胸壊 −ambivalence−





キシリ。

スプリングが軋む。すぐ近くに感じていた気配が遠退く。手を伸ばして引き止めたかったが、躯がぴくりとも動かない。
何か話しかけられていた気がするが、言葉として記憶に刻まれることはなかった。ただ、その声が酷く悲しげだったのは
気のせいではないだろう。俺の知っている『強く気高い彼』とは違い、何処か頼りなげで気になる彼。

それだけ彼の世界で失ったものは大きかったのだろう。ぽっかりと胸に穴が開くほどに。
幸せそうな『彼』の表情を知っているだけに余計に辛い。慰めてやることが出来ないとなれば尚のこと。
光の救世主だなどと大それた呼び名が滑稽なほど無力な自分。愛しい『彼』と同じ顔をした彼。
助けてあげたいと思うのは筋違いだろうか、思い上がりだろうか。

「・・・・・・・」

早く目を覚ましてあの寂しげな背中を呼び止めてあげたい。何が変わるわけでもないだろうけれど。
気が逸る。頬に感じる柔らかな寝具の感触を煩わしく思うほど。八つ当たりの相手にしかなれなくても。
ほんの僅かでも彼の痛みの捌け口になれるというのなら。俺はそれで構わない。
とてもとても大切な人だから。例え『彼』とは別人であっても。魂の色はきっと変わらないだろうから。
元の世界に帰れるその日が来るまでに、一つでも痛みを取り除いてやれればいい。
願い祈る声が、微かでも彼に届けばいい。

視界が白く染まる。夢の端から端が混ざり合い広がる白に埋め尽くされる。目覚めは近い。
強い力で躯を引っ張られる感覚が脳裏に浮かぶとやがて意識は浮上に向かう。
重い瞼を持ち上げれば、痛いほどの眩い光が目を射した。

「・・・・ッ」

反射的に開いたばかりの目を閉じ、数度瞬く。射し込む強い光に順応してくると、不意に誰かの声が耳に届く。
今となってはもう珍しくない、この異端集団のリーダーたる少年――兵真の。

「・・・・随分眠ってたな。大丈夫か?」
「・・・、・・・・ヒョウ、マ・・・?」
「おかしな発音で呼ぶんじゃねえよ、どいつもこいつも・・・」

どういった理屈かそれぞれ異国の言葉を話しているはずなのに、脳内に瞬時に送り込まれてくる翻訳された言葉。
恐らくエンディアという世界の特性なのだろう。それでもやはりニホン語というのは独特で、特に名前などの発音は覚えにくい。
俺に限らず彼と同じニホン語を操る者以外は大抵名前の発音に関して鋭い指摘を受けていた。

「・・・すまない。ニホン語とやらは難しいな」
「ま、ちっとは気になるけど・・・本当はどうでもいいんだけどな」
「・・・・そうか?ところで何故君がここに・・・」

今まで自分の休んでいる傍らに彼が立っている、なんてことは一度もなかったので気になり尋ねれば悩む・・・という
ほどではないが、少し間を持たせて彼は口を開く。

「・・・頼まれたんだよ、アンタのこと看ててくれって。ライエルとか言う奴に」
「・・・・・ライエルに?」
「ま、当の本人からはそれは内緒にしてくれって言われたんだけどな」

さらっと告げられて、いいのか?と思ってしまう。この目前の赤髪の少年はいい意味でも悪い意味でも正直すぎる。
これではとてもじゃないが、彼とは内緒話は出来なそうだ・・・と内心で苦笑していると少年―兵真は既に
ベッドから離れ、部屋の出入り口付近まで移動していた。

「兵真?」
「あー、もう平気だろ?俺、リィンの奴に呼ばれててさ・・・。あ、ライエルなら多分裏庭の方にいると思うぜ?」
「あ・・・・ああ、有難う」

呼び止めた真意を気づかれていたのか、兵真は去り際に例の彼の居場所を教えてくれた。後を追わねばと思っていたから
丁度いい。俺には、彼の傍にいなければならない理由がある。例え彼が拒んでも。彼を傷つけたのは、『俺』ではない俺で。
また『俺自身』もそのことで彼を傷つけてしまった。だから、償わなければならない。救ってやらねばならない。
酷い思い上がりだと言うことは勿論分かっている。それでも。心は、想いは止めようもない。

「・・・・アーネスト」

『君』が大切だからこそ、『君』に良く似た彼を放っておけない。口を衝いて出た『君』の名に微かに勇気を貰って
ずしりと少し重い躯を起き上がらせ、部屋を出る。目指すは彼がいるらしい、裏庭。聞いた話では魔物もよく
出現するらしいその場所。あるはずもないと思うが、もし彼に何か遭ったら困ると慌てて駆けた。

息が上がるほど走って、飛び出すと基地の裏には庭――というよりは、森が広がっている。確かにこれだけ自然が
広がっていれば色々な生き物がいてもおかしくないだろう。高い木々に伸びきった草花とに視界を遮られつつも
目的の人物を求めて視線を巡らせる。と。

「・・・・近づくな、と言っただろう」
「!」

横合いから投げかけられた低音に足を止める。慌てて振り返れば、やはり彼が立っていた。
背の高い木の木陰で背後のそれに寄りかかり、無造作に地面へと突き立てている剣の先には微かに血が付着している。
涼しげな顔をしているが、思った通り魔物と出くわしたらしい。一人で対して大事がないのは流石と言うべきか。
一瞥したきり白皙の面は横を向いている。分かってはいたが、歓迎されていないのを改めて痛感してしまう。
それでも、と何とか己を奮い立たせて話を繋ごうと試みる。

「・・・・、・・・・何を、してるんだ」
「・・・近づくな、と言うのは話しかけるな、という意もあってと分からないのか?」
「・・・・・・・・・・・・・」

言われずともそんなことは百も承知だったが、心が折れないわけではない。彼に言われると『彼』に言われた気になる。
だから余計に。けれど、最初から無視をしようと思えば出来たはずなのにそれをしなかった彼。首を絞めておきながらも
誰かに様子を見させたりと非情な振りをしながらも、非情になりきれていない彼にきっと彼も助けを求めているのだと。
自分勝手に解釈して距離を詰める。

「何を、してるんだ?」

先ほどより強い声が出た。彼も多少驚いたのか此方を向いている、紅い瞳。時間にすれば数秒、だろうか。
お互い無言で見合うとやがて無駄だと感じたのだろう、彼が体内の二酸化炭素を全て吐き出すような長い溜息を吐いて
静かに口を開く。遠くで小鳥が囀るのが聞こえるほどささやかに。

「・・・腹が、減ったんでな」
「え・・・?」
「この付近には、木の実が生っている・・・と聞いた」

言いながらカシッと乾いた音を立て、彼は躯の影に隠れていたらしい左手に持っていた木の実に噛り付く。
光を弾いて輝く世にも不思議な青い実。元々あるこの世界のものなのか、それとも『ナイツ』同様に異国からやってきたのか
見たこともないそれを彼は黙々と食べている。お腹が空いていた、とのことだが美味しいのだろうか。
躯が大きい割りにあまり食べる方ではない彼にしては珍しい行動の気がする。あくまでも彼が『彼』と同じ心身であれば、だが。
それともただ単に俺から離れる口実なのか。考えながらじっと見てしまっていたんだろう。彼はやや戸惑い。

「・・・、・・・・俺だって腹くらい減る」
「あ・・・いや、別にそういうわけじゃないくて・・・青い実って珍しいから」
「・・・ああ・・・」

視線の意味を納得したのか彼は一つ返事を返して口をつけていない方の木の実を軽く肩口で表面を拭うと
何故か俺の方へと放ってきた。

「・・・・え?」
「・・・やる。俺には甘い」
「お腹空いてたんじゃないのか?」

急だったのでお礼を言うのも忘れて尋ねればまた溜息。

「・・・お前は細すぎだ。俺よりよほど食った方がいい」
「えっと・・・あ、ありがと」
「別に残すのが勿体無かっただけだ」

淡々としてはいるけれど、心配をしてくれたのが分かる。彼の世界で俺は死んでしまったそうだから、
余計に気になったのかもしれないが。突き放そうと昨夜首を絞めてきたくせに、これでは本末転倒もいいところだろう。
やはり彼は何処にいても、どの世界でも優しいのは変わらない。だからこそ、そんな優しい彼にあんな真似をさせて
しまったことが心苦しい。きっと後悔しただろう、罪悪感を感じただろう。過去形でなく、今も尚。
そういう人なのだと『彼』を見てきたから知っている。一緒にしてはいけないと分かってはいるけれど。

「・・・君は嫌な奴、が下手だな」
「・・・・何のことだか」
「首。結構強く締められたから・・・跡残ってるかと思ったけど残ってなかったし、神経に傷もついてなかったし」
「・・・・・・・・・・・・」

彼の力を以ってすれば声帯を潰すことも、それこそ神経を傷つけたり、命を奪うことすら出来たろう。
それをしなかったということは、傷つけぬよう微細な加減をしてくれていたことになる。それは己を恐れさせようというには、
むしろ逆効果な気すらする。眼光鋭く、ピンと張り詰めた印象の割りに何処か鈍いというか抜けているところも
当然なのかもしれないが、『彼』と一緒なことに我知らず、肩の力が抜ける。ほんの少し前まで自分でも
おかしくなるくらい緊張してたはずなのに。

「本当・・・君って迂闊というか・・・勘違いさせるとこあるよな」
「は・・・?」
「あんまり優しいと、嫌いになるどころか・・・好きになってしまいそうだ、ってこと」

元々嫌いではないのだけれど。『彼』と同じ面差し、『彼』と同じ声、『彼』と同じ熱、『彼』と同じで優しい、彼。
嫌いになれるはずもない。それどころか一度気を抜けば『彼』と混同して、靡いてしまいそうになる。
それくらい、長い間逢えていない『彼』を恋しく思っていた。そして日が経つにつれ、その想いは肥大していく。
肥大して焦がれて、狂ってしまいでもしたら・・・いつか隣にいる彼を身代わりにしてしまうんじゃないか、と。
傍で彼への責任を果たさねばと思うものの、近づきすぎてもいけないと踏み込むことを躊躇い恐れる心も確かに在って。

「・・・、迂闊はどちらだ」
「え・・・?」

呆れたような吐息の後、響く実を齧る乾いた音。と、同時に視界に黒く影が落ちる。木陰に入ってるせいでも
分厚い雲が頭上にあるわけでもなく、人の顔が。目視出来ないほど近づいて、輪郭がぼやける。
予想もしなかった状況に置かれて驚いていると、何事か発しようとうっすら開いていた唇に触れる、熱。
しっとりと実の果汁に濡れた薄い唇が呼吸を奪う。甘いと、頭の隅で感じていると、口内に押し付けられる
果肉と湿り気を帯びた紅い舌。口付けられている、と自覚する頃には、放られた果肉はすっかり溶け、舌の味が
味蕾へと押し付けられていた。覚えのある感覚に突き放すどころか、つい縋ってしまいそうになる己を必死に
叱責するも、徐々に抜けていく全身の力。抗うことが出来ずにいると、下唇を甘噛みされる。

「ん・・・・・っ」

無理やりされていることを忘れてしまうほど柔らかく触れられて、脳裏に蘇る『彼』との情事。
つい雰囲気に飲まれるように応えかけてハッとする。彼は『彼』ではない。何度も何度も言い聞かせたのに
混同しかけた。身代わりにしようとしてしまった。今この瞬間も拒むことが出来ずにいる己の浅ましさに嫌気が差す。
『彼』に申し訳なくて、彼の意図も分からなくて、息も出来ない現状に次第に混迷を深め、気が遠退く。

「・・・は・・・・」

結局、押し返すことも出来ず膝が崩れ、倒れかけると流石に見過ごすことが出来なかったのか、受け止められる。
途端に触れる何も纏わぬ広い胸。服越しとは違う、生々しい感触。全身が心臓になったみたいに鼓動の音が
やけに大きく聞こえ、頭の中が真っ白になる。動揺し、支えてくれてたことも忘れて感情的に目前の躯を突き飛ばす。

「・・・・ッ」
「・・・・・あ」

無我夢中だったので拒絶に近い、強い力を出していた。お互い殺しきれなかった反動のまま数歩後退さる。
それでも彼は踏み止まったが、俺は持ち堪えるほどの力が脚に入らず地面に膝を着いてしまった。みっともない。
立ち上がろうにも腰が抜けていたようで、脚は震えるばかり。必死に込めた力は空回りしてへたり込んでしまう。
情けなさに顔を上げられずにいれば、足元に伸びる影。気配を感じて恐る恐る上向けば、手首を掴まれ、遠慮ない
力で以って引き上げられる。

「わ・・・・」

立ち上がらせてくれたものの、腰が抜けていては暫く歩けそうもない。気づかぬうちに表情にそんな困惑が
浮かんでいたのだろうか。彼は眉間に深い縦皺を刻みながらも俺の眼をじっと見て。

「・・・・歩けないのか」

確認の言葉にややあって首を縦に振れば、やはり吐息。けれどそれはそう長く続かず、いきなりと感じる程度には
唐突に、素早い動作で己の躯を彼の肩へと担ぎ上げられてしまった。驚いて声を失っていると彼は苦笑う。

「・・・俺に触られるのが嫌でも、暫くは大人しくしてろ」
「え・・・・」
「落としても構わないというのなら・・・好きにすればいいが」

疑問の声を上げたのは大人しくしてろという言葉に対してではない。彼に触れられるのが嫌なら、という言葉に
対してだったのだが、彼はそうとは思わなかったようだ。恐らく先ほど突き飛ばしてしまったから、触られるのを
嫌がっていると思ったのだろうが・・・そういうわけではない。嫌では、なかった。嫌でなかったから突き飛ばした。
流されてしまいそうだと、己の浅ましさも弱さも分かっているから・・・。そんな自分の弱さに彼を巻き込んでは
いけないと思ったからとっさに、掌に力を込めた。

「・・・・・・・」
「・・・・に・・・れた、か・・・」
「え・・・?」

ぽつりと。独り言だったのだろう。掠れるような小さな声で彼が何事かを口にした。
聞き返しても応えてくれる様子はない。聞かれたくないことだったのか。ずりずりと一歩歩く度に落ちていく
躯を抱え直して彼は基地へと向かう。そう離れていないはずだが、気まずいせいかたった数十メートルという
距離がとても長く感じる。何か話した方がいいのか。そういえば、何故彼は自分にあんな真似をしたのだろう。
未だ熱の冷めやらぬ唇に触れ、気恥ずかしさと背徳感が同時に湧き上がり、眉間に皺寄る。
胃の奥の方が痛む。奇妙な感覚。押し出した声が無様に掠れた。

「・・・・ライ、エル」
「・・・・・・・・・・、・・・何だ」
「・・・どうして・・・」

先ほどの行動の意味を、問い掛けて・・・止める。聞いたところでどうしようと言うのか。
どうにも運びようがない。もしも、まかり間違って好意など抱かれていたら、困ったことになる。
とはいえ、姿形はどうあれ俺と彼は昨日出会ったばかりだ。交わした言葉も少ない。
彼が『彼の世界の俺』を想っていたのであればともかく、早々懸想などされる由もないはずだろう。
首を絞めたのと同様、近づくなと言う彼なりのメッセージだったのかもしれない。それを汲み取れずにまた
馬鹿みたいに一々尋ねていては、彼にも悪い気がする。

「・・・いや、何でも・・・ない」
「・・・・・。・・・これに懲りたら近寄らないことだ。次は・・・犯すぞ」
「・・・・紳士の言う事じゃないな・・・」

あまりにもらしくない言い様に思わず苦笑が漏れる。どうしても彼は俺に近づいて欲しくないらしい。
一度ならぬ二度目の拒絶となれば、流石に抗うのもどうかという気にはなる。何度拒絶されても物ともしない、
そんな強さは俺にはない。

「・・・ごめん、・・・な・・・」
「・・・・・・・・・」

助けてあげたいなんて、俺の独りよがりに過ぎない。好きな人と同じ顔の人に拒絶されるのは、
身を切られる以上に辛い、のかもしれない。未練がましく担がれた姿勢のまま、彼の肩口を掴む指先に
力を込める。無言のまま基地へと戻る道のり。揺れる視界の端、遠く広がる青空が映る。
雲一つなく、晴れ渡っているはずなのに胸には澱が降り掛かる。

あまりにも静か過ぎる彼との間で、口の中に広がった果実の甘さが苦味に変わるまでに、
そう時間は掛からなかった・・・。



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アーネストもカーマインも天然と言うか迂闊な性格をしている気がします。
そしてライエルさん、相変わらず手が早い(笑)

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