胸壊 −ambivalence−





沈まぬ太陽の照度が落ちてくると軽く夕食が振舞われる。と言ってもかなりの人数になるため、
全員が一斉にというわけには行かず。いつも集まって食べる面々は決まっていて、それ以外の・・・所謂群れるのを
嫌う者たちが各々好きな時間に食べる、と言った方式を取っているらしい。

昨日この世界に来たばかりの俺も当然、後者の部類に入る。とは言え、初期からいたとしても恐らく・・・後者の方に
入ったろうが。別に群れるのが嫌いと言うわけではないが、大抵の人間が俺といると息が詰まるらしい。
それを今更嘆くほどナイーブな性質ではないので気にも留めないが。

配分された一人前の食料を窓際で頂く。太陽が沈まぬため、己の世界では見ることの出来る夕日や夕暮れを
この世界では見ることが出来ない。昼間と殆ど変わらぬ景色を眺めつつ、膳の上に載せられたパンを掴みスープに浸す。
行儀があまり宜しくないが、本日の料理長―ミュウとやらの勧めなので従っておく。香ばしく焼かれたパンと
トマト風味のスープの相性は確かに悪くない。まあ、食器の節約と言う目的もあるのだろうが。

食事を終えると、数刻前に口にした果実がデザートとして置かれていた。光沢放つ、自然界のものとしては
珍しい青い実。大抵のものは緑掛かっていたり、紫に近かったりするものだが・・・その実は真っ青、と言うのが
一番しっくり来るような色合いをしている。あまりにも異質な・・・不実の色。毒が含まれているのではないかと思うほど、
妙な甘さを染み入らせた果肉。人を堕落させる媚薬のような中毒性を帯びている。

「・・・この毒に・・・中てられたか」

カシリ

磨いた実を皮ごと口内に招き入れる。溢れる果汁。広がる甘さ。不実の味がする、と感じてしまうのは
彼との口付けを思い出してしまうからだろうか。柔らかい感触。いつまでも口の中に残る甘さ。冴え冴えとした
蒼は彼の左眼と同じ。煽られる。己の中で小さく燻る欲望を。ずっと、心の何処かで望んでいた。
今は亡き『彼』を己の腕に抱きたいと。喘ぎ悶え俺を求める『彼』の姿を見たいと。『彼』を永久に失ってからも。
妄念にも似た想いが、いつまでも昇華されずに胸を占め続けている。

どれほど手を伸ばしても掴めぬ星のような存在になってしまった『彼』にそんなことを思うなど愚かでしかないが。
けれど、絶望し諦めた存在と良く似た存在が突然目の前に現れた。何にも冒されぬ漆黒の艶やかな髪。
左右異なる強い瞳。女のように紅く柔らかな唇。腰の奥にまで響く甘い声。すらりと伸びた手足は縫いとめて
しまいたくなる。標本のように壁に押し付けて、乱したい。身も心も何もかもを暴えてしまえれば。

愉悦、色情。そんなものを求める、餓えた心。綺麗な君を汚したい、冒したい、己の悪で。
どんな色を混ぜても決して作り出すことの出来ない純正の白を、黒く染め上げてしまえたなら。
そんなことをしても、きっと後に酷く後悔するだろうに。

欲が疼く。大切で愛おしくて触れることすら出来なかった『彼』。堪えていた分、反動は凄まじい。
その全てが、目の前に現れた彼に向かおうとしている。八つ当たりよりも性質の悪い。
何もかもが同じで何もかもが違う、彼を。希求する。己はこんなにも弱かったのだろうか。
逢いたいと希っていた内はまだ可愛いものだった。けれど実際に何の悪戯か彼は現れてしまった。
求む心と否定する理性が、より思考を鈍くさせる。目を閉じれば混濁する、白でもない黒でもない灰色の世界。

この想いが愛と言うのなら、愛ほど醜い感情もないのかもしれない。
情愛は全ての欲の先にある。傍にいたい、触れたい、触れられたい、笑って欲しい、愛されたい、頼られたい。
欲の上で成り立つ感情。改めて考えてみると情愛ほど欲に塗れた感情もないのではないだろうか。
欲を失った瞬間、それは愛とは呼べなくなる気がする。

「・・・・・・・」

不味いことに、既に自分は彼を求めている。そうでなければ、会って一日経つか経たないかの相手の唇を奪ったり
しないだろう。あの瞬間、少なくとも自分はあの状況に陶酔すら感じていた。彼は『彼』ではない。分かっている。
それでも、本能は支配出来ない。コントロールする術を、持ってなどいない。本気の想いは、誰もが持て余す。
制御など出来ようはずがない。制御出来る内は、本気とは決して呼べないのだから。

「・・・・これもまた・・・不実と言うのか」

姿形・・・内面も変わらない相手ではあるが、彼は自分と同じ時間を過ごした『彼』ではない。
自分が知っていることを、彼は知らないということだ。同時に彼のことも自分は知らないことになる。
そんな二人が歩み寄ることは果たしてあるのか。もし歩み寄ったとしても、いつかはそれぞれの世界に戻らなくてはならない。
そしてそれはそう遠くない未来のはずで。早い話が、報われることなどないということ。

だから、傍に寄られると困る。一緒にいる時間が長くなればなるほど、この想いは加速してしまうだろう。
止めようもなく。揺らぎが本気に変わってしまえばもう取り返しはつかない。奈落の底に落ちていくだけ。
そう、理解している。それが分からぬほど馬鹿ではない・・・と思いたい。

ただ、意識していればいるほど道を踏み外すこともあるという事実は――覆しようがなかった。

目を閉じる。訪れることのない夜。けれど決して拭われぬ、己の眼前に広がる一面の闇。静かに静かに飲み込まれて
行くのを頭の何処かで感じていた。鼓動の音が酷く遠い。このまま飲まれて堕ちてしまったら・・・。
その罪を一体誰が・・・裁いてくれるのだろうか。物思いに耽りながら再び手にした果実を齧る。
甘い、毒。舌が痺れるように蕩けるように。実を口にしている間だけ、彼と交わした口付けの余韻に浸ることが出来た。
齧り、啜る。擬似行為に耽る己がいっそ滑稽で。月のない世界で己の口元だけがそっと――弧を描いていた。



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無口の人間ほどよく考える。

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