『思い出せ、満月の夜。
思い出せ、お前が何者であるのか。
思い出せ、お前に課せられた使命を・・・・』

記憶が一瞬戻りかけたせいか、疲れているはずなのにアーネストは夢に誘われた。
頭の中に重い声が幾重にも木霊する。とても不快な響き。目を伏せて、耳を閉ざして暗闇に堕ちてしまいたくなる衝動。
少し伸びた爪先が苦痛の解放を求めて衣服の上を掻き毟る。紅い瞳からは今にも正気が失われそうで。
薄い布の下、腕の付け根に刻まれた黒白の蛇のタトゥーが不気味に光る。

『思い出せ、何のためにお前はそこにいるのか。
思い出せ、その身に刻まれた蛇の意味するものを。
思い出せ、そして―――を――――せ』

虫喰われた古書のように、ところどころ抜け落ちた言葉が脳裏を貫き、やがて消える。
問われた事に何一つ答える事も出来ないまま、いつものようにアーネストの意識が白み、浮上していく。
ただ一つ分かった事は自分がこの場所にいる事はどうやら成り行きではなく必然の事であったのだろうという事。
それは一体何を示しているのか。一つ解消し、また一つ生じた疑問に夢の去り際、アーネストは小さく舌打ちをした。



十六夜の記憶



ぱちり。

緋色の眼差しが姿を現す。最早当然のように額には多量の汗を掻いていた。
身を起こし、ギシギシと悲鳴を上げる身体を伸ばしつつ、クローゼットに手を掛ける。
今までは使用人の服を借りていたが、客人にそのような格好をさせるわけにはいかないと、この屋敷の執事長に
新たな服を用意されたのでそれに袖を通す。手の空いている時はカーマイン自らが世話をしてくれるが、
そうでない時はもっぱらその執事長にアーネストは世話になっていた。

「アーネスト様、ミネルヴァでございます。開けても宜しいでしょうか」

着替えを済ませたところでノックと共に恭しい口調が室内に届いてくる。どうやら今日はカーマインは忙しいらしい。
今日からまた仕事が始まるのだから当然だ。ドアの外ではきっと几帳面で少し神経質そうな執事長が
アーネストからの返事をぴしりとした姿勢で待っているのだろう。返事をしないからといって怒られるわけでもないが、彼にも
彼の都合というものがある筈なのでアーネストは完結に応えた。

「どうぞ」

応えを受けて静かにドアが開かれる。思った通り、背中に直定規でも差しているのではないだろうかと思うほど
まっすぐな姿勢で執事長ことミネルヴァが中へと足を踏み入れてきた。マリンブルーの短髪を丁寧に纏め上げ、銀のフレームの
眼鏡を掛けた長身の彼は年齢こそアーネストより五、六歳上程度の若者だが、不思議とその若さに似合わず、
執事という肩書きが板についている。顔つきも精悍でいて端正で男も女も惹かれるものがあった。
それがアーネストにとって少し蟠りを残す。こういう人間がすぐ傍にいて、カーマインは何とも思わないのだろうか、と。
いや、勿論自分が少数派の人間であるというのはアーネストも自覚している。男に惚れる男は相当稀だ。
そうでなければこの世界はとうの昔に滅びているだろう。男は女に惹かれ、その逆も然りでなければ世界が成り立たない。

(馬鹿な事ばかり考えていても仕方ない・・・)

ミネルヴァに見られぬようにアーネストは小さく息を吐いた。それから眼鏡越しの冷涼な碧眼を見遣る。
何の用か、そう尋ねる視線に気づいたミネルヴァはうっすらと薄い唇に笑みを乗せ。

「本日若君はいらっしゃいませんので御用の際は私めに仰って下さいとお伝えしようと・・・」
「カーマイン・・・殿は今日は帰られないのか」
「はい、城の方へ火急の用事があると。ああ、それからアーネスト様にお届けものです」

懐から何か小さなカードのようなものを取り出すとミネルヴァはアーネストに手渡す。

「これは・・・・・通行証?」
「ええ、バーンシュタインからの通行証のようですね。貴方が最初に保護された兵舎から届きました。
貴方の持ち物のようです。それともう一つ剣を預かっているのですが・・・お客人とはいえ主の不在に武器となるものを
お渡しは出来かねますのでご容赦頂きたい」
「・・・・・剣」
「二振りの銀剣、ですね。護身用にしてはかなり使い込まれているような・・・ああいえ、出過ぎた事を申しました」

恭しく頭を垂れるとミネルヴァは機械のような正確さで首を動かし、時計を確認すると全く無駄のない動きで
踵を返す。どうやら次の用事があるらしい。主が留守ともなれば忙しさは常の倍となる。自分にばかりかまけていられない
だろうとアーネストは小さく会釈し、彼を促す。

「剣の事は若君がお帰りになってからお聞き下さいませ。それでは私は朝食の用意がありますのでこれにて」
「・・・・・そうさせて頂きます。わざわざ有難うございました」

来た時と同じように一礼し、ミネルヴァは部屋から出て行く。残されたアーネストは手の上の通行証をじっと見下ろす。
バーンシュタインからの通行証があるという事は自分はバーンシュタインの人間なのだろうか。
だとして遥か東の国からこんな最西の街に一体何をしに来たのだろう。わざわざ国を越えてまで。
考えられる可能性としてはこの街の景観や娯楽施設を目当てにした観光というのが考えられるが、それは違うような
気がする。あくまでも勘のようなものだが。むしろ、誰かに会いに来たような・・・・。

(・・・・・誰に?)

遥々、遠方から誰かを訪ねて来たにしては、手土産一つないのもおかしい。改めて自分の事を不審に思う。
おまけに使い込まれていたという持ち物の剣。旅人、と考えれば剣が使い込まれていてもさほど不自然ではないが、
旅人とするにも持ち物が少なすぎる気がした。せめて衣料や食料は持っているべきだろう。それらがないというのは
まるでこうして手厚い対応をされるのが分かっていたかのような・・・・。

(分かっていた・・・?何故・・・まるで今こうしている事が作為的なものに感じる)

けれどそう思えば一つ納得出来る事がある。それは自分が会いに来た相手がカーマインだった場合、だ。
カーマインは本来この街の領主であり、ローランディア王国の騎士でもあり、更には三国を通じる特使でもある。
当然そんな人物に一般人が簡単に会う事は叶わない。面倒な手続きをして、国からの認可が必要となる。
けれど不測の事態につき、彼本人が容認したとなれば手続きなしで会う事は可能だ。それをアーネスト自身が証明している。
もし、アーネストが記憶喪失になっていなければ、最初にアーネストが保護されていた兵舎の代表にでも調書を取られ、
紙面上の手続きで身の振り方を決められていただろう。扱いの分からぬ人間だったからこそ、カーマインが出て来たのだ。

(そうなのか?俺は・・・・)

カーマインに会うために、そしてその上で何か目的を果たすためにここまでやって来たのか。そういえば夢でも言っていた。
『思い出せ、何のためにお前はそこにいるのか』と。少なくとも手当てを受け、平穏に暮らすためではないだろう。
何かあるのだ。ここにいる理由が。そして夢はそれを思い出させようとしている。毎日、少しずつ情報を与えて。
そう思うと、自分は記憶喪失になったのではなく、意図的に記憶喪失にされたと考える方が自然だ。後々、この屋敷に
潜り込めるようにと。まるで間者のようだ。いや、まるでではないのかもしれない。夢にいつも出てくる謎の男。
あの男に自分はカーマインの間者として送り込まれたのかもしれない。

カーマインは特使として三国のあらゆる情報に精通している。それは彼の働き振りと国から寄せられる信頼から
誰でにでも分かる事だ。それを利用しようと目論む連中も少なくはないだろう。情報を制すれば国を制する事もそうそう
不可能な事ではない。勿論、それ相応の技量が必要とはなるが。それ相応の技量さえあれば、情報は喉から
手が出るほど欲しい筈。半ば断定的になってきた推測だが、それには一つ穴がある。

「俺がバーンシュタインの間者だとして・・・記憶喪失ではまるで役に立つまい・・・・」

そう。どんなにカーマインと傍近くにいても、本人に間者だという自覚がなければ情報を得ていても何の意味もない。
実際、アーネストはカーマインから国に関する情報の一つも得ていなかった。世間話程度の事は聞いているが、
それ以上の事は何も知らない。役立たずもいいところだ。では何だというのか。間者でないのなら。
例えそうでなくとも、このカーマインとの出会いは偶然ではなく誰かにとっての必然性を感じてならない。
何のための必然か。誰のための必然か・・・・。

「・・・・十六夜」

忘れていたが、夢では『満月の夜』、というフレーズが出て来ていた。満月の夜に思い出せと。満月自体にはさほど
意味はないのかもしれない。ただ単に、分かりやすい期間の限定の仕方なのではないだろうか。新月の夜から満月の夜に
かけて記憶を封じている、と。そういう類の魔法や呪いがあるのかもしれない。むしろ記憶を取り戻しかけたあの瞬間の
苦痛を思えば呪い、の可能性の方が高いか。

どれも推測の域を出ないが、どの道、自分が不審である事に変わりない。
不意に出て行った方がいいのではないか、という気になる。カーマインに迷惑を掛ける前に。
どう転んでも、恐らくあと三日しかここにはいられないだろうから。ほんの少し、別れが早まるだけで済む。
嫌われてしまう前に、出て行けば。今ならカーマインもいない。顔を合わせさえしなければ、そう心が揺らぐ事もないだろう。
荷物も元よりない。身一つしかないのだから、すぐさま。

「・・・・・・・・」

何処へ行く当てもないがアーネストは戻ってきた通行証を手に、出て行く事を決心した。屋敷の人間に見咎められる事が
ないようにと、ドアからではなく窓から外に出ようと足を掛ける。一階ならばなんて事はないが、ここは二階。
常人ならば臆するところだろうが、不思議とアーネストは躊躇わなかった。身体が覚えているのだ。記憶にない、
自分の身体能力を。ふわり、身を空へと投げ出す。土を柔らかに踏みしめる。一分の隙もなく軽やかに。

「・・・・・・・・・・」

全く、本当に何をやっていたのやら。自分自身が何者か、分からない事がここまでくるといっそ笑える。
口端が歪んだ。ゆっくりと後ろを振り返れば、聳え立つ城の如き広い屋敷。こうして見るとよく跳べたものだ。
一息吐いて、着地した際に舞った埃を払いながら、門を開けて屋敷を出ていく。十一日間を過ごしたと思うと名残惜しい。
脳裏をカーマインの姿が過ぎる。途端に胸が苦しくなっていく。首を絞められたように息苦しい。
それでも振り切るように首を振り、領地そのものからアーネストは姿を消した。いや、消そうとした。

けれど。

「・・・・・・・ッ」

先ほど感じた以上の苦痛が脳から全身を過ぎった。これは、精神的なものからくるものではなく、何か外部的要因が
働いていると分かる。そう、記憶を取り戻しかけたその時のように。心臓を踏み潰されたらこんな風に痛むだろうと思うほど、
額と言わず全身から汗が滴る。体中が、この街から出る事を許さないとでも言うかのように。それでも出て行こうと
這ってでも前に進もうとするが、指先が痺れて動けない。頭が割れるように痛む。呼吸が切迫して呻く事すら出来ない。
視界がぼやけて世界が滲み、様々な色が混じり、やがて黒く染まる。

(・・・意識が・・・・飲まれる)

苦しさが、全てを凌駕した瞬間、アーネストは意識を手放した。



◇◆◆◇



『思い出せ、満月の夜。
思い出せ、お前が何者であるのか。
思い出せ、お前に課せられた使命を・・・・』

いつもの夢が囁く。

『思い出せ、何のためにお前はそこにいるのか。
思い出せ、その身に刻まれた蛇の意味するものを。
思い出せ、そして―――を――――せ。
それを忘れるな、責務を果たせ、お前は・・・・・』

逃れられはしない―――

声が、強制力を帯びる。
アーネストの行動を咎めるように。
腕の蛇がメリメリと骨にすら刻まれていく。
激痛に、夢の中ですら悲鳴を上げそうになる。
視界が血の色に染まった。

お前は誰だ。
俺に何をさせようとしている。

声にならぬ声で叫んでも答えは返らない。
ただ不愉快な笑い声が響くだけ。
大きな力に捻り潰されるような圧迫感。
それに耐えられず暗闇の縁に堕ちて行く、自分。

最後の瞬間。
助けを求めるように手を伸ばし、
アーネストは自身の乞う光の名を呟いた。



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次で終わるはず・・・!(ヲイ)
もう結末が見えてるのがアイタタターです。

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