍にいるのが酷く心地よくて。それはあまりに歯痒い――― 「・・・・・・・ふぅ」 今にも喉から出掛かった言葉を掻き消すようにアーネストは吐息を零した。もう、この辺にしておこうと。 悪足掻きをしても最終的に行き着く答えは見えている。むしろ足掻けば足掻くほど、溺れていくだけだ。 今の自分の状態を一言で言ってしまえば。恋を、しているのだろう。自分の口から出ると薄ら寒い言葉だなと 何処か他人事に考えながらアーネストは視線を動かす。青々とした空の広がる、外の世界に。 「・・・・・眩しいな」 そこに彼の人を思う。それだけで胸の奥が何処か暖かく、同時に少し気恥ずかしい。大よそ朝から考えるような事では ないだろう。気持ちを切り替えるためにベッドに沈めていた身体を起こし、一つ伸びをする。今日で三日目。 寝てばかりだったが少しはこの屋敷内の事も分かってきた。カーマインに手間を掛けさせる前に自分で出来る事は 自分でしようと取り敢えず着替えから探す。クローゼットの中に何点か服がしまわれていた筈だ。部屋の奥に備え付けられた 白いクローゼットを開く。そこからシャツとスラックスを手に取る。使用人用というだけあってあらゆるサイズに対応しており、 どれもデザインがシックな造りになっていた。派手な服はあまり好まないアーネストには逆に有難いくらいで。 小さく詫びながら袖を通す。その際、また腕のタトゥーに目が行ったが、すぐに逸らす。そうしなければ酷くその痕を 掻き消したい衝動に駆られるからだ。気をつけていないと、無意識のうちにそれへと深く爪を立てそうになる。 しかしそんな事をすれば、カーマインが心配するのが目に見えているので何とか堪えた。ボタンを閉める。 するとまるで待っていたかのように絶妙なタイミングでドアをノックする音が耳に届いてきた。 「アーネスト、起きてる?」 ドア越しに声が掛かる。それにアーネストはああと短く返し、ドアを開けるために部屋の入り口に近づく。 が、少し遅かったようで先にカーマインがドアを開けてしまった。 「おはよ・・・おっと」 ぱふっと。目前にある広い胸に顔を埋める形になったカーマインがぷはっと息を吐き出しながら顔を上げる。 気を抜いた子供っぽい仕種が目に付く。思わずアーネストはそんな青年の様子に口元を緩めた。 とても愛おしいものでも見るかのような眼差しで。それに気づいたカーマインが瞠目し、やがて頬をほんのり染めていく。 「・・・・・何だ?」 「え・・・あ・・・・いや、何と言うか・・・・微笑った顔初めて見たから・・・・」 びっくりして。カーマインは言う。言われてみればここに来てカーマインの目の前で笑ったのは初めてかもしれないと アーネストはぼんやり思う。ぼんやりしているのは、頬を染めるカーマインに魅入っているからだろう。 可愛い、などとつい口にしそうになって慌てて口元を引き締めた。 「あっ!」 「な、何だ?」 「せっかく可愛かったのに・・・・微笑った顔」 「なっ?!」 意外な言葉を聞いてアーネストは思わず素っ頓狂な声を上げた。可愛いなんて言葉ほど自分と無縁なものもないだろう。 聞き違いか、とアーネストは我が耳を疑った。けれどご丁寧な事に聞き違いなどではないとカーマインが自ら教えてくれる。 ことり、首を傾げて。 「ね、もう一回笑ってみて?」 「な、何故だ・・・・」 「その方が可愛いから?」 疑問系ではあるが確かに。確かに可愛いと言った。アーネストは頭痛を覚える。そんな事を言うお前の方がよっぽど 可愛いと思うなどと馬鹿な事を考えながらも。額に手を当て盛大に溜息を吐く。笑えと言われてそう簡単に笑えるものでもない。 それでも金と銀の瞳は物凄く期待している。キラキラという擬音すら耳に届いてきそうな勢いだ。 「〜〜〜〜ッ」 何となく、期待に応えてやらねばいけないような気になりながらも、やはり無理なものは無理。 アーネストは首を振ってみせる。けれど、カーマインの色違いの眦はそれを許さないとでも告げるかのように じっと見上げてきて。正直、生殺しに近い。徐々に騒いできた心臓をどう収めようかと考えを巡らせつつ、アーネストは カーマインの視線攻撃に耐える。 「・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 息も詰まるかのような長い沈黙。お互い気まずくなってきた。ふっとカーマインが肩を竦める。 どうやら諦めたらしい。困っているとアピールしている白眉の皺に向けて手を伸ばし、そこをぐにぐにと解す。 「・・・・カーマイン?」 「ごめん、困らせちゃったな。難しかったらまた次の機会でいいや」 「悪いなその・・・・俺は笑い慣れてないと言うか・・・・」 「ああ、それは見てれば分かる。無理強いしてごめん。今度から気をつけるから」 言う割りに寂しげで、ついアーネストの手が伸びた。黒髪を掻き寄せるように腕の中へと閉じ込める。 無意識の行動こそ、その人間の心理が表れるもの。改めてアーネストは自分の思いを知った。 まだ相手の事を何一つ知らないのに、こんなにも惹かれている――その想い。 それはまるで花を愛でるように――― 「・・・・・アーネスト?」 くぐもった声が聞こえて、アーネストはハッとする。慌てて手を離した。自分から遠退いていく黒髪に後ろ髪を 引かれながらも。指先に残る感触が、触れる前よりも返って切なさを伝えてくるのは一体どういうわけだろう。 何か言い訳を探すが浮かんでこない。笑うのは慣れてないが嘘も吐き慣れてない・・・・多分。 「あ・・・の、これは・・・その・・・・」 「その・・・・何?」 「あ゛ー・・・・・何と言われても・・・・」 「?」 どうやらカーマインには訊き癖があるらしい。疑問に思ったらすぐに尋ねる。それは素直さの現れなのだろうが、 問われる身には少々辛いものだ。そんな如何にも不思議そうに純粋な瞳で見るな、と。 目を逸らしたくなる。実際、アーネストの緋眼はフイと横を向いた。 「アーネスト?」 先程よりも強い口調。 「・・・・・・身体が勝手に動いた。理由を問われても・・・・困る」 観念したのかそう答えたアーネストに、カーマインはやはり不思議そうな顔をしている。理解出来ない、と 言いたげに。もしかすると彼は酷く子供なのかもしれない。色めいた感情に対しては。それはいっそ無邪気を 通り越して無知なほどに。頭が痛くなるけれど、それはそれで救われたかもしれない。本気でアーネストは思う。 自分はただでさえ彼にとって厄介者でしかない筈なのに、その上こんな想いを抱いていると知れれば 避けられてしまうかもしれない。それは途方もなく嫌だった。だから、これでいいのだと思う。 作り物の笑みを敷いた。 「その笑い方は可愛くない」 ビシッ、自分より随分高い位置にある額をカーマインは小突く。鈍いようで目が利くところは目が利く。 鈍いのか鋭いのか。どっちなんだと問いたい気持ちをアーネストはぐっと堪えた。 「・・・・笑えと言ったのはお前だろう」 「そんな作り笑いは嫌いだ。だったら仏頂面の方がいい」 「・・・・・・我侭だな」 「そうだよ、俺は我侭なんだ。と、言うわけで我侭に付き合ってもらおうか」 「は?」 何が『と、言うわけ』になるのか。カーマインは聡明なのだろう。頭の切り替えが早い。 だから一昨日も弱々しい声を出していたのに翌日には笑顔を振りまいていたのだろう。一つ、分かった。 その一つ分かる事が何よりも嬉しいとアーネストは瞳を和ませる。次いで彼の付き合ってほしい我侭とやらが 気になり、問うた。 「うん、実は俺今日から数日休暇を貰ってるんだ。だから、一緒に遊びに行こう?」 「遊びに行く?」 「そう、流石に領地から出るわけにはいかないけど、この街は娯楽施設が多いから退屈はしないと思うよ」 「娯楽施設・・・・?」 「劇場や美術館、ボートや公園。それに展望台とかバラ園とかプラネタリウムもあるし」 嬉々として語る彼は幼く見える。純粋に彼が楽しみたいという思いもあるのだろうが、恐らくここに来て以来 殆ど寝て過ごしていた自分を気遣ってくれての申し出にアーネストの胸は温かい。それと同時とても複雑だった。 こんなに大事にされては勘違いをしてしまいそうで。いっそもっと事務的に扱ってくれればいいのにとさえ思う。 そうすればこれ以上、傍に寄りたいと思わないで済むのに。これ以上。気づかれぬように一息吐いてアーネストは口を開く。 「・・・・・何処でもいい。お前が行きたいなら何処でも付き合おう」 「本当?じゃあ、今日は劇場に行こう。見たいお芝居があるんだ」 「御心のままに、領主殿」 「なんっか、様になってるなぁアーネスト。もし記憶が戻らなかったら俺付きの執事にでもなってもらおうかな?」 なんてね、と冗談めかしカーマインはアーネストの手を引く。彼は知らない。背後で寂しくアーネストが笑った事を・・・。 (・・・・記憶なんて戻らなければいいのに。そうすれば・・・) この時間がもっと続くかと思えば、アーネストは記憶がない方がいいと思った。この黒髪をずっと傍で見ていられれば どれだけ幸せかと。握られた手のひらを強く握り返す。それはまるで離したくないと駄々を捏ねる幼子のような仕種だった。 ◇◆◆◇ 「ほら見て、綺麗でしょ」 すいとカーマインが薔薇を一輪アーネストの眼前に突き出した。渋い深紅の、花弁がシャープで華やかな薔薇。 花弁の量に対して葉が随分と小さいのが目に付く。 「オリビアって言うんだよ。女性がドレスを纏ったようだろう?」 「ほう、流石に充実してるな」 連日、アーネストはカーマインの休暇中、領地内を連れ回された。劇場に始まり、美術館、展望台、プラネタリウム、 ボート、公園。劇場と美術館は三日に一度、演目や展示物が変わるのでそれぞれ二回行った。そしてカーマインが賜った 最後の休日の行き先はバラ園だった。今思えば毎日毎日よく出かけたものだ、とアーネストは思う。 こんなに外出していれば逆に疲れる筈だが、それでもカーマインは毎日外に出たがった。初めは何故だろうと アーネストは疑問符を浮かべていたがやがて気づいた。カーマインは自分を疲れさせるために連れ回しているのだと。 言葉だけで聞くと不親切なようだが、ちゃんとした気遣いあっての事だ。何故ならこのカーマインの休暇中の九日間は 例の夢を見ていない。本人の強固な拒絶もあるが、それ以上に肉体的な疲労が夢すら見ない深い眠りへと誘ってくれたのだ。 夢見が悪いと訴えたアーネストのために、自分だって疲れるだろうにあらゆる場所に連れ回して疲労させ、夢から遠ざけた。 何もかもが自分のため。何処かに思い違いもあるかもしれないが、多分そう。悪いと思う気持ちとそれを勝る勢いで 喜びが胸を占める。なんて罪深い。そう思うのに、喜ぶ自分を止められない。その落差に悩まないほどアーネストも 無神経ではない。ずっと悩んだ。でも止められなかった。どうしようもなく好きだった。 差し出された薔薇を見つめながらアーネストの心中はあまり穏やかではなく、掻き乱されている。カーマインによって。 そうとは知らない当人は鋏を手に別の薔薇をぱちんと切り落とし、摘み取る。その際、棘で怪我したのか小さく声を上げた。 アーネストは現実に引き戻され、カーマインの傍へと歩み寄る。 「大丈夫か?!」 「ああ、平気。ちょっと棘が刺さっただけ。結構よくある事だし、気にしないでい・・・ぁ!」 棘を抜き、血が滴る細い指を横から奪い取ったアーネストは、あろう事かそれを自分の口元へと運び、舐めた。 滑る舌が傷口をなぞる生々しさにカーマインの瞳は零れるほど見開かれる。ちゅ、と音を立てて血を吸い上げられると 白い頬は薔薇のように紅く染まり。慌ててカーマインはアーネストから自分の指先を奪い返した。 「な、何をするんだ」 「何って・・・止血と消毒だ」 「消毒って・・・何も舐めなくても!」 「仕方ないだろう、オキシドールもアルコールの類もなかったのだから」 しれっと返すアーネストにカーマインは眩暈を覚えた。まだ感触が指に残っている。生々しい。 けれど不思議と気持ち悪いとは思わなかった。むしろ、傷口から熱が全身に広がっていくような奇妙な酩酊感が身を占めていく。 血は止まったが、心臓が早鐘を打つのは止められない。何て事をしてくれたのか。心中でカーマインはアーネストを詰る。 しかしどんなに心の内で詰ってもアーネストに反省の色は見られない。まあ、口に出したわけではないので当然といえば 当然なのかもしれないが。脳裏を占める先ほどの事態を忘れようと、苦しいながらにカーマインは話題を変えた。 「そ、それはもういいとして。ほら、珍しい薔薇見せてあげる」 「何か無理やりだな」 「そんな事ない。というかせっかく摘んだんだから見ろ」 勝手な言い分に聞こえたが、アーネストは素直に言う事を聞いた。余裕ぶって見せたが内心、自分の心臓も騒いでいる。 思わずカーマインの指を舐めてしまったが、その行動はあまりに不自然だったろうから。恋人でもなければ、他人の傷口を 舐めたりなんてそうそうしないものだ。それなのに、してしまった。それは自分の想いを堂々と告げているに等しい行為だろう。 当のカーマインは気づかなかったが。鈍いのもここまでくれば大したものかもしれない。ほっとしたような残念なような 複雑で居心地の悪い感情が渦巻く。それらから目を逸らすため、アーネストはカーマインの言う通りにしただけに過ぎない。 「これ、何て言うか分かる?」 問われて白銀の頭が傾がれる。 「知らん。というかそれは薔薇なのか?」 一見すると薔薇には見えない花をカーマインは持っていた。歪で、花弁が細くぎっちりと詰まっている。 薔薇というよりも紅い芍薬のようなそれ。確かに珍しいものなのだろう。アーネストの頭の中にある薔薇とは大分 印象の違うものなのだから。 「何という薔薇なんだ?」 薔薇なのかという問いに肯定が返ったので続けて問うたアーネストにカーマインは更に笑って返した。 「これ、十六夜薔薇っていうんだよ」 「十六夜・・・薔薇」 「そう、十六夜の月みたいに片側が少し欠けてるだろう?だから十六夜薔薇」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 十六夜、という言葉を聞くとどうしてもあの夢を思い出してしまう。自分の記憶に関わる夢。思い出したくない記憶が詰まった。 身体が震えそうになるのを必死に堪えながらアーネストはカーマインの言葉に耳を傾ける。 「ちょっと見た目は薔薇っぽくないけど・・・名前が綺麗だから気に入ってる」 「そう・・・・なのか」 「フフ、こんなに花弁があると花占いとか大変そうだ」 「花占い?」 「あれ、知らない?好きな人を思い浮かべながら花弁を一枚一枚千切って『好き、嫌い』って交互に言っていくの」 俺はやった事ないけどね。最後にそう付け足してカーマインはアーネストの胸に棘を取ったそれを押し付けた。 「・・・なんだ?」 「あげる、それ」 「・・・・・・・占えと?」 「え、そういうつもりじゃないけど・・・」 本当に何も考えてなかったのだろう。カーマインは困惑気に眉根を寄せてアーネストを見ている。 そんな表情をしなくてもいいだろうにと苦笑しつつ、アーネストはカーマインから薔薇を受け取る。独特の香りが鼻腔を 擽ってきた。ビロードの布のような感触の花弁を指で辿っているとぷつりとその中の一枚が千切れる。 空しく地面に落ちていくその様は何かに似ていた。さて、何に似ているのだろう。一瞬脳裏をその何かが掠めた。 けれどそれが何か判別する前に頭の中から姿を消してしまい、不快な蟠りだけ残す。 「・・・・・・・ッ」 「アーネスト?」 額を押さえて苦痛を露にするアーネストに、カーマインは近寄った。近くで見ると血の透けそうなほど白い肌を 幾重にも汗が伝っているのが見える。口元はぎりりと噛み締められて、歯の間から荒い息遣いが漏れ出ていた。 明らかに様子がおかしい。カーマインは持っていた薔薇も鋏も投げ捨てて今にも倒れそうなアーネストの身体を支え、 バラ園から出て行く。早く何処かで休ませねばと、バラ園を出てすぐ傍にある巨木の下に腰掛けさせた。 「アーネスト、大丈夫か?今、医者を・・・」 「・・・・・い・・ぃ。す、こし何かを・・・思い出しかけただけ・・・だ」 喘ぐような呼吸の合間に紡がれた言葉をカーマインは泣きそうになりながら聞いていた。何でお前が泣きそうなんだと アーネストは遠退きかけている意識の中でそんな事を思う。安心させようと笑ってみせようとするが、頭痛が邪魔して 変な顔になってしまった気がする。代わりに手を伸ばして黒髪を数回撫でた。ぴくりとカーマインが身じろぐ。 「・・・・カー・・・マイ・・・」 「・・・・・・・に・・・・・・・・・・・・・・い」 「・・・・・え?」 「そんなに苦しいのなら、何も思い出さなくていいっ」 ぎゅうと細い腕がアーネストの肢体を包む。描き抱くように強い力が込められた指先が汗で張り付くシャツに 深く皺を刻む。黒髪が、アーネストの白銀を上から覆い被さり、黒く染め上げた。 「・・・・カーマイン?」 「もういい。何も思い出さないで・・・君は俺のところにずっと居ればいい」 「何を・・・・・・」 「だって・・・思い出したらきっともっと苦しむ。君は―――」 何事かを言いかけてカーマインは慌てて口を噤んだ。何度も何度も首を振る。ぱさぱさとアーネストの耳元で カーマインの髪が揺れる音が響く。それだけで分かってしまう。彼は何かを知っているのだ。自分の事を。 「・・・・・お前は・・・・何を隠している?」 「・・・・ッ!・・・・何も、隠してない。何も知らない!」 「俺が・・・知らない方がいい事なのか?だから隠しているのか?」 ぶんぶんとカーマインは首を振り続ける。きっと何を聞いても無駄なのだろう。彼はもう何も言わない。 ずっと泣きながら首を振るだけ。もう一度アーネストは傷つけないように揺れる黒髪を撫でた。 「・・・・・・・!」 「泣くな・・・・もういい。もういいから・・・何も聞かない」 「・・・・・・・・・・・・・ごめん」 「いいんだ。どうせ、刻限は近い」 「・・・・・・え?」 「満月まであと四日・・・・その日が来たら」 ―――全てが終わる そんな、気がしている。 だからその日が来ない事を祈っている。 けれど、時が止まるわけもない事を知っている。 必ずその日はやって来る。 そうしたら・・・。 「もう、落ち着いた。・・・・帰ろう」 「アーネストっ!」 「明日からまた仕事があるんだろう?早く戻って休め」 カーマインの身体を自分から引き剥がしながら、アーネストは立ち上がる。まだ少し視界が霞むが大分楽になった。 まだ動こうとしないカーマインを抱き上げる。急に訪れた浮遊感にカーマインは暴れたが、アーネストは難なく押さえつけ、 屋敷に向けて歩き出す。それからも暫くカーマインは逃げようと足掻いていたが、どんなに腕を突っぱねてもびくともしない 体格差にやがて諦めしなだれた。首筋から汗が香る。何故か胸の奥が痺れた。切ない・・・のかもしれない。 (その日が来たら・・・・お別れって事かな。そうかもしれないだって彼は―――なんだから) アーネストの記憶が戻ったらきっと二度と会えなくなるだろう。きっとじゃない、必ず。彼の正体を知っているカーマインは いつかしたように諦めたような笑みを一つ零し、ゆらゆら揺れる肩の上で瞳を閉じた。長い影を地面に映す二人の背後では 夕暮れに染まる雲と、薄ぼんやりと浮かび上がる膨れた月が煌々と輝いている。刻限まであと四日。 欠けた記憶が月が日に日に満ちていくように復元されていく。 (記憶が戻ったら君は泣くのかな、笑うのかな。俺は・・・・どうするのかな) 泣けたらいいのに、今日みたいに。でも泣いたら見えなくなるから、泣かないんだろうな。 ぽつりと声にもならない独り言を漏らし、カーマインはそっと自分を抱き上げてる男の背に、腕を・・・回した。 そして静かに十一日目の夜が訪れる――― ≪BACK TOP NEXT≫ 一気に十一日目まで飛んでてすみません。 この九日間を加筆しようかとは思っていたんですが・・・。 もしご要望があれば後で番外的な感じで別話を書こうかと思います。 |
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