茨姫の棺





いつも、いつも。

人はもっとも安全な道を選ぼうとするから道を見失う。

だからと言って、危険な道へ踏み込めば後戻りも出来なくなる。

ならば、結局思うがままに進むしかない。

止まりたくとも、己を呪いたくとも。

ただ、ただ前に。



例えその結果辿り着くのが地獄でも―――








Act.10:例え地を這う狗であっても








それはとてもあっけなく。アーネストの予想よりも一日遅くはあったが、まだ傷の癒え切っていない状態の彼は医務室に
突如踏み込んできた自らの王のたった一言により、城内の地下牢へと投獄された。後に聞いた話では彼の投獄に反対する者は
多かったという。しかし、異を唱えた者は次々に得体も知れぬ仮面の男たちによって葬られたと言うのだから、その無茶とも
思える決定が承諾されたのも仕方のない事なのだろう。そんな事をぼんやりと考えながら、カーマインは震えの奔り出した己の手を
そっと見つめる。血が、通っていないかのような真っ白い手。それなのに紅く染まっているように感じるのは、罪の意識のせいか。
ぎゅっと、元から色素の薄い肌から色が失せるまで強く指先を握り込む。暗い、湿った空気を更に重くするかのような長い溜息が
桜色の唇から漏れ出た。そんな嘗てないほど張り詰めた彼の横顔を不安そうにティピが見つめる。何か、言葉にしなくてはと
焦れば焦るほど何も浮かんでは来ない。伸ばしかけた小さな手は、本人に触れる事なく、宙に留まる。

「・・・・・・ティピ」

しかし、そんな彼女に気づいたのか、金銀の印象的な眦を伏せ、頬に睫の影を落としていたカーマインが静かな口調で話しかけた。
大きな碧眼がはっとしたように見開かれる。ゆっくり、カーマインの前だけを向いていた顔が途惑いを浮かべたティピへと向けられた。
屹然とした鋭い異彩の瞳はティピと向き合うと優しく、そして何処か儚げに力をなくし、その変化に少女の胸はズクリと痛む。
言葉に出されるよりもよほど哀しい。膿んだ傷口にナイフを突き立てられているかのような無言の回答は全ての思考を奪って
しまいそうな気すらして。喉が、引き攣る。それでも発せられる一言一句聞き逃しまいとティピは小さな耳を欹てた。

「・・・・・ティピ・・・・どうしよう・・・・・・・どうすれば、いいんだろう」

ティピは我が耳を疑った。カーマインから発せられたその声は蚊が鳴くようなとてもとても細くて今にも消えそうな、初めて聞く音
だったから。何処か泣いているようにも見えた。けれど瞳には涙一粒すら浮かんではいない。余計に切なくなる。宙に留まっていた
小さな手が微かに震えている滑らかな頬に触れた。熱が、感じられない。死人より冷たい体温。それにビクリとティピは身体を
揺らす。心臓が痛いくらい収縮されるのが分かる。骨が、軋んだ気がした。

「・・・・・・なあ、俺はどうすれば・・・・いいんだろう」
「・・・・・・・何が?何を、悩んでんのよカーマイン」

噛み締めながら問い返された内容にカーマインの細い首は右に左に緩く振られ、何事かを口にしかけては何度も閉ざされて。
言葉にする事すら恐れているかのようなその仕種にティピは不審を覚えた。そして解する。いつも柔らかな微笑で飲み込んで
しまっている本音を吐露しようと、しているのではないかと。ならば、何があっても聞き出さねばならないと。ティピは瞳に力を
込めた。相手が、不安そうにしていてはきっと本音も弱音も吐き出せないと思ったから。それが功を制したのか、カーマインは
まだ戸惑いながらも少しずつ言葉を内から外へと運び出す。

「・・・・助けたいのに・・・・・俺は何も出来ない」
「・・・・・・どうしてよ、アンタなら・・・っ」

出来るでしょ、とは言い切れなかった。カーマインの両眼は見開かれ、蒼白だったから。唇は小刻みに震え、全身で否定している。
そんな事は出来ないと。何故、と問い返す事すら躊躇われるほどに。とても見ていられなくて、ティピは視界からカーマインを消す
ように下を向く。が、その事により新たな発見をする。先ほどから強く手を握り締めている事は知っていた。けれど、カーマインの
しなやかな指先は幻覚でも何でもなく、本当に血を流していて。紅い線がぷつりと玉を作ったかと思えば弾けて肌をなぞりながら
下へ落ちる。握り込まれた爪が、皮膚を破り出血しているのだと、そう気づくのに数秒掛かった。そして脳がそれを理解した途端、
ティピはその場の沈黙を打破するかの如く、身体のサイズにつり合わぬ大声を、上げる。

「ちょ、アンタ!何やってんの!!血が・・・」
「・・・・・・・・え?」

言われて初めて気がついたのかカーマインは自分の手を見下ろす。引き結ばれた拳からは紅い液体が何滴も何滴も滴っている。
金と銀の輝きが見開かれた。痛みも、感覚も何も感じていなかったから。力を、込めている意識はあった。けれど、立てた爪からは
痛みを感じられず、更に力を込め続けてはいたものの、やはり痛みを認知出来ない。しかし、自分が痛みを感じていなかったのに、
そこは紛れもなく傷つき、血を流している。それが、意味するところは・・・・・

「・・・・・・ぁ、・・・・れ・・・・」
「ちょっと、どうしたのよ。何でそんなに驚いてんの?自分でした事でしょ?まさか、気づかなかったの・・・・?」
「・・・・・・ま、さか・・・・そんな・・・・」
「・・・まさかってアンタ、どうしたのよ!ちょ、ねえ、カーマイン!?」

愕然と、という言葉が似合うような呟きを残し、ティピの制止も聞かずにカーマインは今まで掛けていたベッド淵から立ち上がる。
ぐるりと室内を見渡して、執務机の横に立てかけられた自分の愛剣の柄へと手を伸ばし、それを掴もうとしたが指先から柄が
すり抜けていく。スローモーションのようにゆっくりと握り損なった剣が床へと倒れ、大きな金属音を奏でた。その光景をティピは
眉根に皺を寄せて訝しむ。一旦は、剣の柄を握った様が見れたのに、それを取り落としたから。まるで、指先に力が入らなかった
とでも言うように。しかしそこまで思ってティピははっとした。もし、それがそう見えた、のではなくそうだったとしたのなら。

「・・・・・・カーマイン・・・・・?アンタ、まさか感覚まで無くなっちゃったの?」

恐る恐る、ティピが尋ねるとカーマインは何も答えない。ただ、床に転がった柄を確かめるように実に丁寧に握り直した。
若干、白い肌に脂汗が浮いているように見えるのは錯覚だろうかとティピは羽を広げ、カーマインのすぐ傍まで飛んでいく。
近くで見た彼はやはり汗をかいている。そして今まで見た事のない、厳格な表情を乗せている事に気づいた。そんなティピに目を
くれる事もなく、カーマインは握った剣を鞘から抜き放ち、露になった白銀の刃光をあろう事か、自らの腕に当て、一気に後ろに引いた。
止める、間もない。噴出した紅い体液が華の如く、空に散り凄惨な様子がティピの碧眼に強く焼きつけられた。

「・・・・・・・ぁ、・・・・な、にして・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・な・・・い」
「・・・・・・・え、何、・・・・何なのよ!?」

あまりにも細い声で聞き取れず、ティピは聞き返す。それに返ってくる返事はガランと無気力に落とされた剣の音だけ。
言葉は何一つとして戻ってこない。紅い溜りがカーマインの足元に築かれていく。そしてその上に全身の力が抜けたのか、
カーマインはぺたりと座り込んだ。何も映していない虚ろな瞳が床へと落とされる。その様は糸が切れた人形そのもので。ティピは
怪我を心配する余裕すら奪われた。ただ、動かないカーマインを黙って見つめる。それから、どれほど時が経ったか。広がった
血の痕から見ても恐らく数秒しか経っていない。それなのに、もう一時間は経ってしまったかのような、そんな長い間があった。
しかし、不意に首を動かしたカーマインによって覆される、自嘲を口の端に浮かべ、掠れた声が言の葉を紡ぐ。

「・・・・・・ふっ、・・・・・もう、痛覚も触覚もなくなってしまった・・・・・これじゃ本当に・・・・・」

人形だ、そう漏らしてティピが怒る間もなく、カーマインは激しく床に血塗れた手を叩きつけた。痛みは、やはりない。叩きつけられた
床に血の跡が擦れながらも伸びていく。滑稽だと、カーマインは笑った。心の底から。美しい顔がこの時ほど醜く歪んだ事はない。
そう言い切れるほどに醜悪な笑みを口元に履いていた。

「・・・・・この身体はもう、人としての機能もゲヴェルの私兵としての機能も果たさない。ただの、肉の塊だ」
「・・・・・・・ッ、やめなさい、そんな言い方!!」
「だってそうだろう?もう、剣も握れない、戦えない。彼を助ける事ももう・・・・。こんな俺に何が出来る・・・?」

分かるのなら、教えてくれと口に出さずとも眼差しで伝わる。ティピは何も答える事が出来ない。小さな手を握り締めた。
作られた存在、という点は一緒。身体が小さすぎて誰の、何の役にも立てないという点も一緒。一緒の筈なのに、気持ちが誰よりも
理解出来る筈なのに、何の言葉も浮かんでこない。それ以前に何か一言でも発しようものなら、カーマインが壊れてしまいそうな
気がして。ティピは今ほど自分を無力に思った事はない。普段なら止めようと思っても止まらない口が、微々にも動かない。
世界が終わった、とそんな言葉が脳裏を過ぎった、その時。

キィィン、と。
耳を劈くような耳鳴りが何処からともなく響いてきた。思わず、二人は同じ方向を見た。窓から窺える、北の森を。
ティピは知らないが、カーマインは知っている。そこが何であるか、誰がいるか、を。思わず眉間を顰めた。しかしそれは
一瞬後に驚愕へとすり替わる。皴枯れた奇妙な音が空間に、響いた。

「・・・・・・・・・ル・・・・・・」
「・・・・・・・・・え、何!?何て言ったの!?」
「ゲヴェル・・・・死んだ、この気・・・知ってる・・・・・・・・・・・・ェ・・・・ル」
「ゲヴェルが死んだ!?ちょっとそれどういう事、カーマイ・・・・・ッ!?」

ぽつりぽつりと。意味深な台詞を口にしたかと思えば、カーマインは何の前触れもなくその場に倒れ伏した。
糸が切れたというよりは巻かれた薇(ゼンマイ)が切れたかの、ように。

「カ、カーマイン・・・!?ちょっと・・・・だ、誰か誰かー!!早く来て、カーマインが死んじゃう!!」

息してないよ!!とティピは自分の立場すら忘れてカーマインの周りを飛び交いながら大声で喉が潰れるまで叫んだ。






◆◇◆◇






『お前は、釘をさしておいたのに私を裏切った。だから・・・・分かるだろう?』

数日前、カーマインと喧嘩別れした形になって三日後に医務室へと数人の部下を伴って現れた蜜色髪の少年王が口にした
言葉を何故か思い出す。自己の予想通り、宛がわれた罰は、もっとも残忍で己の死に様を人目に晒すという恥ずべきもので。
名のある貴族ならば誰もが嫌うそれ。公開処刑とは、このバーンシュタインという国では極刑中の極刑に値する。
名家と言われ続けた己が家名に泥を塗る瞬間を、本来ならばその姿を目にする事すら畏れ多い平民にまで見られてしまう。
そんな、刑にかけられる者をこれ以上なく辱め、更には国王、延いては王国を裏切るとどうなるか、という見せしめにも
使われる事になる。昔の自分なら恐らくそんな羞恥には耐えられなかっただろうな、とクスリとアーネストは笑った。

寄りかかった岩煉瓦が、冷たい。足元から冷え込んだ空気が流れ込んでくる。それと同時、薄暗く湿り気のある地下牢には
カビが生えてでもいるのか異臭が立ち篭めている。牢に入れられた当初はそれこそ嘔吐するほど苦しんだものだが、
知能のある生き物は次第に環境に適応し、順応する能力があるため、息をする程度には、慣れたものだった。単に嗅覚が
麻痺しただけかも分からないが。ふと視線を巡らす。檻の中から見えるのは松明と、地上へと繋がる扉、一面の壁、それだけ。
特に目を引くものもなく、常のように職務に追われる事もなく、ただ座り続けるだけ、というのは急がしい毎日を送っていただけに
とにかく暇だった。それゆえにどうでもいい事ばかり考えてしまう。それがとても不毛な事のような気がしてアーネストは
壁に身を預けた。だらりと力を抜いて。いっそ眠ってしまえばいいかとは思うが、寝床があまりにも埃塗れで眠れる気がしない。
結局日がな一日、壁に凭れてぼんやりとしながら自分に残された日々を送っている。カーマインを庇った際に負った傷は
流石に安定したのか痕は残っているものの痛みはもうない。手のひらを軽く握ったり開いたりしてみる。特に支障はなかった。
その事が少しだけ寂しいと感じるのは何故だろうかとアーネストは首を捻る。

「・・・・・ああ、そうか」

思い至って、笑う。どうやら自分は知らず知らずのうち、傷の痛みにカーマインの存在を感じていたのだと。苦しみの中にこそ、
彼は在ると。傍に、カーマインがいるような気がしていた、と。気がついてみれば単純で、失礼な話だとアーネストは思う。
そして醜い痕の残る傷口を改めて見た。痛みは消えても火傷の痕跡はそこにずっと残っている。緋色の瞳が嬉しそうに
細められた。それは自分が唯一愛しいと想う人を守れた証だから。同時に庇われた彼の心にも傷痕を残してしまったが。
その事を厭う一方で、どんな形であっても自分の存在があの綺麗な生き物の心に刻まれるのなら、なんて倖せな事だろうと、
そんな下らぬ事を考える妄執にも似た感情が同じ場所に確かに、在る。だから、自分が極刑になって良かったと、アーネストは
何処かで思っていた。これ以上狂う前に、裁いて欲しい、と。カーマインもひょっとしたらこんな気持ちで自分に狂ったら
殺して欲しいと言ったのかもしれないなと、また瞼に浮かんだ優しい金銀の眼差しに、アーネストの胸の内に温かな風が凪ぐ。

「・・・・・・恋情とは不思議なものだな」

こうも己を駆り立て、狂わせ、壊していくのに、一度視点を変えればこんなにも気持ちは和らぎ、安堵し、幸福を得る。
本当に不思議だとアーネストは呟いて瞳を閉じた。せめて死ぬその瞬間までは彼という存在を噛み締めておきたいと。
死への恐怖など微塵も感じさせず、それどころか倖せの絶頂にでもいるかのような表情を浮かべ安らいでいるアーネスト。
自分しかいない無音の世界で邪魔する者も特にいないだけあって物思いを暫く楽しんでいたのだが、不意に今まで
使われる事のなかった聴覚が荒々しい足音を拾う。何人もの兵が慌てて駆けているかのような騒がしさ。思わず閉じていた
瞳を見開き、不快そうに細い眉を吊り上げた。

「・・・・・・何なんだ、一体・・・・。刑の日取りでも早まったか?」

そんなわけはない。いくら国王といえど段取りと根回しを踏まずに極刑を執り行なえない。公開処刑ともなれば尚更だ。
多くの観衆を一箇所に集うならば、その場所を管理する者に許可を得ねばなるまいし、触書も用意せねばならない。
他にもありとあらゆる部署に許可を申請せねばなるまいし、刑の執行を取りやめる事は出来ても早める事は何人にも許される
筈がなかった。では、何だとアーネストは思考を巡らせる。またローランディアの連中が攻めてきたのだろうか。
いや、彼らも自分には及ばずともそれなりの怪我を負っているのだからこんなに早く来る筈もない。アーネストは考えられる
あらゆるパターンを思い浮かべるもののどれもしっくり来ない。仕方なく情報収集のため、もう少し聞こえてくる雑音に
意識を持っていく。しかし、それは地上へ通じる扉が開かれた瞬間に意味をなくした。

ギィィィ

重く、立て付けの悪いドアがゆっくりと軋みながらも開かれていく。一筋の光が開かれるドアに比例して大きくなる、そうして
開かれたドアから窺えるのは何段にも及ぶ暗い螺旋階段をわざわざ下ってきた者の姿。初めは見張りかと思ったがそうでは
なかった。栗色の短髪に、琥珀色の瞳、白と蒼の制服を纏った長身の青年がドアの傍近くに立っている。アーネストは彼に
見覚えがあった。というよりもなければおかしい。その人物は嘗ての自分の部下であったから。

「・・・・・お前は・・・エルマ=フィッツジェラルドか?」
「・・・・・・覚えていて下さったのですか、ライエル様」
「当たり前だ。自分の部下を忘れるほど落ちぶれてはいないつもりだ」

何故、彼が自分のところへ現れるのか嫌疑しながらも、部下であるのだから、ひょっとして自分の処分を聞いて最後の別れの
挨拶に来たのかもしれないと、何とかアーネストは平静を保つ。そんな彼に構う事もなく、青年は一歩一歩近づいてくる。
久しぶりに見た部下のその顔は何処か青白い。この場所が薄暗いのもあるだろうが。

「・・・・・暫く、見ないうちに少しやつれたか?」
「・・・・・・・・貴方が、公開処刑に処されると聞いてからは一睡も出来ておりません」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「勘違い、なさらないで下さい。貴方を責めているわけでは・・・。ただ、私は・・・・・」

青年はそこで一度言葉を切る。何か躊躇うようにして、しかしぎゅっと自分の手を握り締めると覚悟を決めたかの表情で口を開く。

「恐れながら、申し上げます。私は・・・・・今の陛下は横暴すぎると思っております」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
「だから、ライエル様が命令反故を犯しても仕方のない事だと・・・・思います。貴方はいつだって公正で潔癖でお優しいから」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・買いかぶりだ」
「・・・・!そんな、事は!私はいつも貴方に憧れておりました。だから分かります、貴方がどういう方かもちゃんと・・・・」

アーネストは聞いていて何だか居心地が悪かった。自分は今こうして罪を問われて投獄され、数日後には処刑が待ち構えて
いるというのに、目の前の青年はまるでこの罪人を聖人君子か何かのように褒め称える。自分はそんな出来た人間などでは
ないのに、と。数日前にカーマインに告げた事と全く同じ言葉が脳裏を過ぎった。

「・・・・・・エルマ、私は間もなく罰せられる人間だ。滅多な事を言うものではない」
「・・・・・・・はい、分かって、おります。けれど私は憧れである貴方にこんなところで死んで欲しくはないのです」
「・・・・・何?」
「今なら、城内は混乱しています。逃げる事は、恐らく可能でしょう」
「・・・・・混乱?一体どういう事だ。上で何が起きている」

部下の気になる発言を問い返せば、戸惑いながらも応えが返される。

「・・・・原因は、不明ですが突然陛下とフォルスマイヤー殿がお倒れになられたのです」
「・・・・・・・・なんだと!?」
「・・・・陛下は、まだ意識がはっきりされてますが、苦しそうに魘されておられ、フォルスマイヤー殿は危篤、だそうです」
「・・・・・・・・そんな、まさか・・・・・・もう・・・・・・?」

リシャールの事は分からないが、カーマインの事は何となく推測出来る。きっと限界が来たのだと。
ずっと隠しているようだったが、恐らくあの咳をしだした頃から急速に身体が悪くなっていったのだろうと。平静を
装って自分の見ていないところではたった一人で苦痛に耐えていたのだろうと。それを思うと、悔しさが込み上げる。
何故、自分は気づいてやれなかったのか、後一歩踏み込んでやらなかったのか。知っていたところで何が出来た筈もないが。
しかし少なくとも傍で支えてやる事は出来た。なのに、気づけなかったためにそれすら出来なかった。唇を噛み締める。
アーネストは悔やむだけ悔やむと、自分を見下ろしている青年の顔を見た。

「・・・・エルマ、お前は私を逃がしに来たのか?」
「・・・・・・はい、ライエル様をお助けしようと・・・・・・」
「ならば、この牢の鍵を外し、武器をくれ。私はどうしても行かねばならぬところがある」
「は、はい・・・・只今・・・!」

元気よく告げて青年は持っていた牢の鍵を慌てた様子で取り出し、中腰になって南京錠へと鍵を差込み、外そうとする。
しかしその瞬間、彼の背後からとんでもなく強い瘴気を纏った烈風が吹き荒れた。圧し掛かるような殺意がひしひしと
伝わってくる。一体何者か、アーネストは精神を研ぎ澄ませながらも、言う。

「・・・・エルマ、向うの壁に隠し通路がある、そこからお前は逃げろ」
「え、それは・・・・どういう・・・、グアッ」
「!エルマ!!」

一足、遅く。逃げるよう忠告した青年はただの肉塊に成り果てた。彼の背後から現れた人物によって殺害されたのだ。
その人物の姿を見てアーネストは驚愕する。あまりにもそこに立っている人物は意外な者であったから。

「・・・・・・ヴェン、ツェル老師、何故貴公がこのような場所に・・・・・・?」
「何、ちょっとした用事のついでにな」
「用事・・・・?私を殺すつもりか・・・・?」
「いいや、その逆だ。どうやらお前はリシャールに捨てられたようだが・・・まあ捨てる神がいれば拾う神もいるという事だ」
「・・・・・・・・・何?」

カツリと長靴が鳴る。ヴェンツェルが一歩足を前に踏み出し、立った姿勢のまま床に転がっている自らが殺した青年を
軽く見遣り、それから不審そうなアーネストへと視線を移す。

「儂は長らく儂を支配し続けていた憎き化け物をついに討ち倒す事が出来た。晴れて、自由の身というわけだ」
「・・・・・・憎き化け物・・・・・ゲヴェルか。では陛下が倒れたというのは・・・・・」
「そうだリシャールを初めとした奴の私兵は悉く命の供給源を失い絶命していく事だろう」
「・・・・・・ッ、それで何故私のところへ現れる?目的は一体何だ・・・・・!?」

アーネストの尤もな質問に不敵な笑みが返される。以前顔を合わせた時とは違う嫌な気が目前の老人には漂っていた。

「お前は知らぬだろうが私はゲヴェルに支配される前はある世界の君臨者であった。ここまで言えば、分かるだろう?」
「・・・・・・・邪魔者が消えたから、また以前のように君臨者に返り咲きたいと・・・?」
「そういう事だ。そしてそれをするには手駒が足りない」
「・・・・・・私に貴公の手駒になれというのか」
「そうだ。歴代のインペリアルナイトの中でも最強と謳われたお前の腕は惜しい」

その言葉にアーネストは鼻で笑った。本当におかしかった。自分をあの時殺そうとした男が何を言うのか、と。
そして自分がそんな簡単に言う事を聞くと思われているのかと思うと腹が立った。

「貴公の望みは分かったが、私には関係ない。私にメリットがあるとも思えない」
「メリット・・・?儂の駒となれば少なくとも今死ぬ事はないぞ・・・・?」
「別に私は死など恐れない。突然現れた男の言いなりになるくらいならこのまま死んでいい」
「フン、やはり一筋縄ではいかんか。ならば、これならどうだ。儂の手駒になるならどんなものであっても望みを一つ叶えよう」
「・・・・・・・・・・・!」

ぐらりと世界が揺れた気がする。脳裏では先ほど絶命した青年が残した言葉が何度も過ぎっていた。それは彼の安否。
危篤だという事は放っておけば数日のうちに死ぬという事だ。彼の場合、病気というわけではないから医師の手によっても
延命は望めない。ただ、死を待つ事しか出来ない。どうしようもない孤独の中で、苦しみながらたった独りで。
それはどうにも耐えられなかった。あの青年をたった独りでなど死なせたくない。一日でも長く生きていて欲しい。
そして出来るのなら自分の傍に在って欲しい。そんな願望は叶わないものだと思っていた。けれど、今目前に立っている
老人ならばそれを叶えてくれるかもしれない。アーネストの心はみるみるうちに傾いていく。そうして悩みに悩んで彼は重い口を
開いた。それを見て老人の口元がニィと卑しく持ち上がる。

「・・・・・どんな願いも叶えられるのか」
「ああ、可能な限り叶えてやろう。これは正当な取引だ、アーネスト=ライエル」
「・・・・・・・ならば・・・・・・・ならば・・・・・・・・」

何度も、口籠る。それはこの男を野放しにしてはならないという良心と己の醜悪な欲望が拮抗して戦っているから。
しかしどんなに理性で押さえても、願いは到底覆される事はなかった。

「・・・・・頼む、彼を・・・・・助けてくれ・・・・・・」
「・・・・・・・彼、とは?」
「・・・・・カーマイン=フォルスマイヤー。リシャール様と同じくゲヴェルの私兵として作られた・・・・・・ホムンクルスだ」
「・・・・・・・それが、お前の望みか」
「そうだ。それさえ叶えてくれるのならば。私は貴公のどんな命にも従おう。それが例えどんなに汚い仕事でも」

アーネストは噛み締めるように声を吐き出し。頭を床に垂れた。プライドも何もかもかなぐり捨てて、土下座していた。
本当にどんな事でもするつもりだった。彼さえ、生きていてくれるのなら。親友を、殺せと命じられてもきっと自分は
従うだろう。彼の命を守るために。どうせ、リシャールの下についていても命じられる内容はそう変わらなかった。
狗の如く扱われるだけ。そしてヴェンツェルにつくという事は飼い主が、変わるだけ。ただ、それだけの事。

「・・・・・・・いいだろう。お前の覚悟に免じてその望み、叶えてくれる。では、儂について来い」

ヴェンツェルの言葉と共に牢の鍵がひとりでに開いた。そして檻の戸も自動に開かれる。アーネストはゆっくりと身を起こすと
立ち上がり、一歩前に出る。それから数刻前に新たな主がしたように転がった躯を見た。彼が殺される瞬間は怒りが沸騰
したというのに今は何も感じない。黙って、牢を出た。何かが狂っていると気づいてはいたがアーネストは敢えて無視した。
これからはそんな人間的思考などきっと抱かせてはもらえない。機械のように扱われるのだろう。だから、無駄な正義感や
倫理観はここで捨て去ってしまおうとアーネストはいつかリシャールがしていたようにとても美しく醜い哂いを敷いた。


どこまでも堕ちてやろう。
どうせ世界は狂い始めているのだから。
彼が生きられるのなら、地べたを這い泥に塗れた狗になってやる。




―――光の下を歩いていた筈の男は、いつしか闇の道へと足を踏み入れていた。







何もかも、狂っていく。

崩壊しだした世界と共に音もなく。

正常が何であったかなんて覚えていないから。

狂気の道をただまっすぐに。

行き着く先は地獄でも隣りにあなたがいるのなら。

それは至上の幸福となるだろうと叫ぶ堕ちた狗の目には何が映るのか。



―――隣に立つあなたには見えますか・・・・?







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う、今回も長いです、そして初めての名前があるオリキャラが。
即行で死んでますが(殴)一人くらいアーネストを慕って逃がそうとする部下も
いるかな、っと言う事で何となく出してみました。別にいらないっちゃあいらないですね(爆)
はい、次回はバーンシュタインもローランディアも出てくるかと思います。
今回で不明になった点の補足がきっとメインです。うん、入れると長くなってしまうので
次回に回してみました。あと何回くらいで終われますかね・・・・。

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