ずっとずっと、自分は焦がれ続けていた。 影に包まれた自身を照らし出してくれる、穢れなき光を。 求めて、求めて、ひたすらに手を伸ばし続けていた。 そしてやっと、この手で触れられたのに。 全てが終わろうとしている。 まだ、始まってもいなかったのに・・・・・。 ―――十六夜の夜 十六夜の記憶 「・・・・全く、勝手な事をしてくれたものだ」 夢の中で何度も聞いた声が、遠くからアーネストに向けられた。 侮蔑と憤りを混じえたそれはまるで蛇のような、ねっとりと絡みつく不愉快な音として耳に残る。 カーマインの優しい語り口とは掛け離れた、むしろ正反対な印象。闇の領域に住まう者のそれだった。 そしてその声は、アーネストにとって馴染み深いもので。そう遠くない過去、ずっと耳にしていた、身体が覚えている。 つまりは、アーネスト自身も闇の領域の住人だったと言う事か。忘れかけていた本能が訴え掛けてくる。 恐ろしい悪魔に見出されて、穢れた道を歩んでいたものの。ずっとその本心では光に焦がれていたのだと。 目を塞がれて、退路を塞がれて、それでも足掻いていたいつか。けれど結局逃げ出せず、闇に囚われていた自分。 焦がれた光に触れる事も叶わず、底なし沼のような闇の淵へと堕ちて行くだけの日々、惰性。 常に血の匂いだけが付き纏い続けていた、過去。 急速に忘れていた何かを思い出していく。いっそ忘れていた方が幸せだと思えるほどに血生臭い記憶たち。 いつかの千切れた薔薇の花弁。あれを見た時に呼び覚まされた何かの正体が漸く分かる。 何か――それは人の身体から、否・・・自分が刺し貫いた死体から零れ落ちる生命の名残――血だ。 滴るそれは絶命の瞬間を嫌というほど思い起こさせる。不気味な肉を断つ音、悲鳴、感触、生暖かい返り血、死の匂い、 妙な高揚と、相反するように自分を浸す虚無感、罪の意識。それら全てが一連となって自分に襲い掛かってくる。 一番恐ろしいのは、それを何度となく繰り返した己自身。 カーマインが薔薇の棘で血を滲ませたその瞬間。アーネストはとっさにその血を舐め取った。 当時は何故そのような行動を取ったか分からなかったアーネストも今の記憶でその理由を何となく察する。 怖かったのだ。血を見る事が。正確には、血を見て湧き上がる自分の本性を思い出す事が。そしてそれを カーマインの目に触れさせる事が。だから、逸早くそれを自分の視界から消したかった。それ故の行動。 結局、直接的ではないにしろ薔薇の花弁の散る様で、その隠したかった自分を一瞬、思い出しかけたのだが。 どうやらどれほど足掻いても、結末はたった一つに向かっているらしい。夢の中、アーネストは自嘲する。 今も尚、蛇が命じる。 人の命の終わりを。衝動が働く。それしか生きる術を知らなかったからだ。 殺さなければ、殺される。少なくとも自分はそういう世界に生きていた。 光を求める事すら、おこがましいほど堕ちた世界で。 いつか、解放される事を願って、祈って。 そして・・・・ ああ、目が覚めるのが怖い。 もう何も知らない自分ではないのだ。思い出してしまった。 自分の存在の意味を、今ここに居る目的を。 (思い出したくなかった・・・・) だから、こうして逃げ出したのに、蛇はそれすら許してくれないらしい。いつの間にか汗も引いたアーネストの身体に 誰かが触れる。腕に刻み付けられた悪魔の使いの証の上を緩く。それからまた、遠く、声がする。 心の奥深く、侵食するかの如き冥い、声。 「・・・・また余計な真似をされては困る。新しい呪いを掛けてやろう」 ずきりと、アーネストの腕は痛んだ。タトゥーに、より正確に言うのならば二匹の絡み合う蛇の白い方に ナイフの刃が突き立てられる。まだ眠りの淵にいるおかげで覚醒時に受ける痛みよりはマシだろうが痛い事には 変わりない。目を閉じた状態で白眉がぴくりと吊り上り、眉間に皺が寄った。 一方、じわりと傷口から赤い雫が滴り、白い蛇を汚す。それは言うなれば善悪の『善』を司る方で。 血に汚れた蛇は徐々にどす黒く変色し、やがて白と黒だった蛇は双方とも黒いそれと化してしまった。 勿論、白が『善』の意だったならば、黒は『悪』を意味する。 「お前の中の白い蛇は消えた。あとはその時が来るまで眠り続けるといい・・・・」 目が覚めた時、お前は本当のお前になれるだろう、と狂ったような嘲笑が耳に残る。 酷く気に障る、けれども抗い難いそれ。まさに、悪魔に等しい。人の悪の芽を呼び起こす、危険な。 焦がれた光をやっと見つけたと思ったのに、アーネストの指先は無情にも何も掴む事なく床に垂れる。 そしていつしか、夢の中の男の声も気配も完全にその場から消えていた――― ◇◆◆◇ 藍の空に月が昇る、刻限の時。 夜闇に食い尽くされた身体を取り戻したフルムーンは、いっそ誇らしげに輝き。 一人の男の運命を静かに、凶悪に、残酷に狂わしていく。 あれから、アーネストが屋敷から抜け出してからどれほどが経ったのか。 領地の入り口間近で倒れてしまった彼にそれは分からなかった。ただ、ずっと恐ろしい夢を見ていた。 途中からそれが夢なのか現実なのかも分からなくなるほどのめり込んで。身体が鉛のように重い。 具合が悪いわけではないのに、起き上がれない。まるで誰かが目覚めを妨害しているかの如く。 ひやり。剥き出しの額に冷たい何かが触れる。あの男の手ではない。もっと、優しい接触。 こめかみをなぞって、髪に触れる、ひどく穏やかな。母胎の中を思わせる指先。 心地よい波が押し寄せて自分を浸す、そんなイメージ。アーネストは触れているのが誰か分かって、口元を緩めた。 安堵する。欲しかったものがそこにあって。けれど、アーネストは知ってしまった。 この柔らかな時が、次に自分が目を開く瞬間、失われるであろう事を。 (時が止まればいい・・・・) そうすれば、終わりは来ない。けれどそんな事は有り得ない。決して起こりえぬ事を夢見ていられるほど、 アーネストは愚かでもなかった。刻一刻と、期限が迫っている。眠っていても、それは分かった。 身体中の血が、解放を求めて騒いでいる。闇に染まった人殺しの血。何処かで悪魔がせせら笑った。 逃れられはしないと。お前も立派な悪魔だと嘲って。 (・・・・どうして俺は、あの手を跳ね除けられなかった・・・・?) 今となっては、無意味な後悔。遠い昔、悪魔の手を取ってしまった自分への激しい嫌悪感。 もしあの時に光を見つけられていれば自分は今、こんな道を歩んでは居なかったのだろうか。問いかけても応えはない。 やはり今更なのだ。何を思っても。出来る事なら目が覚める前に殺して欲しい、それはアーネストの切実な望み。 このまま死んでしまえば、あの光が消える事はない。何よりも愛おしい光は変わらずに輝くだろう。 誰か心臓に錆びたナイフでもいい、突き立ててはくれないか。有り得ない事を夢想し続ける、今は動かない身体。 (殺したく、ない) それが自分に課せられた使命だとしても。それが今後得る、自由への条件だとしても。 一生、悪魔の飼い犬でも構わないから、彼だけは、殺めたくない。そんな我侭を言えた立場でない事は重々承知している。 それでも、それでも願う事は罪に値するのか。するのかもしれない。今まで奪った命を思えば。 アーネストは苦悩した。けれど、その苦悩も無意味なものとなる。 鐘が、響いた。 呪いの開封。 閉じられた紅い瞳が、開く。 「・・・・・なんだ、この鐘の音?」 どうやら、最初の日のように領地内で倒れたアーネストを、再び介抱してたのだろうカーマインが突如何処からか 鳴り響いていくる鐘の音に反応した。こんな、頭が割れそうなまでに響き渡る鐘の音などカーマインは知らなかった。 そのせいでずっと眠り続けていたアーネストが目を醒ました事に気がつかない。 二匹の黒い蛇が囁く。 この、カーマイン=フォルスマイヤー領『シア』にやって来た理由。 封じられた記憶、隠された正体。 それらの全てが満月の夜、鐘の音と共に暴かれる。 『思い出せ、満月の夜。 思い出せ、お前が何者であるのか。 思い出せ、お前に課せられた使命を・・・・』 頭の中で声が響く。 『思い出せ、何のためにお前はそこにいるのか。 思い出せ、その身に刻まれた蛇の意味するものを。 思い出せ、そして・・・・』 いつも夢の中で聞き取れなかった言葉が漸く鮮明に。 知らず、覚醒したアーネストはそれを口にしていた。 「・・・・フォルスマイヤーを、殺せ」 「!」 微かな呟きを聞き取って、カーマインはアーネストを振り返った。彼がここにいて、外には満月が昇っている事から アーネストは三日間眠り続けていた事を知る。けれど、今はそんな事はどうでもいい。腕に刻まれた蛇が邪悪に輝き、 身体を突き動かす。警戒に見開かれた異色の双眸が目に留まって微笑む。綺麗な色だ。暗闇の中でも その存在をはっきりと伝えてくる。そして、思う。 (殺したら・・・・手に、入る・・・) 右目の金も左目の銀も。きっとどんな宝石よりも煌いて。では、血はどうだろうか。やはり鮮やかな紅い色だろうか。 紅玉のように美しいだろうか。妄想のように期待は膨らむ。一気に破壊衝動が込み上げて、また笑み。 何か信じられないものを目の当たりにしているかの如く、目を瞠ったまま動かないカーマインにアーネストは手を伸ばす。 細い、細い首に指を絡めて。自分が寝かされているベッドの上へと引き倒し、それからよく顔が見えるようにと 体勢を入れ替え、いつの間にか血色の瞳は領主の青年を見下ろしていた。 「・・・・・アーネスト?」 震えた声。 「・・・・寝ぼけている、わけではない・・・か・・・・」 じっくりとアーネストの様子を窺ったカーマインはやがて落ち着いた台詞を漏らし、諦めにも似た自嘲を零す。 その表情は、カーマインがアーネストの正体を思い出している時のそれ。ずっと、いつかはこうなる事に彼は気付いていた。 なのに、カーマインはアーネストを傍に置き続けた。死に急いでいたわけではない。ただ・・・。 「君は、俺を殺す為にここに来たんだろう?」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「白と黒の蛇・・・悪魔の使いを意味する印・・・・シャドーナイトの証明、違う?」 「・・・・・・・やはり、知っていたか。カーマイン=フォルスマイヤー」 冷たく名前を呼ばれてカーマインは目を伏せた。今自分の瞳の中に映るアーネストは自分の知るアーネストではない。 一種の現実逃避か。伏せられた長い睫毛はそっと震えて。細い首に当てられた手が徐々に力を込めてくる。 首が、締まる。呼吸が切迫し、意図せずに舌が唇の隙間から顔を出す。眉間に寄せられた皺といい、艶っぽく。 まるで情事の最中のように。アーネストの性感を煽る。 「・・・・・ぅ・・・・ぁ・・・・っぅ」 「・・・・お前の死に顔はさぞ美しいのだろうな」 「・・・はっ・・・・・ぁ・・・・」 応える余裕も、跳ね除ける力もカーマインにはなかった。むしろ、抗う様子さえない。殺される事を、 受け入れたかのように。息が出来ないまま、喘いで、漆黒の髪を散らばせる。きつく結ばれた瞳からは生理的な涙が 滲み、やがて頬を伝って落ちる。とても苦しそうな。そんな様子をアーネストは冷徹に見守っていた。 カーマインと過ごした日々が嘘のように。躊躇いなく、指先に力が篭る。手の甲に血管さえ浮き出て、渾身の力。 ギリギリと何ともいえない締め付けられる音が響く。 (・・・殺したくなんてないのに) 手は止まらない。善を失くした二匹の蛇が、アーネストの心とは裏腹に身体を動かす。カーマインを、殺そうとする。 シャドーナイトとして、命令を遂行しようと。こうならないように、あの時この屋敷から抜け出したのに。 結局、運命の歯車は廻り、止まらない。せっかく、光を見つけたのに。それなのに自分の手でそれを消そうとしている。 嫌だと抗う心と、殺せば自分だけのものに出来るという歪んだ心が鬩ぎ合って、自分の中の何かを狂わせていく。 その歪みはやがて表情として現れる。暗い影を落としながら、首を絞める男の口元には愉悦の微笑が刻まれ、 同時に血色の瞳は悲しげに涙を零していた。端から見れば非常に奇妙な光景だろう。幸いここにそれを目撃出来る者は 居なかったが。終わりが近い。カーマインの顔から血の気が失われていく。 「・・・・・・・ぁ・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・」 あと、少し。力を加えたらこの青年は絶命するだろう。分かっていてアーネストはぎりぎりのところで力を加えられずにいた。 殺せ殺せと頭の中で声が響く。しかし、心はそれに反している。それ故に、ある意味膠着状態が続く。 汗が、額から流れ落ちた。これは冷や汗か、それとも緊張によるものか。涙と混じってぽたぽたとカーマインの頬へと 下っていく。微かな刺激にずっと目を瞑って耐えていたカーマインは、うっすらと眦を垣間見せ。 泣きながら笑っているアーネストを見て、苦しいだろうにそっと、笑んだ。 「泣・・・かな・・・・で・・・・・」 ヒューヒューと息が漏れ出る音に紛れた掠れ声。胸を打つには充分すぎる響き。 アーネストの手が大きく震え、やがて力が抜ける。手が離れた細い首には、青紫の指の跡。ところどころに 爪による引っ掻き傷が出来ていて。それを見た瞬間、アーネストの口元から笑みが消えた。 代わりに零れ出たのは、静かな静かな涙。拭っても拭っても紅い瞳から透明な雫が溢れ出てくる。 カーマインは半分意識を失いそうになりながらも、その涙を見つめていた。 「・・・・泣かな・・・で・・・知って、る・・・から・・・・」 「・・・・・・・・・・?」 「腕・・・の蛇・・・見た時か、ら・・・・知って・・・た。き・・みの正体も・・・目的・・も・・・」 ごほごほと失った酸素を求めて咽る細い器官。暫く深呼吸を繰り返し、落ち着いてくるとカーマインは、そっと 自分の首を撫でながら改めてアーネストを見上げた。 「・・・・・君はシャドーナイトの・・・アーネスト=ライエル、だろう?」 「・・・・何故、姓まで知っている」 「有名だったから。シャドーナイトの暗殺部隊では一番の腕利きだって・・・・」 強いんだってね。悪戯っぽくカーマインは言う。 「ほら、俺・・・中流階級の出だし・・・養子だし・・・その割りに地位は高くて領地も持ってる。 お偉いさんはそんな俺が目障りらしい。君以外にも何度か暗殺者を差し向けられた事があるから・・・」 「・・・・・・・何故だ?」 「・・・・・・・・・?」 「俺が暗殺者だと分かった時点で、何故追い出さなかった。否、投獄しなかった」 それどころか、手厚い待遇を受け続けていた。記憶障害者として。もしかしたら、自分の事を好いてくれてるのではと そんな浅はかな考えをしてしまうほどに大切に大切に扱われた。優しくて、温かくて、穏やかな時間をくれた。 記憶など戻らなければいいのにと切に願いもした。 「・・・・何故?」 疑問の声は高まる。 「泳がせて、いたのか・・・・?証拠を手に入れるために」 「違う。君が、本当に記憶を失っているようだったから・・・・それに・・・・」 「それに・・・?」 「・・・・君になら・・・・最悪、殺されてもいいかな・・・って思った・・・・」 優しくアーネストの手を取り、もう一度自分の首へとそれを触れさせた。 「・・・・カーマイン?」 「俺を、殺さないといけないんだろう?」 「・・・・・・ッ、・・・出来ない、俺には・・・・お前は・・・・・」 殺せない、唇がその言葉を紡ぎ出すより前にアーネストに異変が起きた。いつか見たように多量に汗を掻き、 顔面が蒼白になっている。そしてまるで自分こそが首を絞められたかのように苦しげに喘ぐ。 「アーネスト?」 「・・・・呪い・・・・が・・・・・」 「呪い?!」 丁度タトゥーの刻まれた辺りを押さえるアーネストに気づいて、カーマインはその手を退けて見遣った。 初めて見た時は黒白の蛇だったというのに、今はどちらも黒。その上、そのどちらもが前に見た時よりも大きく なっている。まるで、アーネストの腕を食い尽くすかのように。 「・・・・・これ・・・・」 「・・・シャドー・・・ナイトの定め・・・。命令に背く事は・・・死を意味する・・・・」 「・・・・・・・・・ッ!」 どうやらこのタトゥーは所属の証以外に保険だったらしい、と息も絶え絶えにアーネストは告げた。 それはつまり命令に背いた瞬間、二匹の蛇が牙を剥くと言う事。毒が拡がるように、身体を覆いつくし、 そして死に至らしめる、そういう代物なのだろう。 「解き方は?!」 「・・・知ら・・ん。知ってると・・・すればあの・・・男」 ガムラン。俺に呪いを掛けた張本人だと。呟いて、アーネストはカーマインに折り重なるようにして 倒れこんだ。一瞬、死んでしまったのかと思ったカーマインは顔色悪く、隣りにある青白い顔を見る。瞼は伏せられて いるが口元にはほんの少しとはいえ息があった。カーマインは慌ててレイズを唱え、回復させようと試みる。 しかし、アーネストの顔色は戻らない。夜空を映したように蒼く。 「・・・・・ど・・・すれば・・・」 頭を悩ませたところで、カーマインには呪いの解き方が分からない。対処法が分からず、徒に時間だけが過ぎて。 徐々に弱まっていくアーネストの拍動。それに反し拡がる黒い蛇。いっそ止めを刺してやった方が親切なのではないかと 感じるほどにアーネストは苦しんでいる。どうする事も出来ないカーマインは無力感に苛まれた。 「・・・・代わって・・・やれれば・・・」 その苦痛を自分に移せたら。不可能なことを考える。が、閃いた。そうだ代わってやれば良い。 全ての苦痛を自分が彼の代わりに肩代わりすれば、彼は助かる。あくまでも仮説だがカーマインはその仮説の元に アーネストの手に護身用の小さなナイフを握らせ、手首を掴んで動かす。 「もう、大丈夫」 命令違反で呪いを受けるのであれば、命令を遂行すれば良い。苦痛のあまり、アーネストに自我がないのをいい事に カーマインは握らせたナイフを振りかぶって己の心臓を刺し貫いた。 「・・・・ッ」 ずぐりと胸にめり込んでいく銀の刃。焼けるような痛みが衝き抜け、ナイフを押し込む力に肉が引き摺られる。 鉄錆びの匂いが充満していく。冷たい刃物に生暖かい血が媚りつく。今はまだ傷口をナイフが塞いでいるため、大した量の 出血はしていない。後はこれを引き抜けば恐らく、塞き止められた血が溢れて死に至るだろう。汗さえ滲むほどの痛みに 逆に冷静になった思考でカーマインは。口端に血を滲ませて、顔色を青褪めさせて、今にも死にそうな表情で、それでも。 震えの走る指先で短い銀髪を梳く。ほんの少し、彼の顔に生気が戻っている。腕を覆う蛇の侵食も収まってきた。 自分がこのまま息絶えれば、彼は助かる。カーマインは自分こそが今苦痛の最中にいるというのに・・・・。 ―――聖母のように微笑んだ。 「・・・きみ・・・は・・・しんじゃ・・だめ、だ・・・よ?」 口の中が血の味で満ちる。貫かれた場所がどくどくと騒ぎ熱を帯びるのに反し、他からは一切の熱が奪われていく。 震えが止まらず、視界がぶれる。すぐにでも途切れそうな弱っていく呼吸、醜く掠れる声。触れたものの感触も 分からなくなっている指先。徐々に重くなっていく瞼。 「ごめ・・・ん・・・・・きみ、の・・・・手・・・よご・・・・し・・・た」 もう、意図するままに動かすことも困難になってきた手を必死に動かして栓の役割をしていたナイフを抜く。 滑る指先、肉を擦られる感触、身体の内から溢れ出ていく熱。じわりじわり服を紅く染めていく。 自分の最期は、自分の名と同じ色。滑稽だとカーマインは一度肩を揺らし、そのまま力尽きた。 闇の中で尚、輝く黒髪が放物線を描き、アーネストの上に落ちる。 ――-紅に侵食される。 一つだけ、後悔するとすれば。 ・・・・・さよならも、言えなかった。 礼儀は大切だと自分で言ったのに。 それから・・・・。 ・・・・ああ、やっぱりいいや。君はきっと困るから。 ―――もう、何も言わないよ。 ことりと、硬くなった指先が血に染まったシーツの上に・・・・空しく落ちた。 ◇◆◆◇ そよそよと冷たい夜風が頬を撫でる。 視界の端に風に煽られ揺れるカーテンが映った。 その隙間から零れるような満月が覗いている。いっそ毒々しいほどの強い金色の輝き。 普段は使われぬ、弔いの鐘が鳴り響く。 身じろげば滑る温かい何かが頬に触れ。何だと身を起こそうとしてギクリと息を飲む。初めから言葉なんて持たずに 生れ落ちてきたかのように、何事も紡ぐことが出来ない。思わず喉に手を当てた。それから、滑る頬へ。 指先に媚リついたのは、暗闇の中では黒く見えるとろみのある、液。けれど匂いで分かる。指先についているもの。 人の身体を切り裂いて溢れ出てくる――もの。 「・・・・ッ!」 嘘のように。否、嘘であれと願わずにはいられない――目前に広がる凄惨な光景。 赤々と染まったベッドの上で、それ以上の紅を纏った美しい、相貌。滑らかでさらりとした感触の黒髪にまで その紅は張り付いてた。恐る恐る手を伸ばす。一度触れようとして躊躇う。あと数センチというところでそれ以上 手が動かない。誰が見ても分かるほどに指先が震える。空いた腕で懇親の力を込めて押さえつけても、止まらない。 前に進むことを拒む。躊躇って躊躇って躊躇って。けれど。無情にも。触れた。 冷たく堅い感触。とても生きてるとは思えない、その身体。声が出ないのに何度も口を動かして止めろと叫ぶ。 言わせないでくれ、こんな残酷な言葉。そんなはずがない、見間違いだ。必死に目の前の現実から目を逸らそうとしても。 動かせない、誤魔化せない、何一つ変えられない、事実。こんなに、こんなに近くにいるのに。 ―――もう、お前はいないのか。 律儀で、生真面目で、世話好きで。物腰は柔らかいのに時折融通が利かなくて。凛としているかと思えばよく笑う。 泣いていたかと思えば、いつの間にか俺の手を引いている。自由気ままで、誰より強い鎖に繋がれたカナリアのような。 悲しい、愛しい、抱きしめたい、君は。 何処を、何度探しても、もう見つかることはない。 目の前で紅に染まって息絶えている。 自分の手に、掛かって。 血の気の失せた肌、開かない瞳、聞こえることのない呼気。 まだ何も伝えていない。感謝も、謝罪も、何度となく口を噤んだ・・・・この身に巣食う――愛すらも。 大切な言葉は何一つ彼に届いていない。届けることすら出来ない。 君を、愛していると。 ただ一言。 それすら。 闇の中に掻き消される。 半ば呆然としていると、無造作に投げ出された彼の血に染まったナイフがふと目に留まる。 使われてから時間が経っているのか、媚り付く液は既に乾き、もとは綺麗な深紅だったろうそれは変色して黒ずんでいた。 ツゥ・・・と彼の命を直接的に奪ったそれの刃を指先で辿る。かさりと乾いた血が粒上になって指の腹に付着した。 生の要素を一切失っている、モノ。指を擦り合わせていると全てが砂のように零れ落ちていく。 さらり、さらり。 落ちていく、命の結晶。 あの日、あんなに笑っていたのが何もかも幻だったかのように。 ツン、と目の奥が熱くなる。 刃が肉に食い込むのも厭わず、ナイフを握り込むと彼と同じ場所に、それを突き立てる。 あまりにも衝動的な行動だった。 ―――けれど後悔はしない。 置き去りにされた言葉を、 君に・・・とど・・・ける・・・・。 誰より愛しい、君へ。 カランと堅い金属音を聞いたのを最期に、意識は途切れた。 ◇◆◆◇ 聞いて欲しい。 俺の名は、アーネスト=ライエル。 年は22。 生まれはバーンシュタイン。 ひょんなことからバーンシュタインの影の騎士となり、多くの人を殺めた。 それは許されぬ罪。 死んだ後も決して・・・。 そしてある時、自由になることを条件にある人間の暗殺を引き受けた。 記憶を消されて。 今思えば、全てが仕組まれていたのだろう。 初めから俺に自由など与えるつもりはなく。 ターゲットも、暗殺者も同時に葬るつもりだったのだ。 暗殺者の、つまらない心を利用して。 何もかも、計算通りだったのだろう。 だから今、俺はここにいる。 君の、目の前に。 どうしても、伝えておきたかった。 有難う。 それから・・・すまなかった。 そして・・・。 俺は・・・。 君を、愛している。 ただ・・・それだけの、こと。 fin ≪BACK TOP END≫ 途中まで書いて放置してたものを2、3年ぶりに書き足したので 色々???と思う内容なのですが(オイ)これはこれで一つの完結でいいか、と 思い至りました。ナチュラルに死ネタですみません。しかし、生存話の方が もっと救いのない内容になっていたので(頭の中で)此方の方がまだ報われてるんです(何) |
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